教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2023年7月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「『信じる』ということ」

 

 

去る2006年4月6日、米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフィック協会」が、1700年前の幻の福音書と呼ばれる「ユダの福音書」の写本を解読したと発表しました。これは2世紀に異端の禁書とされた写本で、3~4世紀に書かれたといわれ、1970年代にエジプトで発見、現在はスイスの古美術財団で管理されているものです。

 

この解読によると、イエスの十字架の出来事の前にあったとされるイスカリオテのユダの裏切り、すなわち彼がイエスをローマの官憲に引き渡したのは、実は裏切りではなく、イエスの言いつけに従った結果であると記されています。イエスは、他の弟子とは違い、唯一、教えを正しく理解していたユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自ら官憲に引き渡すよう指示したというのです。

 

これが史実なら、聖書の記述を覆す歴史的な大発見ともいえそうですが、イエスが捉えられたのはユダの裏切り行為なのか、あるいはイエスの指示なのかによって、私たちの神への信仰は変わってしまうでしょうか。

 

 

1998年、エルサレムに行く機会を得ました。エジプトからカナンへ、そしてガリラヤからエルサレムへという聖書の歴史に触れる旅です。その途中、エジプトの考古学博物館を訪問しました。

 

そこには出エジプトの際のエジプト王ファラオの像があり、出エジプトの出来事についての彼の言葉が綴られています。それは「奴隷状態にあった民の数が増え、これ以上放置しておくと暴動を起こしかねないから、彼らをエジプトから解放した」という主旨でした。

 

出エジプトの出来事は神とその使者モーセの導きによるのだという聖書の記述と、考古学博物館にあるファラオについての既述、どちらが「正しい」のでしょうか。

 

同じ聖地旅行でエルサレムにあるイエスの墓も訪ねました。一般には、現在、ローマ・カトリック教会や正教会が管理する、旧市街区の聖墳墓教会がそれだといわれています。しかし実はもう一つ、英国教会が管理し、プロテスタント諸教会がイエスの墓だと“主張”している「園の墓」があります。今後、どちらが「本当の」イエスの墓であるかが解明されたとして、その結果によって、私たちの信仰は由来でしまうのでしょうか。

 

 

信じようとする対象に、信じるに値する保証、根拠があるかどうかを見定めてから信じるのは、どこまでもその行為の中心に「私」があるとき。対して、たとえ保証や根拠がなくても、さらに言えば可能性が限りなくゼロに近くても、信じるという行為そのものに希望を見出すことこそが、「信じる」ということの内実だと思うのですが如何でしょうか。

 

ユダの行為が裏切りでなかったにせよ、出エジプトの出来事が聖書通りでなかったにせよ、イエスの墓がどこであるにせよ、死さえもがあなたにとっての致命傷でないのだというご復活の種の声に希望を見出し、信じる者でありたい、そう思います。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 八木正言

 

あけぼの2023年7月号全ページはこちら