教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2025年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「一歩69cmの繰り返し」

 

 

伊野忠敬。江戸時代に徒歩で日本列島を縦断し、日本で最初に実測地図を作った人物です。忠敬は、下総の国(千葉県)佐原にある造り酒屋、伊能家に17歳の時に婿養子に入ります。以来、酒屋の仕事に精を出してきました。婿入り当時、伊能家の家業は危機的な状態にありましたが、忠敬は約10年をかけて経営を立て直し、さらに家業の拡大にも成功しました。当時、忠敬は50歳。

 

人生50年と言われていた江戸時代。しかし忠敬は何と50歳になってから、小さい頃の夢、天体観測にチャレンジを始めるのです。長男に家督を譲り隠居、天文学を本格的に勉強するために江戸へ出て、浅草にあった星を観測して暦を作る天文方暦局を訪ね、当時の天文学者の第一人者・高橋至時に弟子入りします。このとき師匠の高橋至時は31歳、忠敬は50歳です。当初、高橋至時は、忠敬の入門を”年寄りの道楽”だと思っていましたが、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、いつしか至時は弟子の忠敬を「推歩(=星の動きを測ること)先生」と呼ぶようになります。こうして歳の離れた師弟は深い絆で結ばれるようになりました。

 

 

忠敬はなぜ地図を作ろうと思ったのでしょうか。それは、地球の大きさを知りたかったからだと言われています。この初心をもって55歳の時、すなわち1800年4月19日、忠敬は測量の旅に出ます。測量といってもこの時代に機械はありません。人の足と方位磁石を頼りに綿密な海岸線を描いていくという、気の遠くなるような作業が続けられました。3年をかけて北海道、東北、中部地方の測量を終え、江戸に戻った忠敬は、本来の目的であった地球の大きさ計算に取りかかりました。その結果を、後に師匠の至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、二人は手を取り合って歓喜したといいます。しかもこの時、忠敬が導き出した地球の外周と、現在のGPSとスーパーコンピューターで計算した外周の誤差は、0.1%以下という驚異の精度でした。

 

50歳になっても夢をあきらめなかった伊能忠敬。55歳から17年間、一歩一歩踏み出し続け、地球一周分を歩き抜いた伊能忠敬。考えてみると、彼の人生は、夢に向かって一直線に突き進んだわけではありませんでした。それどころか夢とは何の関係もない、婿入りした先の酒屋の仕事に精を出した人生でした。自分を取り巻く環境を受け入れ、その時にできることを精一杯やり続けたのでした。家族を大切にし、承認として客を大切にしました。彼は直接に売り上げに関係なくても、客のためにできることがあればしてあげたと言います。私財ををなげうって地域の人々を助けたこともありました。そんな彼だったからこそ、夢であった天体観測を超えて、最終的に、夢にすら描いていなかった『大日本沿海輿地全図』の完成という歴史的大偉業へ運ばれたのかもしれません。

 

忠敬の一歩は69cmであったと言われています。忠敬は計測のため、日本全国を完璧に同じ歩幅で歩き通しました。つまり、右足、左足で足してぴったり138cmで歩く訓練をしたそうです。その執念が正確な地図として実を結んだのでした。

 

夢に生きるとは、やりたいことだけをやることでも、好きなことだけをやることでもないようです。目の前のことすべてを受け入れ、そのときにできるわずか69cmの一歩を踏み出し続けること…。「神の目は人の道に注がれ/その歩みのすべてをみておられる」(ヨブ記34:21)のです。

 

 

仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

 

 

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