教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2022年7月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「新しく創造される」

 

 

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤの信徒への手紙6章15節)。このみ言葉は2000年前のイエス様の復活と聖霊降臨から始まった教会が、その最初期の宣教の現場にあって、過去のユダヤの伝統や決まり事(律法)の間で四苦八苦しているのに対して、パウロが送っている言葉です。これは同じ教会の中にあってもいまだ古い伝統(割礼)に拘り、新しい一歩を踏み出せずにいる人々がいることに対して、本当に大切なことは主イエスの十字架の他に誇るものが無い、新しい道へと創造されていくことこそが大切であるとの教えであると思います。

 

それはまさに古いものが一度壊されて、新しいものが創造され始まっていく。そんな最初期の教会が歩んだ道を示唆するものであり、現在の私たちもまた、その新しい創造されたものとして同じ道に入っているのでしょう。しかしここでふと思うことがあります。それはこの聖書の中で起こっている「新しく創造されること」とは、実は今も起こり続けていることであり、起こり続けていなければならないことではないかということです。

 

 

料理人や伝統芸能・工業などの世界に「守破離」という言葉があるそうです。これは人が修行して行く過程を示すもので。「守」はひたすら伝統を守りその教えを吸収すること。「破」はその伝統や教えを一度壊すこと、そこに拘らないで取り組むことを意味し、「離」で自分自身という「個」を完成するということだそうです。

 

ここで面白いのは、こういった伝統あるものについて。外から見る私たちにとってのそれは、実はあまり変わっているようには見えないことが多いという点です。それは長い伝統があるものほどそう見えます。でも実際にはその伝統の中では、脈々と「守破離」が繰り返されて、新しい破壊と創造が行われている。目にはみえにくい部分で確かに「変わり続けている」からそこ、それらのものは、現実を生きる私たちにも受け入れられ「良いもの」とされているということです。

 

これは私たちもそうなのではないでしょうか。私たちの教会・教区あるいは故人の信仰にはそれぞれ歴史があり、そこには伝統と呼べるものがたくさんあることでしょう。でもそれは決して「不変」のものでも「不壊」のものでもなく、「変わり続けていく」「新しく創造され続けていく」ことが大切なのだと思います。

 

またもう一つ大切なことは、この「守破離」をなしていく上で大切なのは「確かな芯」がなければならないということです。どんな伝統あるものでも、そこに確たる「芯が」なけえれば、「守破離」の課程でそれは全く別のものに変質してしまうことでしょう。でもそうはならなかったから、それらは今も存在し続けている。

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そしてそれは私たちの教会にあっては、最も確かな「主イエスという芯」があることも示しています。どんなに私たちが、それぞれ「守破離」をしても、そこに主イエスという「芯」があり続ける限り、それは「良いもの」であり続けることでしょう。

 

 

今私たちは色々な意味で過渡期を迎えているように思います。そんな時代の中で私たちが「イエスの弟子」として立ち続けるためにも、一度それぞれの「守破離」と「新しく創造されること」に思いを寄せてみては如何でしょうか?

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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