教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2022年12月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「神は人を自分のかたちに創造された。(創世記より)」

 

 

10月に人生初の入院をしました。左掌に瘤状のものができ、関節や腱を滑らかに動かすための滑油が溜まる「ガングリオン」という腫瘤だろうと思いしばらく放置していましたら、人差し指と中指にしびれや痛みがおこりだしました。右手は使えるのですが仕事や生活に支障をきたすようになり受診したところ、「血管腫」という腫瘍であることがわかりました。良性腫瘍でしたが、痛みなどは神経が圧迫されているからということで、手術を受けることになりました。手術は約2時間ほどでしたが総延長(?)約10センチほどメスが入ったので、家に帰ってから大量の出血があってはまずいからと1泊入院となりました。いつ退院できるのかわからないということではないので、入院とはいってもそれほど緊張することはなかったのですが、これまで入院されている方をお見舞いした時とは反対の視点で、病室の天井を見つめることになりました。しかも腕には点滴の管が刺さっていますので不自由な状態です。入院されていた方たちはこういう視点で訪れた私たちを見ておられたのだなと、少しだけですがその気持ちがわかった気がしました。

 

わたしは元来暢気すぎる傾向があり、不調を覚えてもすぐに受診することはありませんでした。しかし気が付けばもう高齢者の域に達しており、今回も術後に運転ができずに多くの方にご迷惑をおかけしてしまいました。改めて自分のためばかりではなく、体は大事にしなければいけないと思わされた経験でした。

 

話は過去に飛びますが、牧師になる前に働いていたところは教会関係の保育園で、保育士の約8割が信徒という職場でした。様々な教派の方が在職していましたが、その中には福音派の方もいて、職員旅行などでアルコールが出てきても口にすることはありませんでした。聖公会では牧師もお酒を飲んだり、タバコを吸う人がいることに驚いていましたが、ことあるごとに「神様から与えられた体を傷つけたり、汚したりしてはいけないと教えられている」と話していました。聖公会の面々は「ずいぶん厳しいね」とか「イエス様だってのんでたんだよね?」とかささやいていましたが、食物規程のようなものは別として「神様から与えられた体・命」ということは教派ごとの考えに関係なく、心に留めておかなければいけないことだと思います。もしかしたら健康に少し無頓着な私からは、いつの間にか「神から与えられた」という大事なことが抜け落ちていたのかもしれません。私ばかりではない。周りの人たちもすべて神から命を与えられた存在として見つめることができたなら、世の中はもう少し平和になるのかもしれませんね。命も体も私のものであるようで私のものではない。そのことを忘れたり、知ろうとしないのはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。

 

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」という少年からの疑問に対して、答えに窮した大人がいたという話を聞いたことがあります。「法律で決まっているから」だけでは愛がありません。「神様がお与えくださった命だから」という答えも、すぐには受け入れられないでしょう。それでもあきらめることなく、主の平和のために伝え続けることが信仰であり、宣教なのだと思います。

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

あけぼの2022年12月号全ページはこちら