教区報
教区報「あけぼの」
あけぼの2022年11月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「ザアカイさんと十字架」
特定26(11月2日に近い主日・週日)の福音書に登場するザアカイから黙想します。テーマは、「本当の自分とは何者か」です。
彼は年齢不詳の税金取り立て役人、徴税人の頭で金持ちです。その世界では立場ある身分ですが、世間からはローマ帝国の回し者、イスラエル人から金をぶんどる悪人で嫌われ者です。親友とか気心の知れた友人はなく背が低い。それゆえにいくつものコンプレックスを持っていて、後ろめたさや申し訳なさ、不満、気後れなどが心中に鬱積していたでしょう。さびしいよと声に出さずに呻いていたかもしれません。そのように見受けられます。
そんな彼の前に、うわさのイエスさまが出現してきました。運良く目の前にそのお方がいます。彼は衝動に駆られます。ここぞ、とばかりに彼は走ります。彼の心の内にある呻きに突き動かされて行動となって表出します。彼は走って先回りをし、背が低いため、前に立ちはだかる人たちに遮られて見えないから、イチジク桑の木に登るのです。一生懸命になると、機転が利きます。障がいを乗り越えるのにそこにあるものを何でも利用する、そこにあるものが実は役に立つということのようです。木に登ると目線の高さが変わります。俯瞰するとそれまで見えていなかったものが見えてきます。全体を眺められると余裕も生じて、視点が変化します。こうして、彼はイエス様を発見し出会います。そして彼のもの凄く熱い視線がイエス様に降りかかっていきます。
人の魂に敏感なイエス様は、放射されている魂の波長を感じて、ザアカイにお声を掛けます。人の心の根底にある渇望とか要望に100%応じるイエス様がここにいます。
「ザアカイさん、急いで降りてきたらどうです。今日は、私はあなたのお宅に泊まることになっています。」これはイエス様からのお応え、お招きの優しいお言葉です。「……ことになっています」は神の必然です。それは神のみ業ということで、イエス様とザアカイの間で神様のみ業が遂行されます。
この出会いでザアカイは生まれ変わります。イエス様の言葉が、実はザアカイの本当を引き出すきっかけとなります。ザアカイの本当とは、すなわち貧しい人への施し、欺していたことへの償いです。つまりは、彼の本音が飛び出してきたのです。彼の本当の喜びが見つかった瞬間です。彼の喜びの大きさが、生き方の大変化へと繋がっていくことは明らかです。
「今日、この家に救いが生じた」これは究極の宣言です。自分の本当によって生きることほど幸せなことはありません。これ以上に嬉しいお言葉はないでしょう。
イエス様はイチジク桑の木の下に立ち、ザアカイを見つめます。私たちは十字架の下に立ちイエス様を見上げています。十字架の下には2種類の人が立っています。「神の子なら、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とののしる人と、そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言う人です。イエス様が木に登っているザアカイの隠れた真の生の要望を満たされたように、私たちも見上げた先におられる方のみ心・み旨に触れ、目覚められたら誠に幸せです。
青森聖アンデレ教会牧師 司祭 フランシス 長谷川 清純