教区報
教区報「あけぼの」
あけぼの2025年10月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「『私』を受け入れてくださる主イエスの愛」
教区報2024年3月号の巻頭言で私が日頃関わらせていただいている教誨師の活動について書かせていただきました。8月28日(木)から29日(金)まで、法務省で開催された「教誨師中央研修会」に参加してきました。
この研修会は、教誨師として委嘱されてから5年未満で、中央研修会に出席経験のない教誨師を対象としております。私は5年前に委嘱されましたが、コロナ禍もあり、しばらく研修会が休止されていたので参加することが出来ずにおりました。今回は機会を得て大変良い学びのときが与えられました。全国から研修生とスタッフ関係者合わせて約100名、教宗派は仏教、神社本庁、天理教、キリスト教です。プログラムは基調講演とグループに分かれての討議の二本柱でした。私のグループ討議のテーマは「被収容者(受刑者)の再犯を防ぐために教誨活動で何が出来るか」でした。被収容者の中には、罪を犯した自覚がなく、自暴自棄になっている方もいるという話も伺いました。そのような方とどのように向き合っていけばよいのか皆さん悩んでおられ、「ただひたすら聴く」「雑談をする」「褒める」「とにかく対話をする」といった日頃の教誨活動を紹介していただきました。罪の自覚がない方の話もまずはひたすら聴き、徹底的に向き合っていくことによって、少しずつ自らが犯してしまった罪の重さに気づき自覚していかれた方もいたそうです。教誨活動においても「傾聴」がいかに大切なことであるかを思い出しました。2024年東北教区宣教協議会からは「神のみ声に、人々の声に、そして世界の声に耳を傾けよう~となりびととなるために~」と呼びかけが出され、教区では今年は「聴くこと」を大切にいきましょうという働きかけが展開されています。そして、この「聴くこと」はキリスト教に限らず、仏教、神道、天理教も共通していることを知り、日本聖公会の方向性は間違っていないと再認識することが出来ました。中央研修会でも聖公会の取り組みを紹介し、皆さんが共感してくださいました。
被収容者の方の多くは普段は自分の話をすることはあまりなく、話もこちらから一方的に話すことがどうしても多いのですが、それはこれまでの人生の中で話を聴いてもらったという経験に乏しいことに起因しているようです。「お前の話など聞く価値がない」「聴く時間は無駄」などと人格を否定され、暴言、暴力を受ける環境の中で、自分は生きていても意味がない、誰からも必要とされていないと心を閉ざし、自暴自棄になって罪を犯してしまった方が多いのです。私たちは自分の存在を誰かに認めてもらいたい、「私はここにいます」という心の切なる叫びを聴いて欲しいという思いは誰しもが持っていると思います。聖書に記されている主イエスと出会った人々もみなそうでした。天台宗の僧侶の方が「縁さえ整えば人は誰しもが罪を犯す」と仰っていました。本当にそうだなと思います。私たちは神の御心に背くという現在を持ってこの世に生を受けていることを、日々自覚しなければならないと覆います。しかし、主イエスはそんな私たちのもとへ寄り添い、留まり、「私」のすべてを受け入れてくださるのです。私は今後の教誨活動を行う時に、聖書の教え、主イエスの愛を話す時間も大切にしながら、被収容者の話に耳を傾けることを大切にしていきたいと思います。
盛岡聖公会 牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也