教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2023年10月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「安心しなさい。わたしだ。~主を見つめて」

 

 

この世の組織やご家庭、個人の人生はしばしば船や船旅にたとえられます。船は力を合わせ、同じ方を向いて漕ぐと前へ前へと進みます。そうしないと船はやがて沈んでしまいます。教会もまぎれもなくこの世をひたすら進む救いの箱舟です。目的地は「天の国」に他なりません。そして今その船に「漕ぎ悩む」という状況が起こっています。教役者と信徒、そして教会に連なる全ての人々がともに「今できることをしましょう」と力を合わせ、一生懸に命漕ぎ続けていますが中々進みません。教会はいつの時代も思い悩んで進み、それが教会の宿命なのかとさえ感じるのですが、この状況は主イエスと実際に歩んだ弟子たちも経験したことだと気づきます。それはマタイによる福音書の14章22節以下の「湖の上を歩く」主イエスの話に見られます。

 

この話は当時の教会の姿が重ねられていると解釈されています。ガリラヤ湖に漕ぎ出した舟は、誕生したての教会を表し、主は「強いて」弟子たちを舟に乗せ、自分は舟に乗らず彼らを先に行かせました。このことは、弟子たちがそれまで主とずっと一緒だったのに、主は、あれよあれよという間に、十字架につけられてしまい目に見える主がおられなくなったことを示していると解釈されます。弟子たちは復活の主との出会いがあったとはいえ、大きな恐れと不安を抱えました。主の姿の見えない中、教会という船を漕ぎ出したのですが、なかなか前へ進みません。逆風が吹き、波が行く手をさえぎります。この様子は、当時の教会に対する迫害や内部の問題と捉えられます。そこに湖上を歩いて主が船に近づかれ、弟子たちは恐れおののきますが、主は「安心しなさい。私だ。」と言われます。ペトロは自分も主に近づこうとして湖上を歩き始めますが、周りの状況に心が奪われ主から目をそらした瞬間溺れそうになります。主はペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」わたしは共にいるではないかと叱咤し、主は一緒に舟に乗り込むと、風も波も静まり舟はまた進み始めたという話です。ここに普遍的な真理と私たちの教会に対するメッセージがあります。

 

私たちも使命を果たすために、一生懸命に舟を漕ぐ中、目に見える姿の主イエスはおられません。この世の荒波がもろに教会に吹き付けます。教会の中にも科学万能、合理主義、経済優先の考えが求められることもしばしばですが、舟の前に立っておられる主イエスから決して目を逸らさぬようにしなければなりません
とはいえ私たちは、どうしようもない弱さを持っていて、神さまを試みてしまったり、疑ってしまうことさえあります。頭で理解しつつも、決断を迫られる時ほど、不安や新しいことへの恐怖からか、心配を先取りし、神さまへの信頼を見失ってしまいがちになってしまいます。主は、そのような私たちに「信仰の薄い者よ」と言いながらも、溺れそうになる私たちを、捕まえてくださいます。私たちにできることは、まず今こそ「ほんとうに、あなたこそ神の子です」という信仰を確かめ、心から礼拝を懸命に捧げることだと思うのです。主イエスから目を逸らさずに、開き、ささげ、勇気と希望をいだき前に進んでまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会 牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

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