教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2025年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「野菜売りのおばさん。」

 

 

これはまだ教会で暮らしていた頃の、ある夏の思い出。

 

チリリン・チリリンと鳴るドアベルの音を追いかけるように「お早うございま~す」と、野菜売りのおばさんの声。台所にいた妻が、すかさず「ハ~イ」と応えて、パタパタパタと廊下を小走りに走ります。いつもの我が家のドラマの始まりです。

 

今朝も小柄で陽気な野菜売りのおばさんが、自分の畑で育てた旬の野菜をリヤカーに積んで、1人で引いてきてくれました。近くに八百屋さんがないので大助かりです。昨日会ったばかりなのに、野菜売りのおばさんと妻は、積もる話でもあるのか、リヤカーを間に挟んでのおしゃべりが楽しげに弾んでいます。その笑い声に惹かれて私もリヤカーに近づくと「あら、旦那さん。お早うございます。今日も絶好調ですよね。」と、私のセリフを先取りして言ってくれたおばさんは「旦那さん、葉生姜ありますよ。うす切りにして味噌漬けにすれば、お昼には食べられますよ。さっぱりしておいしいから。鉄分もあるからさ。」と思いやりと笑顔がタッグを組んで漕ぎ三与久開店するのに感心していると、「ところで旦那さん。お宅の人数は何人です?」とおばさんが聞いてきます。私は「夫婦と娘の3人ですが。」と答えると、エプロンのポケットから取り出した赤い表紙の手帳に何やらメモをしているので、「おばさん、どうしたの。」と聞くと、「今年はおいしいトウモロコシがたくさんできたもんだから、日頃お世話になっている町内のお得意さんに1人1本ずつプレゼントしたいと思ってね。それで人数を聞いたんです。明日、トウモロコシ持ってきます。」

 

 

翌朝、チリリン・チリリンドアベルが鳴り、「お早うございま~す。」と張りのある野菜売りのおばさんの声。「旦那さん、約束のトウモロコシ持ってきたんよ。」と言いながら、リヤカーに積んできた大きな竹籠の中を探していましたが、やがて「ありました、ありましたよ。」と額の汗を拭きながらの、おばさんの声。手渡されたビニールの袋には、何と黒色のマジックペンで「キリスト」と書かれていました。「おばさん、私はキリストじゃないよ。」と言うと、「佐藤さんはこの辺りには多いもんですから、キリストと書いておけば間違いっこないからね。」と、明解国語辞典。そういうことだったのかと納得してビニールの袋の中を見ると、トウモロコシが4本見えたので「おばさん、うちは3人家族だから1本多いよ。」と言うと、「なんの、なんの。間違いじゃないよ。お宅にはキリストさまがいらっしゃるでしょうか。1本はキリストさまと一緒に召し上がれ。」と言ってくれた、おばさんの笑顔がうれしい。それまで、私の家族は3人とばかり思っていましたが「お宅には、キリストさまがいらっしゃるでしょう。」の、野菜売りのおばさんの声に、主はいつも共におられることを気付かされた次第でした。

 

「おばさん、今日はトウモロコシをありがとう。」「なんも、なんも。こちらこそさ。明日またきます」とおたがいの感謝の言葉が行き交います。野菜を乗せたリヤカーの重みを残しながら、1歩ずつ、ゆっくりゆっくり前へ進んでいくおばさんを町角に見えなくなるまで見送りながら「主がその手をとらえていてくださる。」(詩編37編24節)の思いが、からだいっぱいに広がってまいりました。

 

 

元東北教区主教 主教 ヨハネ 佐藤 忠男

 

 

 

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あけぼの2025年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。」(創8:21)

 

 

最近あまりテレビを見なくなってきましたが、これは必ず見ようと思う番組のひとつにNHK地域局発番組「限界集落住んでみた(仙台局制作)」があります。ディレクターが限界集落と呼ばれる地域に1ヵ月間滞在し、住民と交わり、その地域の生活を体験するという内容です。先日の番組は宮城県伊具郡丸森町筆甫地区北山集落からのものでした。町の中心部からは、かなり離れた山間の地域です。取材者は地区の公民館や集会所に間借りし、自炊しながら生活します。そこに「ちゃんと食べてるか?」と差し入れに来てくれる地元の方々にほっこりさせられますが、どこの集落でも共通する話題は過疎化のことです。「自分たちはここで生まれ育ち、ここが好きだから離れるつもりはないけれど、若い人たちには住みにくいんだろうな。」と寂しく笑う人たちの姿はどこの集落にも共通したものがありますが、次の一言にハッとしました。「それでもな、ほんとはもっと人がいたはずなんだ。それがあの放射能の事故で……帰ってこない人も多いな。」確かに原発事故の当初には丸森町の一部にも避難指示が出ていたことを思い出しました。原発事故の被災地というと福島県浜通りが思い浮かびますが、飛散させられた放射性物質が人間が引いた県境で止まってくれるはずもなく、ここも原子力災害被災地だったのです。

 

わたしは東日本大震災以降被災地訪問が可能になったところには教会のメンバーを誘ったり、個人的に出かけたりしていましたが、ここ数年あまり行くことができていません。福島に勤務していながら浜通りにも行っていません。もちろん街中に入ることもできない時期がありましたが、現在主要道路はほぼ通行可能になり、わずかながら人も戻ってきています。行くだけ行ってみようかと思い立ちました。

 

浪江町役場周辺では人通りも多く、街頭の線量計もそれほど高い数値を示していません。しかしそこに至る山間部の道路上では除染はされているのでしょうが1.00(μSv/hでしょうか?)近くかそれ以上を示しています。道路わきには避難以降住民が戻っていないことを思わせる草生した住宅が点在しています。それにどこかの集落に続きそうな脇道には「帰還困難区域につき通行止め」の標識が何か所も設置されています。ある程度戸数がある集落では除染がなされ、生活されている人もおられるようですが、ここでも小さな者は見捨てられてしまっているのでしょう。誰もが完ぺきな除染などできるわけがないと思っていたでしょうが「すべて除染する」と国は言っていなかったか、と悶々としながら大熊町に入ると、国道沿いでも原発近くでは線量計が「2.00」以上を示していました。「まだ終わってなどいないのだ」と改めて思い知らされました。地震や津波は、仕方がないとは言えませんが、防ぐことはできません。でもその時に命を守る努力、備えをすることはできます。

 

原発も防災に努めていたのでしょう。しかし万が一の時のリスクは軽く見ていたとしか思えないのです。放出された放射性物質のひとつセシウム137の半減期は30年。何もしなければ「帰還困難」はまだ続くのです。こんなことが複数箇所で起こったら、考えるだけで恐怖しかありません。@資源のない日本は原発も使わなければいけない。温暖化抑制にもなる」そんな声が大きくなっています。今だけの便利のためにその声に流されるのか、将来を見据えて否と言えるのか。不便も貧しさも受け入れることができるのか。それが私にも突き付けられています。

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

 

 

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あけぼの2025年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「一歩69cmの繰り返し」

 

 

伊野忠敬。江戸時代に徒歩で日本列島を縦断し、日本で最初に実測地図を作った人物です。忠敬は、下総の国(千葉県)佐原にある造り酒屋、伊能家に17歳の時に婿養子に入ります。以来、酒屋の仕事に精を出してきました。婿入り当時、伊能家の家業は危機的な状態にありましたが、忠敬は約10年をかけて経営を立て直し、さらに家業の拡大にも成功しました。当時、忠敬は50歳。

 

人生50年と言われていた江戸時代。しかし忠敬は何と50歳になってから、小さい頃の夢、天体観測にチャレンジを始めるのです。長男に家督を譲り隠居、天文学を本格的に勉強するために江戸へ出て、浅草にあった星を観測して暦を作る天文方暦局を訪ね、当時の天文学者の第一人者・高橋至時に弟子入りします。このとき師匠の高橋至時は31歳、忠敬は50歳です。当初、高橋至時は、忠敬の入門を”年寄りの道楽”だと思っていましたが、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、いつしか至時は弟子の忠敬を「推歩(=星の動きを測ること)先生」と呼ぶようになります。こうして歳の離れた師弟は深い絆で結ばれるようになりました。

 

 

忠敬はなぜ地図を作ろうと思ったのでしょうか。それは、地球の大きさを知りたかったからだと言われています。この初心をもって55歳の時、すなわち1800年4月19日、忠敬は測量の旅に出ます。測量といってもこの時代に機械はありません。人の足と方位磁石を頼りに綿密な海岸線を描いていくという、気の遠くなるような作業が続けられました。3年をかけて北海道、東北、中部地方の測量を終え、江戸に戻った忠敬は、本来の目的であった地球の大きさ計算に取りかかりました。その結果を、後に師匠の至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、二人は手を取り合って歓喜したといいます。しかもこの時、忠敬が導き出した地球の外周と、現在のGPSとスーパーコンピューターで計算した外周の誤差は、0.1%以下という驚異の精度でした。

 

50歳になっても夢をあきらめなかった伊能忠敬。55歳から17年間、一歩一歩踏み出し続け、地球一周分を歩き抜いた伊能忠敬。考えてみると、彼の人生は、夢に向かって一直線に突き進んだわけではありませんでした。それどころか夢とは何の関係もない、婿入りした先の酒屋の仕事に精を出した人生でした。自分を取り巻く環境を受け入れ、その時にできることを精一杯やり続けたのでした。家族を大切にし、承認として客を大切にしました。彼は直接に売り上げに関係なくても、客のためにできることがあればしてあげたと言います。私財ををなげうって地域の人々を助けたこともありました。そんな彼だったからこそ、夢であった天体観測を超えて、最終的に、夢にすら描いていなかった『大日本沿海輿地全図』の完成という歴史的大偉業へ運ばれたのかもしれません。

 

忠敬の一歩は69cmであったと言われています。忠敬は計測のため、日本全国を完璧に同じ歩幅で歩き通しました。つまり、右足、左足で足してぴったり138cmで歩く訓練をしたそうです。その執念が正確な地図として実を結んだのでした。

 

夢に生きるとは、やりたいことだけをやることでも、好きなことだけをやることでもないようです。目の前のことすべてを受け入れ、そのときにできるわずか69cmの一歩を踏み出し続けること…。「神の目は人の道に注がれ/その歩みのすべてをみておられる」(ヨブ記34:21)のです。

 

 

仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

 

 

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