教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2020年10月号

巻頭言「ハレルヤ、主とともに行きましょう」

 

 

近頃はメールや携帯電話などで連絡を取り合うことが多くなり、教会の電話、家の電話共に鳴ることが少なくなりました。そんな中で、明らかに何かの勧誘(0120から始まる番号など)以外の、未登録の番号からの電話は「教会への問い合わせかも」と勇んで出るようになっています。

 

8月7日にそんな電話がかかってきました。夕の礼拝間近かの時間でしたが受話器を取ると、高齢の男の方で、しかも少し酔っているのか、かなり聞き取りにくい声が聞こえてきます。

 

「俺の○○(お袋?)がクリスチャンでよお。一所懸命教会に通ってたんだ。だから俺もキリスト教は好きなんだけどな。」(私)「そうなんですか。ありがとうございます。」「それでな、夕べNHKで原爆の特集やってたんだけどな、原爆積んだB29が飛ぶ前に何で牧師が祈ってるんだ。これから原爆落としに行くっていう飛行機のためにキリスト教は祈るのか!」と、急に語調が変わり、こんな思いをぶつけられました。そんなこと言われてもなぁ、という思いと、礼拝前に長くなりそうだなという思いが交差しましたが、昔のこととはいえ、好感を持っていたキリスト教の牧師が広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」出発に際して祈っていたということは、かなりショックだったのでしょう。しかも話を続けるうちにわかったのですが、その方は核兵器反対の運動をされている方の様でした。

 

電話の向こうからは「何でだ!どうしてだ!」という声が響きます。大した知識もないことで困りましたが、「旧日本軍にも従軍僧がいたように、キリスト教国の軍隊には従軍牧師という人たちがいるのです。その牧師は原爆のことは知らなかったんじゃないかな。これから大事な作戦に出るから、乗員と作戦成功のために祈ってくれと言われたら、祈るのは当たり前だったのだと思いますよ。」と答えましたが、納得してもらえません。引き続き「それにな、俺は反対運動一所懸命やってるけど、キリスト教なんかどこも出てきたことねーじゃねーか。平和、平和とか言っても何にもやってねーだろ」とまくし立てられ、「いや、教会だってやってますよ。核兵器の問題だって世の中に、世界に向けて反対を表明してます。」このあたりから私も少し熱くなってしまい、しばらく不毛な議論が続いてしまいました。最後には「バカヤロー!死ね!」と電話を切られ、「平和運動をやってる人が、初めて話した相手に死ねとは何事か」と怒りながら礼拝堂に向かいました。落ち着かない心で礼拝することになりましたが、ふと会話の中で「(教会の)中だけでやってちゃだめなんだよ。」といわれたことを思い出しました。彼が教会のことをどれだけ知っているのかはわかりませんが、確かに教会の中だけで盛り上がって、何かを達成したかのように思ってしまっている部分がないわけではないな。と気が付かされました。

 

 

聖餐式の最後に私たちは、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」と唱えます。これは教会が目指す場所、またそれぞれが遣わされる場所に「主のみ名によって」出て行くということだと思います。それは日々の、何気ない日常の中にもあるのです。それぞれが「主のみ名によって」「私が」出て行くのはどこなのかということを念頭に置きながら「ハレルヤ!」と唱えたいものです。そしてそれが「教会を開いていく」ことにもつながっていくことを信じたいと思います。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2022年8月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「青なのに止まる 赤なのに進む」

 

 

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

 

 

赤信号は止まる。青信号なら進んでもよい。小学校に上がる前の子どもでも知っている交通ルールです。しかしもしもあなたが横断歩道を渡っている途中で信号が赤に変わったらどうするでしょうか。ルールに従ってその場に止まらず、渡り切ってしまうのではないでしょうか。

 

逆に、目の前の信号が青になったとしても、車が通りそうなら進むのではなく立ち止まり、安全を確保して進むと思います。この交通ルールの本質は「赤だから止まる、青だから進むを絶対に守る」ことではなく「命を守る」ことが大前提なのです。

 

 

この世にはたくさんのルールが存在します。法律や条例は、逮捕されるから守るのではなく、他者に迷惑をかけてしまうから守ることが本質です。例えば廊下を走ってはいけないのは先生に怒られるからではなく、危険だからです。

 

イエス様が地上で活動されていた周りにはファリサイ派や律法学者などがよく登場するとおり、ユダヤ教が中心で、イエス様も弟子の多くもユダヤ教徒として生活していました。ユダヤ教の律法は有名な十戒を除いても600以上のルールがありました。この律法遵守に対して厳格な人たちは、律法違反者に対して罰を与えたり、ひどく責めていました。イエスさまは律法のために人がいるのではなく、人のために律法があるのだと教えられています。人を守るために神さまが作られたルールがいつしか人を裁くためのものになってしまったのです。

 

ある冬の寒い日、僧侶のいる寺に一人の旅人が訪ねてきました。送料は宿で貸せるような寺ではないから、今晩だけにしてほしいと言って、その旅人を本堂に泊めました。夜中に、僧侶は何かが焼ける匂いで起きました。本堂に行くとその旅人は本堂の中でたき火をして暖をとっていたのです。僧侶はすぐに止めに行きましたが、その旅人はあまりの寒さに死にそうになり、耐えられなかったと説明しました。僧侶がふと周りを見渡すといつも置いてある木で彫られた仏像がないことに気付きました。旅人に尋ねると、なんと薪の代わりに、たき火の中に入れて燃やしたというのです。僧侶は激怒し、旅人を追い出しました。夜が明けるころ、大僧侶にそのことを報告しに行くと大僧侶は言いました。「悪いのはあなたのほうだ。あなたは凍え死にそうな生きている旅人ではなく、すでに入滅しておられる仏像を大切にしたからだ。」

 

確かにこの旅人のとった行動は非常識で正しい行動ではありませんでした。しかし、命を優先できなかった僧侶もまた、正しい選択をできなかったのです。

 

 

決まりを守ることに固執しすぎると本質を見失うことがあります。教会の中でも伝統的なルールや暗黙の了解のような文化は度々見られます。それら一つ一つは大切にするべきことですが、一番は私たちの信仰が守られること、神さまとの関係が守られることです。「これは絶対にこうでなくてはいけない」ではなく、神さまの愛のように寛容で柔和で人に優しい心を意識したいものです。

 

 

八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介

 

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あけぼの2024年11月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「あなたがたは世に属していない(ヨハネ15章19節)」

 

 

多くの方が愛誦聖句を持っておられると思います。それぞれの心に響いた聖書の言葉、それは素晴らしい神の言葉の贈り物です。

 

一方で気を付けなければいけないのは、私たちは神の言葉を都合よく切り取って自分の思いの証明に使ってしまう誘惑に駆られることです。表題の聖句を「そうだ。私たちは天に属しているのだから、罪と汚れにまみれたこの世とはできるだけかかわってはいけないのだ」などと受け取ってしまうと、イエス様の思いを無にしてしまうことになります。確かに主に寄って私たちは天に属する者としていただいた、そしてその上で私たちは「わたしはあなたがたを遣わす」(マタイ10:16)とイエスのみ名によって世に遣わされているのです。世に属さない者として世に遣わされるということはとても怖いことです。事実この言葉は迫害の予告の冒頭に用いられているものです。イエス様ご自身がその姿勢を貫き「世に抗う者」として十字架に上げられました。キリストの体である教会は、弟子である私たちは、「世に属していない」という姿勢をどのように現してきたのでしょうか。もちろん私たちはイエス様と同じにはなれません。そのことはイエス様もご承知で「弟子は師にまさるものではなく、……弟子は師のように……なれば、それで十分である。」(マタイ10:24)と言ってくださってはいます。要は私たちがどれだけ主に近づこうとしているのかが大事だということでしょう。

 

幸いなことに、私は4つの教区の教会の皆さんとかかわる機会がありました。信徒の皆さんといろいろな話をさせていただきました。ご高齢の先輩方からは昔の教会の様子、楽しかったこと、宣教師の思い出、大変だったことなどを聞かせていただきましたが、どこの教会でも時折、人権問題になりそうな話が飛び出してきました。

 

過去の日本において、現代よりもさらに性差やハンディキャップを抱える人々の人権が軽視されてしまうことや、「職業に貴賎なし」との言葉が生まれるほどに職業差別や出自に対する差別が大きかった時代がありました。「そういう時代だったから仕方がない」ということもできるのでしょう。いや、仕方がないというよりもそれが「世の常識」であり、それに異を唱えることの方が奇異なことだったのかもしれません。しかし「お和えたちはそういう存在なのだ」と決めつけられた人たちが、仕方がないことだと納得していたわけではないのです。それが自然な心の動きだと思います。

 

「そういう時代だった」とはしばしば用いられる言い訳ですが、「世に属していない」はずの教会もそれでよいのでしょうか。もちろん人も行政も目を向けなった小さくされた人、病者、社会から邪魔者扱いされた人たちに寄り添い支えた先人たちはたくさんいました。戦時中でさえも声を挙げるのをあきらめなかったひとたちもいたのです。しかし多くの人が「世のあたりまえ」に従ってしまったか、疑問を抱くこともなかったのではないでしょうか。

 

 

今私は現在の視点から過去を眺めて書いていますが、自分がその時代に生きていたら「世に属していない者」として生きられたのだろうかと思います。それは自分も現在の「世の常識・価値観」を第一にしてしまっているのではという恐れを感じたからです。「世に属さない者」としての視点はいつの時代の教会にも大切なものなのです。

 

 

主よ、どうかみ名のみを崇めさせてください。

 

福島聖ステパノ教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

 

 

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「常識に囚われずに・・・」2016年12月号

聖公会神学院の神学生3年次、夏季実習で3週間、韓国ソウルを訪れることになりました。しかし、出国直前になっても、3週間の実習がどんなプログラムで進行するのか、先方からの連絡はありません。それどころか、そもそも私たち神学生4人が金浦空港に到着したとき、誰かが迎えに来てくれるのかさえわかりません。若干の(かなりの?)不安を抱えつつ成田を飛び立ち、金浦空港に降り立ったとき、迎えに来てくれた方がいたことがどれだけ嬉しかったことか!後日「韓国では親しい友を迎えるとき、前もって予定を伝えるなんてことはしないのさ。なぜって、親が死んだとき以外はどんな予定が入っていても相手につきあうのが親愛の情の証だからね」と教わりました。

 
それだけではありません。食事の時、日本では大皿や鍋から自らの皿に取り分けるのが礼儀ですが、韓国ではそれは「あなたと同じ皿(鍋)からは食べられない」という意思表示なるとのこと。日本ではご飯茶碗は手に持つのが行儀のいい食べ方ですが、韓国ではテーブルに置いたままが普通(持とうと思っても金属製の茶碗は熱くて持てません!)など、日本での常識が韓国ではそうでない経験を幾つもしました。

 
実は、国や文化が変われば常識が非常識になる例は、他にもあることに気づかされます。日本では何かをもらったら「ありがとう」というのが常識ですが、中国では仲が良ければよいほどお礼は言わないのだそうです。お礼を言われたらよそよそしい、自分たちは仲がいいはずじゃなかったのかと。日本人の親は「人に迷惑をかけないように」と教えますが、インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。

 
さて、福音記者ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、神という存在を「言」として表現していますが、これは私たちにとっての常識です。神という存在を「言」としたのは、言葉は一旦人の口から離れると受け手次第、発話者の思い通りに相手に届くとは限らず、自らの思いとは真逆に受けとめられることさえある。すなわち言葉には言霊とも言われるように霊が宿っているのだという当時のギリシアの価値観に着目した福音記者が、神の超越性を伝えるには、神を「言」と表現するのが相応しいと考えたという説を読んだことがあります。しかし、この箇所のごく初期に翻訳された日本語訳は、「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」(ギュツラフ訳)となっています。日本人に神の存在の偉大さを伝えるためには、「カシコイモノ」「ゴクラク」が相応しいのだという発想をそこに見てとることができます。そこには常識には囚われない、しかし神という存在を伝えたい!という情熱を感じられるのではないでしょうか。

 
彼の有名なアインシュタインも「常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである」と言ったそうですが、確かに常識が壁となってヤル気を挫かれたり、容易に諦めたりすることにつながることを思うとき、アインシュタインの言葉は的を射た表現なのかも知れません。%e3%81%82%e3%81%91%e3%81%bc%e3%81%ae%ef%bc%91%ef%bc%92%e6%9c%88%e5%8f%b7%ef%bc%91%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%88

神という根っこにしっかりとつながりつつ、しかしだからこそ、枝は、葉は、大胆に空に向かって伸ばしていける一人ひとりでありたい、そう思います。

 

司祭 ヨハネ 八木 正言

 

「祈りによる証と喜びに満たされて」2018年10月号

「初めから立派な司祭などおりません。どれだけ祈り、主により頼んで、日々歩んでいくことができるか、それが大切なことです。」

これは私の司祭按手に際して先輩聖職からいただいた励ましの言葉です。それから30年程経ち、その間大きな挫折もありながら、それでも何とか神様の御用を続けることができたのは、ひとえに神様の憐れみと皆さまからのお支えとお祈りによるものと心から感謝しております。

 

 

 

司祭、牧師の務めは、礼拝の司式・説教を行なうことや牧会、病床訪問、冠婚葬祭を執り行なうこと、教区・教会の運営に関する責任、関連施設との関係など多々ありますが、皆さんからの「わたしの家族が大変重い病気で入院しています。どうかお祈りしてください。」というお願いや、「今度旅行に出かけるので、お祈りしてください。」という様々なお願いをお受けして、お祈りを捧げるということも大切な務めだと思っています。「家族が重篤です。今すぐお祈りをお願いします。」という知らせが届けば、夜中でも病院に駆けつけるということもありました。
 

 また、東日本大震災時における原発事故が起きる前のことですが、原発での危険な作業に従事しておられた信徒の方からの「毎日仕事につく前にお祈りをしていますが、司祭さんもお祈りしてください。」というお願いもありました。その施設は、震災時も大きな事故が起きず、守られたのだと思っています。さらに「お子さんの命は五分五分です」と医師から宣告されたお父さんからのお祈りのお願いもありました。残りの五分を神様にかけ、一緒に必死に祈りました。その後お子さんは元気になって成人となり命を繋いでおられます。

 今まで経験したお祈りのお願いは枚挙にいとまがありませんが、最後に、大きな港街の教会に勤務していたときの、幼稚園児のS君とお母さんからのお祈りのお願いを紹介したいと思います。

 

 

S君は幼稚園のお帰りの時間になるとお母さんと一緒に礼拝堂にやって来ては、何やら短いお祈りをしていました。そして丁度、顔を合わせた時「お父さんのために神様にお祈りしているんだ。」とS君が教えてくれました。よくよく話を聞くと、お父さんはイカ釣りの漁師さんですが、近年、日本の近海でイカが獲れなくなり、ニュージーランドやアルゼンチン沖が主たる漁場となったので、漁に出るとノルマを達成するまで、8~10カ月も帰ってこないというのです。勿論、私も命の危険にさらされながら漁に励むお父さんのためにお祈りすることを約束しました。その後S君のお父さんが無事に戻られお会いしたとき、S君のお祈りのことを伝えると、様々なことがあったのでしょう「本当に神様が守ってくださっていました。」と証され、自分が嵐をも静められる神様に祈られていたことを心から喜ばれました。
 

 それから15年程の月日が経ちましたが、毎年7月第2主日の「海の主日」を迎えるごとに、立派になったであろうS君のことを思い起こします。同時にこの世に祈る対象が数多ある中、主イエス・キリストのとりなしと聖霊の導きによって捧げる「天地の造り主、全能の父なる神」への祈りこそが、私たちの魂を平安へと、また、真の救いへと導き、恵みをお与えくださることを心から感謝し、喜びにあふれた教会を皆さんとご一緒にこの世に益々証することができればと願っています。

 

司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会牧師)

あけぼの2020年11月号

巻頭言「『すべての人を一つに』~分断の社会にあって~」

 

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)

 

 

これは、主イエスが十字架を目前にした時に祈られた「大祭司の祈り」の一部です。「分断の社会」という言葉をしばしば耳にする昨今、この主イエスの祈りの言葉が心に響いておりました。このお祈りの背景には、現代と同じく、主イエスにとって決して見過ごすことにできない、分断された社会構造や人間関係があったことが想像され、「すべての人を一つにしてください」という祈りの言葉は、主イエスの心の叫びと受け取ることができます。また、この祈りの直前、主イエスは弟子たちの足を洗い、弟子たちと共に最後の晩餐をとり、聖餐を制定されましたが、聖餐の奥義もまた私たちが主の命に結ばれて共に「一つになる」ことです。主は、私たちが主にあって「一つになるため」に祈られ、さらに聖餐を定められたのです。私たちはその聖餐式を行い、主の命をいただいて一つにされると信じています。そして、その聖餐式を私たちが一つになるまであきらめずに「み子が再び来られるまで」(祈祷書P175)、行ない続けてまいります。このように主イエスの祈りや思いは、世界や人々、そして私たちが一つになることにほかなりません。ただし「一つになる」ということは、「同じになること」とは違います。神様は、一人一人に同じではない命と人格、個性を与えてくださったのですから、「一つになる」ということは、それぞれ違う私たちが違うまま集められ一つとなることです。それぞれの性別、血筋、民族、主義主張、考え方や意見は違って当然の事ですし、十人十色、食べ物や色の好みも違うものです。私たち一人一人は違って良いし、違うべきだと思います。その違いを認め合って一つになる時、大きな喜びに溢れます。主は命を賭して、私たちが一つになる方法を、遺してくださったのです。しかし、主の思いに反して、民族人種差別や性差別、利己主義、いじめ、ハラスメント、人権侵害、特に最近では新型コロナウイルス感染症の拡大の中で罹患者への偏見など現代社会は分断へと進んでいます。み心は、誰もが尊重され、互いに愛し助け合い、公平、公正、平等で平和な社会をつくり上げ、一つになることのはずです。

 

ところで私たちの教会、自分自身や身近な話としてはどうでしょうか?意見や考え方の違いから人を遠ざけたり、逆に離れようとするようなことはないでしょうか?先日、東北教区展望会議で作成された自己点検チェックシートが各教会に配られ、自身と教会を見つめ直す良い機会となりましたが、それとあわせて「大祭司の祈り」を思い起こし、主イエスご自身がわたしたちのために祈り、励ましてくださっていることを覚えたいと思います。この恵みに感謝をしながら、この世にあって信仰を守り抜き、基本的なことではありますが、自分を愛するように人を愛し、すべての人に敬意を払い、歩んでまいりたいと思います。

 

 

 

司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会 牧師)

 

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あけぼの2022年9月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「天の摂理に任せましょう」

 

 

イエス様は多くの悩みの中で12人の弟子たちを選ばれました。つまり、旧約聖書の12部族を代表していると思います。ところが12人の中にイエス様を裏切る人も選ばれたということです。どうして全能な方が弟子一人を間違って選んだのか?考えると、私たちも生きている中で「あ!あの友だちがいない方が、私たちのコミュニティはいいのに…。」と思うことがあります。

 

しかし、絶対に神様があきらめないのは、私たち自身がイエス様のようになることができるという希望です。これは、イエス様が贈り物としてくださった自由意志を通して成し遂げられるのです。したがって、イエス様は一度与えられたこの贈り物を奪われないのです。

 

この自由意志を通してイエス様を裏切ることもでき、イエス様のために命を捧げることもできるのです。完全にイエス様がくださった贈り物なので、神様はこの自由意志を侵害しません。ところが欲望は罪を生み、罪は死を生み出すように、人間は神様を裏切り、神様が贈り物として与えられた自由意志を互いに侵害します。

 

イスラエルの民が侵害しないのは土地です。神様から受けたので、売買ができないということです。

 

北イスラエルのアハブ王は宮殿の隣にあるナボトのブドウ畑を売るように言います。ナボトは「先祖から受け継いだ値をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません」(王上21:3)と言います。

 

その言葉に腹を立て宮殿に戻ったアハブ王に異邦人の王妃であるイゼベルは、アハブ王の名で手紙を書いて彼の印章で封印し、その手紙をナボトが住む町の長老たちと貴族たちに送り、「神と王様を呪った」という理由でナボトを殺させました。

 

そしてアハブ王にそのブドウ畑を占拠するように言います。しかし、ブドウ畑に行ったアハブ王に、神はエリヤを送り、「その罪に災いを下し、子孫を掃き捨て、アハブに属する男は自由人であっても、イスラエルから取り除いてしまう」と言われます。アハブ王はこの言葉を聞くと、自分の服を引き裂き、裸体に粗布をかけて断食に入ります。

 

すると主は彼が生きている間はそのままにしておき、彼が死んだ後、この世代でその報いを受けるようにします。

 

同様に、私たちに与えられた自由意志は、神様が奪われなかった特権です。その自由意志を侵害した瞬間、関係性が崩れ不幸が始まるのです。人間関係の中で、私が誤った欲望に従うと、他人の自由意志を侵害するようになります。

 

ではどうやって生きるべきですか?まず、キリストのように考え、話し、行動できるよう修練しましょう。人は生まれたくて生まれたのではなく、死もまた同じように、私の体は私のものではありません。瞬間だけが私のものです。

 

私の瞬間をイエス様に奉献しましょう。それ以外のものは主の摂理に任せましょう。

 

そうしたとき、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ5:22-23)という聖書の9つの実を結ぶことができるのです。

 

 

仙台聖フランシス教会 牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕

 

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あけぼの2025年2月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「シメオンとアンナ」

 

 

幼子の誕生から四十日、若い両親は赤ん坊イエスを連れて、エルサレムの神殿へとやってきました。誕生四十日目のいわば宮参りです。神殿といっても厳粛というよりは、いろいろな用件で各地から来た人々でごったがえしていたのではないかと想像します。その時、一人の老人が両親と幼子のもとへ近づいてきています。「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた」老人シメオンです。彼は両親の手から幼子イエスを抱き取ると「私はこの目であなたの救いを見た。これは万民の前に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光」と神を賛美します(「シメオンの賛歌」)。それからマリアに向かって大変なことを言います。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」どんでもないお爺さんです。しかし、すごい預言です。キリストの生涯の出来事と意味を鋭く言い切っています。シメオンはまだほんの小さく無力に見える幼子のうちに神の救いの業の始まりを見抜くのです。

 

そこにまたアンナという女預言者が登場します。夫と死別して84歳になっていました。そして「神殿を離れず、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていた」女性でした。彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、人々に幼子のことを伝えます。預言者であり宣教者です。女預言者は旧約聖書にも見られます。出エジプトの後、アロンの姉ミリアムが女たちと共にタンバリンを手に踊りながら歌う賛歌が『出エジプト記』第15章にあります。「主に向かって歌え。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」(「ミリアムの歌」)。パワフルです。

 

降誕日から四十日目、「被献日」(2月2日)の出来事です。今年は2月2日が主日なので、教会全体でこの福音書(『ルカによる福音書』第2章)を読むことになります。幼子イエス、若い両親、そして相当高齢なシメオンとアンナ。世代を超えた出会いの場面です。

 

 

教会の高齢化を憂える声がときどき聞かれます。しかしシメオンとアンナの高齢者パワーはそんなことを吹き飛ばします。私たちの教会にもたくさんのシメオンとアンナがおられます。豊かな経験を持ち、信仰の厚い情熱を保ち続けてきた方々です。実際、身体的にも精神的にも昔とは十年二十年違うでしょう。今ある教会のエネルギーを十分に生かしたらよいのだと思います。もちろん、若者も中年も負けずに。

 

聖霊降臨日、ペトロはヨエル書を引いて語ります。「あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(『使徒言行録』第2章)。「老人は夢を見る」。ヴィジョンを持ち、夢を語るのです。

 

 

教会という共同体の特徴、強みは他の社会(学校や職場)以上に、赤ん坊から老人まで世代を超えた出会いと交わりがあることです。また現在の生活の状況や事情も人それぞれ異なるでしょう。それでも信仰によって結びついた共同体は、やはり不思議な、そして豊かな存在です。その豊かさを生かしつつ、喜びをもって歩む教会の、この一年でありますようにと祈ります。

 

 

元東北教区主教 主教 ヨハネ 加藤博道

 

 

 

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あけぼの2022年11月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「ザアカイさんと十字架」

 

 

特定26(11月2日に近い主日・週日)の福音書に登場するザアカイから黙想します。テーマは、「本当の自分とは何者か」です。

 

彼は年齢不詳の税金取り立て役人、徴税人の頭で金持ちです。その世界では立場ある身分ですが、世間からはローマ帝国の回し者、イスラエル人から金をぶんどる悪人で嫌われ者です。親友とか気心の知れた友人はなく背が低い。それゆえにいくつものコンプレックスを持っていて、後ろめたさや申し訳なさ、不満、気後れなどが心中に鬱積していたでしょう。さびしいよと声に出さずに呻いていたかもしれません。そのように見受けられます。

 

そんな彼の前に、うわさのイエスさまが出現してきました。運良く目の前にそのお方がいます。彼は衝動に駆られます。ここぞ、とばかりに彼は走ります。彼の心の内にある呻きに突き動かされて行動となって表出します。彼は走って先回りをし、背が低いため、前に立ちはだかる人たちに遮られて見えないから、イチジク桑の木に登るのです。一生懸命になると、機転が利きます。障がいを乗り越えるのにそこにあるものを何でも利用する、そこにあるものが実は役に立つということのようです。木に登ると目線の高さが変わります。俯瞰するとそれまで見えていなかったものが見えてきます。全体を眺められると余裕も生じて、視点が変化します。こうして、彼はイエス様を発見し出会います。そして彼のもの凄く熱い視線がイエス様に降りかかっていきます。

 

人の魂に敏感なイエス様は、放射されている魂の波長を感じて、ザアカイにお声を掛けます。人の心の根底にある渇望とか要望に100%応じるイエス様がここにいます。

 

「ザアカイさん、急いで降りてきたらどうです。今日は、私はあなたのお宅に泊まることになっています。」これはイエス様からのお応え、お招きの優しいお言葉です。「……ことになっています」は神の必然です。それは神のみ業ということで、イエス様とザアカイの間で神様のみ業が遂行されます。

 

この出会いでザアカイは生まれ変わります。イエス様の言葉が、実はザアカイの本当を引き出すきっかけとなります。ザアカイの本当とは、すなわち貧しい人への施し、欺していたことへの償いです。つまりは、彼の本音が飛び出してきたのです。彼の本当の喜びが見つかった瞬間です。彼の喜びの大きさが、生き方の大変化へと繋がっていくことは明らかです。

 

 

「今日、この家に救いが生じた」これは究極の宣言です。自分の本当によって生きることほど幸せなことはありません。これ以上に嬉しいお言葉はないでしょう。

 

イエス様はイチジク桑の木の下に立ち、ザアカイを見つめます。私たちは十字架の下に立ちイエス様を見上げています。十字架の下には2種類の人が立っています。「神の子なら、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とののしる人と、そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言う人です。イエス様が木に登っているザアカイの隠れた真の生の要望を満たされたように、私たちも見上げた先におられる方のみ心・み旨に触れ、目覚められたら誠に幸せです。

 

 

青森聖アンデレ教会牧師 司祭 フランシス 長谷川 清純

 

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「安心しなさい」2017年5月号

マタイによる福音書14章24節に「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」と書かれています。しかし、弟子たちは、このような苦難の中から再び主の新しい姿を眺めることができる栄光に与るようになります。その栄光とは、苦難の中で主に出会うことです。

 

私たちの人生の道には苦難があります。たとえその道が、主が喜ばれる道であり、主が命じられた道であっても苦難が伴います。それゆえに、イエスは、「あなたは、世界の中で苦難にあっても勇気を出しなさい」と言われたのです。しかし、主は、私たちの苦難を無視していないし、苦難の中で、私たちと一緒におられます。その苦難の中で、私たちを救ってくださいます。

 

パン5つと魚2匹の奇跡が起きると、多くの群衆は確かにこの人こそ、自分たちが望むメシアと言いました。そして、彼らはイエスを自分たちのそばに置いて無理にでも彼らの王にしようしたのです。イエスは、このような彼らの行動から逃れようと、弟子たちに船に乗って、自分よりも先に、湖の向こう側に行くように命じられました。

 

主はどのような場合にも、栄光を取られませんでした。その方は、徹底的に自分を低くし、父を高くしました。イエスは、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:53)としながらも、自ら苦難の杯を飲みました。

 

 
イエスは、問題があるたびに祈りました。主はサタンの誘惑に勝つために祈りました。主は明らかに神でしたが、しかし、人の姿でこの世に来られたので、サタンの誘惑に勝つためには祈りが必要でした。主の命令によって船に乗った、弟子たちは、すでに陸地から遠く離れた湖の中にいました。ところが、突然風が吹き始めました。彼らは風によって多くの苦しみを受けていました。真っ暗な夜中です。夜は霊的な闇の状況を意味します。

 

私たちは、このような霊的な暗闇の力にとらわれないために、主の光を私たちの人生の道に照らす必要があります。「あなたのみ言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩篇119:105)風が吹いてきて、波がおこった。これは、苦難にあう人生を語っています。湖の真ん中で暗に会ったのです。

 

人間の力ではどうしようもない状況に陥り必死な彼らに近づいて主は「安心しなさい」と言われまし。私たちは、どのような苦難にも「安心しなさい」という主の声を聞いて、あわてず、心の平安を求めなければなりません。安心という言葉は、「勇気」を持てという意味です。次に、「恐れることはない」と言われました。この言葉は、「どのような場合にも、主があなたと一緒におられる、勇気を出しなさい 」ということです。

 

今、私たちの教区に最も必要な言葉は、「安心しなさい、私はあなたと一緒にいる」という主の声を聞いて、主と共に行動することです。どんな困難があっても、主は、東北教区と一緒にいらっしゃいます。

 

東北教区の皆さん、主と共に行きましょう!!!

司祭 ドミニコ 李 贊熙

「やさしいことは難しい!?」2019年2月号

 若い頃から万年筆が好きでした。そもそも私が中学校に入るような時代には、進学のプレゼントと言えば万年筆、それを学生服の胸ポケットにさして、大人の仲間入りをしたような誇らしい気分になったものです。それに較べると、少なくとも私の知る限りの周囲の現代の若い人たちはおよそそういうものを使う雰囲気がないようで寂しい気がします。ずいぶん以前のことですが、日本橋の丸善で万年筆を見ていた時、すぐ横に立った長身の男性が作家の井上ひさしであることに気がつきました。太めのウォーターマンを選んでいたように記憶しています。同氏もまだ後のような大作家というよりは中堅であった頃、時代的には「ひょっこりひょうたん島」の時代かと思います。

 

同氏の座右の銘は「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに」書くことであったと、これも有名な話です。私自身この言葉には共感するのですが、同時に自分はまったく逆をやってきたような忸怩たる思いもします。

 

 

しかし考えてみると、ここで言われていることはやはり難しいことです。「むずかしいことをやさしく」伝えるためには、その難しい内容を完全に自分が理解していなくてはなりません。ですから学校でも「入門」というのは一番のベテラン教員が担当することだと言われます。「やさしいことをふかく」も「ふかいことをゆかいに」もそれぞれ究極のことです。要するに井上ひさし氏は究極のことを言っているのだと思います。

 

また聞き手、読み手の方の問題もあります。「むずかしいことをやさしく」伝えられて、それをやさしい話としてだけ受けとめて終ってしまうと、どうなのでしょう。結局大事なことは伝わらないことになります。受け取り手の方でも「やさしく語られたことを深く」理解していく必要があることになります。

 

 

ご一緒に祝ってきたクリスマス、そして今続いているエピファニーの季節のテーマは、「神の独り子が、私たちと同じ肉体をとって(従って人間の弱さも同じように担われて)私たちの間に宿られた」ということだと思います。『マタイによる福音書』も『ルカによる福音書』も、それをわかりやすく美しい、牧歌的な出来事として伝えていました。ロマンティックな印象さえします。

 

しかしそれはやさしい話でしょうか? やさしさの中に秘められたとんでもなく深い話なのだと言えます。「わたしたちの中に宿られる神」。最近ほとんど使われない用語をあえて用いるとすれば、キリスト教信仰の「奥義」です。

 

「やさしく語られていても、本当は難しいんだ!」と脅かすような意味で言いたいのではありません。しかし主イエスの一番身近におられた母マリアでさえ、自分の息子のことがなかなか理解出来ず、何度も「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカは伝えています。「思い巡らしながら歩み続ける」、そんな信仰生活のまた新たな一年の始まり、皆様の上に豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

 

 

話は戻りますが「ひょっこりひょうたん島」も子ども向けの人形劇のようでありながら、なかなか単純ではない内容を持っていたようです。

 

磯山聖ヨハネ教会牧師

主教 ヨハネ 加藤博道

あけぼの2020年12月号

巻頭言「クリスマスの旅」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように。

 

今年私たちは、一堂に会してはご復活日をお祝い出来ませんでした。松丘聖ミカエル教会の主教巡回は、松丘保養園面会自粛要請のため中止となりました。盛岡では仁王幼稚園・牧師館落成式を大々的に開けませんでした。飲食は控えていますから、弘前での堅信式の後でも、青森の牧師任命式の後にも祝会は開けず、どこか物足りなく感じました。主イエスが弟子たちや出会った人たちと親しく食事の席に着くのが大好きだったように、私たちも会食をしながら楽しく歓談したいとつくづく思いました。

 

新型コロナウイルス感染状況に劇的な変化がなければ、来たる降誕日も「東北教区主日礼拝ならびに宣教活動のための指針_No.7」に従い、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャルデスタンスを徹底し慎重な礼拝を献げ、祝会は控えなければなりません。そうだからと言って、いつものようでないクリスマスである訳ではありません。かえってそれだからこそ、クリスマスはさらに意義深くまたやって来ます。

 

今起きている出来事、自分に襲いかかっている事件が不可解で、不明な時、これから先一体どうなるのか分からない、未来が読めない時に、人は悩み、不安に支配されます。そして、そのような苦悩する人に、神様は優しく、力強くささやかれます。

 

 

イエスの両親ヨセフとマリアは、赤子出産前後2回、旅をしなければなりませんでした。それは自分たちが計画して、うきうきしながらのものではありませんでした。

 

1回目は、人頭税をかけられるための戸籍登録をしなければならないという強いられた、苦痛、屈辱のナザレからベツレヘムへの旅でした。まして身重のマリアの不安の大きさはいかばかりだったでしょうか。それでも、夫ヨセフの故郷に帰省する訳ですから、少しの誇りとわずかな興奮と期待を持った旅でもありました。

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そしてそこには、マリアを支えた言葉がありました。「マリア、恐れることはない。」「生まれてくる子は神様の祝福をいただいた、神様に喜ばれる、それこそめんこい神様の子です」。新しいいのちは人知を越えた神秘的な希望なのです。

 

2回目の旅は、出産後、3人の博士たちがヘロデ王に再会せずに帰国し、王は逆鱗し幼児虐殺を命じるに及んで、誕生間もない赤ちゃんを抱えてマリアは、ヨセフに手を取られエジプトに逃避行しなければなりませんでした。この旅は出産前と真逆で、見知らぬ土地へ、外国へ、異境の地に逃れて、孤立して生き延びなければならないものでした。その心細いこと、大きな不安定さに潰されそうになります。その最中を支える言葉がありました。「ヨセフ、逃げなさい。私があなたを呼ぶまで」です。殺戮、迫害がなくなるその時は必ず来ます。ヘロデ王にもやがて終わりがきます。

 

私たちにも語り掛けてくる言葉があります。羊飼いたちが聞かされたものです。「恐れるな。大きな喜びを告げる。聞け。今日、あなたがたのために救い主・メシアがお生まれになった。」この言葉を今も私たちは聞きます。

 

私たちの人生の旅の途上で「今日、あなたにメシアが生まれ」ます。

 

 

「主よ、わが心に、宿らせたませ」(聖歌358番)

 

 

司祭 フランシス 長谷川清純(青森聖アンデレ教会 牧師)

 

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