教区報
教区報「あけぼの」
「『平和の祈り』を巡って」あけぼの2019年7月号
驚かれるかもしれませんが、「ああ主よ、われをして御身の平和の道具とならしめたまえ」と祈る有名な「平和の祈り」は、聖フランシスの祈った祈りではありません。
800年前に活躍した聖フランシスの文体や言葉遣いとは違っていて、フランシスの書いた文献のどこにも、この祈りが見つからないのです。実際、彼の祈りをまとめた『聖フランシスコの祈り』(ドン・ボスコ社)や文章や祈りをまとめた『アシジの聖フランシスコの小品集』(聖母の騎士社)には掲載されていません。
『祈りの花束』(ヴェロニカ・ズンデル編、中村妙子訳、新教出版社)には「次の祈りはフランチェスコの名と結び付けられ、彼の精神を反映しています」と注が記されています。他の書籍にも、この頃は現代の研究を踏まえて同様の注が付けられるようになりました。
研究者によると、1912年に発行されたフランスのノルマンディー地方の小さな町にあった信心会が巡礼者のために発行した一冊の「Le Clochette(鈴・小さなベル)」という雑誌の中に、最初の祈りを発見できるとのこと。この月刊誌をを発行したブークェレル神父によって掲載されたのですが、説明がなく、詳しい経緯がわかっていません。祈りが他に紹介される度に手が加えられ、様々なバリエーションが作られ、日本語訳に様々なパターンが生じる一つの原因となっています。
1914年の第一次世界大戦が始まる少し前、フランシスコ会第三会の会員のために配布された御絵に聖フランシスが描かれ、その裏にこの祈りが印刷されて、多くの人々に配布されるうちに、聖フランシス作と誤解されるようになったようです。
この祈りが広く知られるようになった背景には、二つの世界大戦がありました。文字通り平和を願う人々の思いがこの祈りを広げることとなっていったのです。
この原稿を書いている6月6日は奇しくもD-day(ノルマンディー上陸作戦開始日)から75年目の日でした。英BBC放送でノルマンディーのBayeux cathedralにおいて、戦死したたくさんの人々を覚えて行なわれた記念礼拝の様子が放映され、メイ首相やチャールズ皇太子の姿が見えました。続いてたくさんの白い十字架が並ぶ戦死者墓地の前で式典が行われ、マクロン大統領やトランプ大統領がスピーチをしていました。
この祈りを調べると観念的にではなく、文字通り平和を願う祈りであったことを知らされました。
実は、私はこの祈りが苦手です。とても平和の道具になりえない者ですから、この祈りや聖歌が出てくると沈黙してしまいます。これは一つの決意の言葉です。聖フランシスの生涯がこの祈りのようでした。知れば知るほど、とてもこの方のように生きることはできないと知らされます。
どういう訳か、「私を」が「私たちを」に変えられ、どこかの企業で朝礼に「一つ○○……」とスローガンを唱えるような印象がぬぐい切れず戸惑います。用いるなら原点の「私」のままがいいと思います。
堀田雄康神父が講演で、翻訳の難しさにも触れておられます。2つ目の多く「争い」と訳される節の言語は「罪」と「赦し」が対照的に用いられているものです。
青森聖アンデレ教会 牧師 司祭 中山 茂
[参考]論文『アシジの聖フランシスコの「平和の祈り」の由来』木村晶子
講演『「平和の祈り」―その由来と翻訳-』堀田雄康