教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2021年6月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「夢を見るということ」

 

 

「牧師さんは神様を見たことがあるのですか?」先日教会を見学に来られた方に言われた言葉です。中々ストレートな質問で、どう答えたものかと考えていると、ふと幼い時の記憶が甦りました。しかもそれは、実際の体験ではなく、その当時に見た夢を思い出したのです。

 

その夢はとても不思議なもので、広い草原のようなところに自分が立っているのですが、突然目の前にとても巨大で光り輝く「何か」が現れる、ただそれだけの夢です。この「何か」が現れた後に、特に何かが起こるという訳でもなく私は目が覚めたのですが、幼い自分はその時に、自分は夢で「神様」を見たのだという不思議な確信を持って目が覚めていたことを思い出したのです。

 

そんな夢の話を見学に来られた方に馬鹿正直にお話ししたものですから、突然キョトンとされてしまい、少し気まずい空気になりました。しかし一方で私はその夢を思い出したことで、自分の信仰というものを形作るものの一つとして、確かにあの夢があったのだということを思い起こすことが出来たのです。

 

 

私は生まれたときから教会というものが傍らにある環境でしたので、洗礼・堅信も周りの大人が進める通りにしましたし、礼拝にも出ていました。しかしそこに神様という存在への確信があったかというと、かなり怪しいままに過ごしていたように思います。そんな信仰生活の中にあって、神様という存在に対する疑いを持たなくなったのは、あの夢を見た頃からだったと、今になって確信できたのです。(教会生活への反発などはこの後も続いていく訳ですが)

 

たかが夢で大げさなと思われるかもしれません。確かにこれは、はたから見れば単なる子どもの時の夢でしょうし、私の話を合理的に裏付ける何かがあるわけでもありません。しかしながら、私たちが信じる聖書の中にあって、ヨセフが夢で啓示を受けるように(マタイ福音書1章20節)、旧約の預言者達が夢幻の中で神様の言葉を預かるように、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)と記されているように、このような「不思議」の中に神様は働かれ、私たちに力と導きを与えてくれるのだと思います。

 

そしてその「夢」は私が見たような分かりやすいものだけではないのでしょう。それは時に礼拝の中に現れるかもしれません。あるいは友との語らいの中、大切な人との日常の中、楽しい時、苦しい時、私たちに現れるものかもしれません。しかしそれらの「夢」あるいは「幻」は、その人の信仰の力と礎になるものでありましょう。
 今のこの世界は、様々な目に見えるもの、見えないものからくる困難に溢れかえり、人々は即効性のある「物」や「成果」を求めています。それらももちろん必要であることは確かでありますが、しかし私たち信仰者はそこで一歩立ち止まり、自分たちに希望と力を与えてくださる方の「不思議な夢、幻」に目を向けて見ることが大切だと思います。

 

 

自分たちの信仰の原点や転換点には、必ず神様からの「不思議な夢」があり、それが私たちの推進力になっているはずなのです。それをこのような時だからこそ、思い起こしてみてはいかがでしょうか?それに神様は、そのように日々歩む私たちに、新しい「夢」をも与えくださることでしょう

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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