教区報
教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事
あけぼの2024年8月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「反転しない正義」
今も昔もテレビに登場する正義のヒーローは子どもたちに人気があります。私がチャプレンを務める幼稚園でも、行けば子どもたちはそれらのヒーローのことを話題にあげ、その強さやかっこよさを力説してくれます。そんな子どもたちの様子を微笑ましく思う一方で、これらの正義のヒーローが語る「正義」とは一体何なのだろうかと考えてしまいます。彼らは劇中でよく敵とお互いの意見を戦わせます。その時多くの場合はヒーロー側が正論を言い、悪役側がめちゃくちゃな主張をするので、それをヒーローがやっつけて、めでたしめでたしとなるのがお決まりです。
しかし時々不思議なことが起こります。ヒーロー側が主張する意見も正しく聞こえる、でも敵側が話すことも決して間違いではない、いわゆる「どちらも正義」に見える場面があるのです。そしてそんな場合に、最終的にどうなるのかと言えば、お互いに暴力をもってその主張をぶつけ合い、ヒーロー側が勝って終わる訳です。でもこの場合、暴力で決着がついた後も、戦いは続きます。ネットの掲示板ではどちらの主張が正しかったのか議論になりますし、どちらの勢力のファンになるのかも争いになったりするのです。極端な言い方をすれば、私はこの構造がまさに人間の戦争状態なのだろうと思うのです。お互いに信じる「正義」を持っていて、それを押し通すために最終的に暴力に訴える。そして敗れた側は「悪」になる。これは戦争の構造そのものですし、いかに人間が主張する「正義」というものが移ろいやすいものであるかを示していると思います。
そんな世に溢れる正義の論争に、一石を投じるヒーローがいます。それは皆大好き「アンパンマン」です。彼を知らない日本人はいないくらい有名なアンパンマンですが、彼の生みの親である、やなせたかし氏は著書中で彼を「最弱の正義のヒーローである」と称する一方で、自分の理想とする正義を体現していると語っています。やなせ氏はこう言います。「正義は立場によって反転する、昨日まで正しかったことが、次の日には悪になる。それを自分は戦争でいやというほど経験した。しかし決して反転しない正義がある。それはアンパンマンが体現している、献身と愛である。これは決して変わらない。」と言うのです。
アンパンマンはご存知の通り自分の顔をお腹がすいている人に躊躇無く与えます。そうしてしまうと自分のパワーが弱くなってしまうことが分かっていても、それをどんな場面でも迷わずに、時には敵である「ばいきんまん」にさえそうするのです。もちろん話をおもしろくする中で戦いはあるのですが、その本質はどこまでも自身を献げて周りの人のために働くアンパンマンの正義であると、やなせ氏は主張するのです。
これはキリストに生きる私たちにも響く主張であると思います。イエスさまが聖書の中で、ご自身の生涯を通して教える「隣人を愛しなさい」ということが、私たちの信じる正義であるなら、私たちが目指すべき正義がどこにあるのか、見えてくる気がします。
この8月という時は、私たちに戦争のこと、平和のこと、正義のこと、色々と問いかけてくることと思います。そんな時に、世に溢れる正義について、アンパンマンが語る正義について、聖書が語る正義について、考えてみてはいかがでしょうか?
秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓
「そろそろ・動き出す」2016年8月号
スタートダッシュが速いこと、立ち上がりが速く、フットワークが軽いことが高く評価される傾向があります。
確かに陸上競技でも、100メートルの競争とマラソンとでは、スタートの仕方はまったく違います。東日本大震災から5年と5カ月、「そろそろ動きだしてみようか」という、亀さんみたいなことがあっても、とっても素敵だなと思います。
実際、教会の婦人会や有志の方が被災地を訪ね、お茶等の一時を一緒にするプログラムに、「あ、この方も参加されたんだな~」と思うことが最近でもあります。ご自身も被災された方の場合があります。
震災後、3年、5年経って、やっと被災地を訪ねる気持ちになったという方の話も聞きます。自分が親しんだ土地であればあるほど、3年、5年はとても行けなかった、というお気持ちを聞いたこともあります。本当にそうだと思います。
大きな事柄であればあるほど、それに対してどのように向き合えるかは個人の差も大きいでしょう。比較できない面が多いだろうとは思いますが、広島・長崎の原爆、あるいは沖縄の激戦から70年が過ぎても、その地を訪ねる意義は少しも変わっていません。そして東日本大震災の被災地の状況は(他の大きな災害にも共通するでしょうが)当初の困難さとはまた異なった困難があり、残念ながら所によっては深刻さは薄まるどころか、その度合いをましているとさえ言えるのですから。
「だいじに・東北」以来のプログラムで、「巡礼」という言葉をたびたび用いてきました。もちろん訪ね歩いて祈ることですが、背景には「何もしなくてもいい」ということもあったと思います。震災当初から、「行っても自分には何にも出来ない」「何をしたらいいかわからない」「ただ観に行くのでは申し訳ない」という言葉を多くの方から聞く中で、ともかく「訪ねてみよう」「いっしょに祈ろう」という意図が込められていました。もちろん、その中から、自分らしい仕方で出来る何かが見つかるならば、それはまた良いでしょう。
「訪ね歩く」ということは、わたしはキリスト教信仰の中の、本質的な部分の一つだと思っています。病気の友を見舞うこともそうです。
「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(マルコ6:6b)。福音書のイエスは旅をされ、訪ね歩かれるイエスです。昨年からの東北教区宣教部主催の修養会も、昨年は八戸、今年は大館と訪ねるプログラムでした。本当にお互いにもっともっと訪ねあったらよいと思っています。
東日本大震災だけでなく、東北各地には固有の課題があります。もちろん共通もしています。お互いにさらに深く知り合うことは、大きな恵み、思いを超えた経験となる筈です。最近の九州地震や、世界にあるさまざまな困難、悲劇に対して、東北の感じ方、眼差しもまたあっていいのだと思います。
今年の夏はどうされますか? 何か一つ、今までしていなかったことに(何であれ)、腰をあげてみてはいかがかなと思うのです。
主教 ヨハネ 加藤 博道
「安息日のこと」 2018年8月号
とんでもない耳を塞ぎたくなるような悲惨な事件が続いています。新幹線の中で若者が刃物を振り回し、小学生が帰宅寸前に若者に連れ去られ殺害・遺棄。幼子が実の親から数々の虐待を受け、命を奪わる等々、心が引き裂かれる痛ましいニュースが続いています。
氷山の一角ですから、常軌を逸した行動をとる人間はもっと多いのかもしれません。この国はどうなってしまったのでしょう。命を育むという尊い業が壊れかけているようです。
オオカミに育てられた子どもが発見され、教育したけれど、人間としての成長は難しかったと学びました。この話は諸説あり、詳細は分からないのですが、今の社会も、同様の不安を抱えているのかもしれません。
人が人間として育つのには、何を大切にしなければならないのかが問われているのではないでしょうか。人間が人間らしく育つには、中でも幼いときに、まことの愛で結ばれた人の交わり中で育つことが必要なのです。
加えて、私たちを取り巻く環境は、ふさわしくないものであふれています。
現実世界では、ほとんど触れることのないような暴力や殺害の場面(映像)がメディアを通して、シャワーのように注がれています。こんなことをしていて良いのでしょうか?
イスラエルの聖ジョージ神学校に行ったとき、「安息日を経験しましょう」というプログラムがありました。
最初に、金曜日の夕方、あるユダヤ人家族のお父さんとお子さんに案内されて、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)に行き、礼拝に参加しました。
それから日没前に、自宅に案内していただくと、流しに行き、取っ手が二つ付いた特別なコップで手を洗いました。手を清めてから食卓に着くと、ろうそくに火が灯され、お父さんが創世記1章の終わりから2章の初めを読み「神様が7日目に休まれたのだから、私たちも休みましょう」との言葉で安息日が始まりました。始めにお母さんがパンを祝福して裂き分け、ブドウ酒を特別なカップに注いで飲みました。続いて用意してあった料理をいただきました。
流れを体験しながら『これって聖餐式じゃないか!』と驚きました。キリスト教で日曜日の朝に聖餐式を行なうのは、安息日が始まるよという合図の意味もあったのです。
続いて、部屋でおしゃべりしながらリラックスして過ごしました。何しろ子どもたちは「勉強してはいけない」日ですし、お母さんは「料理や家事をしてはいけない」嬉しい日なのです。
一週間にあった出来事を家族がお互いに報告し会っている様子が、とても微笑ましかったです。ゲストの私は日本語について話し、危うく紙に字を書いて説明するところでした。(安息日では禁止行為)
このような家族の交わりが、モーセの時から3千年以上も続けられていることを知ると、大変な驚きです。この安息日がユダヤ人に与えた意義は、非常に大きいものでした。
イエス様が批判された安息日のために人があるような事態にはならないように、大事な家族の絆を強める日としていただけたらと思います。
司祭 フランシス 中山 茂(青森聖アンデレ教会牧師)
あけぼの2020年8月号
「『変化』の中で教会を考える」
先日、祭服や聖具を販売するアメリカの大手メーカーが、祭色にあわせて四色(白・赤・緑・紫)の、ストールと同じ柄のマスク販売をはじめたというニュースを知りました。そのニュースを聞いて思い出したのが、かつて、主教や司祭、執事もマニプルと呼ばれるストールを小さくしたような形のものを手に巻き、祭服の一部としていたことです。これは、もともとはスダリウムと呼ばれる「汗拭き」が形骸化したもので、主イエスが十字架につけられた際に手を縛った縄も象徴していると言われているそうですが、今ではマニプルをつけることはほぼなくなりました。時の流れと共に祭服も変化を遂げていると言えるでしょうか。その意味ではマスクも、もしかしたら近未来には当たり前のように祭服の一つとして採用されているのかも知れない、そんな想像をしました。そして考えたこと…。
幼少の頃、手塚治虫氏の描いた漫画『鉄腕アトム』が大好きでした。車が空を飛び、感情をもったロボットたちが活躍する情景は、空想の世界だからこその自由さや夢のあふれるワクワクする世界でした。
あれから半世紀、そんな空想の世界が現実のものとなりつつあります。自動車の自動運転実用化はもうすぐ目の前に迫っています。もしかしたら、「昔は車を運転するのに免許証が必要だったんだって」などと会話が交わされる未来がやってくるのかも知れません。ドローンを大型化したような人の乗れる“空飛ぶタクシー”の開発も進められているそうです。また巷ではAIの普及によって、近未来には人間の仕事でなくなる職業があると噂されています。まさに『鉄腕アトム』の世界です。さらに近頃では、水道の蛇口の下に手を出して「先生、水が出ません」と話す、蛇口をひねって水を出すことを知らない子ども、トイレでは自分で水を流すことを知らない子どももいると聞きます。
こうした変化が憂うべき現実なのかどうかは別にして、僅か半世紀の間に、日々の生活様式とそれを取り巻く「技術」は格段に進化・変化を遂げたのは事実です。
時代と共に生活様式が変化した一方で、キリストの教会はどうでしょうか。祭服がどのような変化を遂げたのか、遂げるのかはともかくも、主イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた聖餐は、2000年の間不変のものとして守られてきましたし、これからも守られていくでしょう。しかしその方法については、東面式から対面式になり、文語体から口語体になり、信徒が参与する場面も増えるなどキリストの教会も変革を遂げてきました。1968年ランベス会議やローマカトリックの教会の第2バチカン公会議を経てのそうした変革は、イエスという原点に立ち戻るからこそのことでした。
今、わたしたちは、新型コロナウイルスの蔓延という範疇を超えて、軸足をしっかりとイエスという原点におきつつ、すなわち時代の趨勢だからではなく、あらためて今の時代、この世界、社会におけるキリスト・イエスの「宣教=ミッション」とは?を解釈し続ける決意を新たにしなければならないと思います。「変えることのできるものを変える勇気と、変えてはならないものを受けいれる冷静さと、それらを識別する知恵をお与えください」(ラインホルド・ニーバー)と祈りつつ。
司祭 ヨハネ 八木正言(郡山聖ペテロ聖パウロ教会・若松諸聖徒教会 牧師)
あけぼの2022年6月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「ロザリオの祈り」
あまり聖公会では、「ロザリオの祈り」という古くからの教会の伝統の中で行われてきた信心業について語られたり行われたりしませんが、定年退職後数年、私はこの「ロザリオの祈り」に凝っています。毎朝起床後すぐにまずこの「ロザリオの祈り」を祈り、私の一日が始まるのです。
「ロザリオ」とは、“バラの花冠”という意味で、“アヴェ・マリアの祈り”を一輪のバラとみなし、数珠になっているロザリオの珠を繰る時、イエスさまの生涯のおもな出来事が“アヴェ・マリアの祈り”を背景にして魂の目の前で繰り広げられます。これらの出来事は、〈喜びの神秘〉〈光の神秘〉〈苦しみの神秘〉〈栄えの神秘〉と4つの神秘にまとめられていて、それを曜日ごとに分けて行われ、私たちが主をよりよく知り、より深く愛することが出来るように、整えられて黙想が出来るのです。
教皇フランシスコは、“ロザリオの祈り”に関して次のように言っておられます。「ロザリオの祈りは、わたしたちを神に開く効果的な方法の1つです。それはエゴイズムを克服し、家族と社会と世界に平和をもたらすのを助けるからです」と。
先日次のようなことがありました。ロシアによるウクライナへの武力侵攻は世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で自体が展開していきましたし、今も続いています。
教皇フランシスコは、いのちの危機に直面している状況を憂慮され、平和を求めるために様々に努力を続けておられて、去る3月25日「神のお告げの祭日」(聖公会では、「聖マリヤへのみ告げの日」)に、教皇はヴァチカン聖ペトロ大聖堂で、ロシアとウクライナを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献されました。その際に教皇は、全世界の司教たちに、又司教を通じてすべての信者に、この奉献に一致して祈るように、出来れば教皇の祈りと同じ時間に祈りを捧げるようにと招かれ、呼びかけられました。
この呼びかけに応えて日本カトリック教会も、教会も、教皇によるローマでの奉献の時間が日本では夜になることから各教区で様々な工夫をしながら祈りの時が持たれました。大阪大司教区ではその「祈りの時」に参加して、世界の教会が同じ趣旨で同時に一致して祈るというこの機会に参加したい望みを持ちました。この「祈りの時」での公式の祈りは比較的長文の祈りでしたが、各国の言葉にすぐ翻訳されて世界中の教会が心を合わせて祈る祈りでしたし、「祈りの時」のベースは「ロザリオの祈り」でした。日頃少しは慣れ親しんできていた「ロザリオの祈り」でしたので、私でも参加しやすかったです。
このように「ロザリオの祈り」は、個人的信心業を越えて、「神の民=教会共同体の祈り」として全世界の教会が一致して祈ることが出来るという主なる神からの“招き”に気づかされましたし、その恵みに感謝した次第でした。
小名浜聖テモテ教会 嘱託 司祭 パウロ 松本 正俊
あけぼの2024年9月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「四十八茶 百鼠」
この言葉が生まれたのは江戸時代です。長きにわたって平和を謳歌した江戸時代は、生産性が向上し、庶民の生活もかなり豊かになっていたようです。ただ、それを面白く思わなかった為政者たちは、幾度となく“奢侈(贅沢という意味)禁止令”を発令したといいます。それは「芝居を見に行くな」「米を食べるな」「絹物を着るな」など庶民の生活全般にわたりました。着物に関しては、色・柄・素材など、細かい規定が設けられました。
人々は、為政者に対して表立って反抗することはありませんでしたが、定められた範囲内でお洒落を楽しめるように工夫したそうです。
庶民の着物は、祖愛は綿もしくは麻、色は「茶色」「鼠色」(灰色という呼び名は火事を連想させるため「ねずみ色」というのが一般的でした)「お納戸色」の3色に限定されていました。「お納戸色」というのは、何度=物置の扉を開けたときの薄暗がりの色で、濃紺に近い色です。普通、色は二次元の世界なのに、日本人は空間に色をつけてしまったのです!
江戸時代の庶民たちは、この許された3色に、自分たちのセンスのすべてを注ぎ込み、それぞれの色の中に微妙な色調を工夫して着物を染め上げ、バリエーションを楽しんだそうです。そしてこの3色の中でも、特に茶色と鼠色の中に多彩な色合いが生まれ、新しい呼び名がつけられました。海老茶、白茶、江戸茶、蒲茶、鶯茶、千載茶、団十郎茶、利休茶……。語呂合わせで四十八茶と呼んでいますが、実は茶色だけで100種を超える色があるそうです。鼠色に関しても、藤鼠、茶鼠、江戸鼠、利休鼠、桜鼠、梅鼠、源氏鼠、鳩羽鼠……と100色以上あります。
日本にこれほど多彩な色があるのは、足枷のある限られた自由の中で、お洒落を楽しもうとセンスを磨いてきたからといえるのではないでしょうか。微妙な色彩の違いを見極め、そこに工夫を凝らしたのです。
また、庶民でも経済力のある人は、着物の表地はお上のお触れに従って地味を装いながら、裏地には禁止されている正絹や派手な染め色を用い、隠れたところに贅を尽くすことで、江戸っ子の意地を通しました。裏地のお洒落は江戸っ子好みの「粋」であり、ちらりと垣間見えるそれを見逃さず気づくことのできる人が「通」、逆に、それをひけらかすのは「野暮」と笑われたのだとか。
環境を「呪う」のではなく、その環境に「乗ろう」とする。足枷があっても、逆にそれをゲームのルールにして遊んでしまう。日本人は楽しむ天才なのかもしれません。「獄にあっては獄の中でできることをする。獄を出たら、出てできることをする」とは彼の松田松陰の言葉ですが、どんな時にも、そこでやれることをやるだけだ、というわけです。いつでも、今やれることの積み重ねで奇跡は起こせるのかもしれません。
さて、東北教区の各教会がおかれた現況、そして未来は、普通に考えれば決して“明るい”とは言えないのかもしれません。信徒、聖職の数は減少の一途をたどり、それに伴って財政も逼迫しています。しかし、それでも……、今も、いつも、これからも、やれること=神のみ旨を求め、それに聴き、派遣された地でこれを実践することの先に、新しい扉は開かれるのかもしれない、そう信じたいと思います。
仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言
「覚え続けること」2016年9月号
教会や近所のご婦人方と話をしていると、NHKの「朝ドラ」の話題で盛り上がることがあります。私は最近では聖公会と所縁のあるニッカウヰスキー創業者、アブラハム竹鶴政孝・リタ夫妻がモデルとなった「マッサン」は夜の再放送でよく視聴しましたが、最近の話題にはついていけません。そんな話の中で気が付いたのは、現在放送中のものの前々回のものくらいまではみなの記憶にあるのに、それより前のものになると「あれ?何だっけ」となることが多いことです。これに限らず「流行り」というものはそういうものであるのかもしれません。
世の中の動きを「流行り」と同等に捉えてはなりませんが、やはり現在進行形の事柄にみなの関心が向くのは否めないことです。九州で大きな地震の被害があり、各地で自然災害があり、自分たちとはまだ直接かかわりのないことのように捉えていた「テロ」が身近に忍び寄ってきている不気味さなど、数え上げたらきりがありません。
東日本大震災も「あれから5年」というニュースを聞いて「そうか。5年になるのか」と、思い起こした人が多かったのだろうと思います。しかし、どんな出来事でもその当事者にとっては「現在進行形」なのです。たとえ復興計画が完了したとしても、決して過去にはならないのでしょう。
多くの人が忘れるのは仕方がないし、私たちも遠くであった出来事に対して同様です。マスコミでも特別な時にしか取り上げられなくなっていくのでしょう。でも、東北にある私たちは「あの日」をまだまだ歴史にしてはいけないと感じています。この地に住む者だけは決して忘れてはいけないと心に誓います。
しかしどのように寄り添い続けていけば良いのか、忘れていないと言うだけで良いのかと戸惑うことがあるかもしれません。様々なかかわり方があると思いますが、私たちに、そして教会にできることの一つに祈りの中に覚え続けるということがあります。実際に毎月11日には被災された方と被災地を覚え祈り続けている教会があり、主日の代祷の中で覚え続けている教会もあります。これから10年、20年、30年と続けていくことで、それは生きた記憶、未来への警鐘となっていくのだと思っています。教会が大震災の出来事を伝える、生きた「石碑」になることも、とても大事なことだと思いますし、これまでかかわってきた者の責任でもあると思います。
祈りの中で覚え続けていると、その人の顔が見たくなったり、その場所に行ってみたくなったり、何かできることはないかと思ったりします。教区では被災者支援の働きが継続されており、宣教部主催の「被災地に立つ」が今年も行われます。山形の教会では年に数回被災地を訪ねることを続けています。何ができるわけでもない、行って、見て、帰ってくることの繰り返しです。不思議と毎回素敵な出会いがあることが感謝です。これからいろいろな働きが見た目には小さくなり、その形も変わっていくのかもしれません。それでも「覚え続ける」ことが、教会の自然な姿であり続けたいと思います。広報委員会ではできるだけ「今」の被災地の様子を伝え続けたいと思っています。教区の皆様も夏休み、秋の行楽シーズンなどに被災地を訪問される機会がありましたら、その地の様子をご一報いただけましたら幸いです。
司祭 ステパノ 涌井 康福
写真:磯山聖ヨハネ教会礼拝堂跡地訪問
「なぜこの道を?」 2018年9月号
「進学希望校先を宮城教育大学から東北学院大学のキリスト教学科に変更をしたいのだけど、いいかな?」
1994年のある日、私は両親に相談をしました。今から24年前、私が18歳の時の話です。
私は中学生時代に不登校になり、ほとんど中学校に行きませんでした。
そんな私を3年間担任してくださった先生がいます。今ではなかなか連絡を取れていないのですが、心から尊敬している方です。昼夜を問わないでいつでも私のこと、家族のことを気にかけてくださり、先生と出会っていなければ今の私がなかったのではと思うほど大切な恩師です。私自身、子どもが大好きで将来は先生のような子どもたちに関わる仕事がしたいと漠然とではありますが思うようになっていました。そして高校生になって、将来は小学校の先生になりたいと思い、進学先は宮城教育大学を考えていました。私は、中学校はほとんど行くことが出来ませんでしたが、恩師の担任の先生、両親、弟、教父母、教会の信徒の皆さん、友人の支えにより3年生の2学期から登校出来るようになり、高校受験をすることが出来ました。第一志望校には合格することが出来ませんでしたが、徒歩通学可能な距離にある仙台の県立高校に合格できました。高校生活は充実していました。吹奏楽部に入り、ほとんど休みなく部活動に明け暮れる日々でした。そのような日々の中で将来の進路を考えていたときに中学時代のこと、そして教会を通して感じてきたことを振り返っていました。
そして聖職の道を志すことと小学校の先生の道を目指す道と2つの選択肢が出てきたのです。そして、当時の心境を振り返ってみると、私の心は「聖職」への道へと傾いていたと思います。
両親も進学希望先変更の了承と聖職を志す道も応援してくれました。
進学希望先を変更し、東北学院大学への入学が決まっていた1995年1月に阪神・淡路大震災が発生し、中山司祭に誘って頂き、神戸にボランティアに行かせて頂きました。神戸の街の惨状にただただ驚きつつも、その現場で懸命に助け合いながら生きる方々やボランティアの方々との出会いがありました。
大学に入り、新しい仲間が出来、たくさんの影響を受けました。また神戸で開催された日本聖公会全国青年大会にも、最初は遠慮して参加を渋っていたのですが、実行委員長からの直々のお誘いを受け、参加させて頂き、大会にかけるスタッフの皆さんの熱い思いと参加者との出会いを通して私の目が開かれました。そして東北教区でも青年の交わりがしたいと当時の教会の仲間に声をかけて青年活動を行ったことを、まるで昨日のように覚えています。充実していた大学生活、教会生活でしたが、大学4年の時に弟が自ら命を絶ちました。どん底に突き落とされた経験でした。この道を歩むことを躊躇する本当に苦しい時でした。
しかし、私は翌年の春にウイリアムス神学館に入学をしました。振り返ってみると私の人生の節目で見えざる神さまの導きがあったことを感じざるを得ません。神さまからの形を変えた様々な呼びかけに迷いながらも、手を伸ばし続けてきたことが、今の私を支えてくれていると信じながら、これからも聖職の道を歩みたいと思います。
司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会牧師)
写真:十和田湖畔鉛山聖救主礼拝堂の祭壇の前に掲げられているイエス様
あけぼの2020年9月号
「口より行動する信仰生活」
「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(コリントの信徒への手紙二1:12)
コロナウイルス感染症拡大の中で信仰生活を過ごしている東北教区各教会や信徒皆さん、また地域の皆様の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。
人々は一般的に行動より先に口を出します。また、言うのは簡単ですが行動が従わなくて失敗したり、信用を失ってしまう場合が沢山あります。
成功というものは、口ではなく、行に現れます。そのためには行動する生活を守らなければならないということを覚えておいてください。
まず、宣言は口がしますが、占領は足ですることになります。
足が先に行かなければならない理由があります。宣戦布告をして遠くから攻撃しても、実際にその地に旗を立てなければ占領された土地とすることができないのです。占領は、ただ、その地を足で踏むその瞬間からのものです。皆さんの成功が永遠に皆さんのものになることができるのは、行動をする場合のみ可能になります。
それだけでなく、口で宣言した者の責任は、行動することで責任を果たさなければなりません。皆さんが成功のために人々に話をしたとき、その宣言と行動に責任を伴っていなければ、皆さんは、多くの人々から非難を受けることになります。
したがって、口で述べたことの責任は行動で実践しなければならないという原理を思い出してください。成功とは、行動する者だけが味わう栄光であることを深く心に留めてください。
第二:行動は練習を介してのみ可能である。
言うことは簡単ですが行動は難しいものです。しかし、言葉より行動が自然に先立つには、瞬発力を育てる訓練が必要です。瞬発力は頭ではなく、感覚によって可能であり、感覚は繰り返されたトレーニングで可能となります。
足とは、足音を出すことだけではなく行動することで、普段繰り返された行動の習慣が自然に足を動かしています。足の動きは、皆さんが目指した成功の高みを占領するようにします。
第三:理由は行動を止める。
皆さんの行動を停止させ、妨害するものは理由です。いくつかの出来事が皆さんに行動してくれることを要求したとき、同時にあるものが理由です。理由はなぜ?という疑問を要求します。それで、皆さんの頭は、計算に着手し、それによって行動は、瞬発力を失い、最終的に行動にブレーキがかかってしまいます。
今、私たち東北教区に必要なのは、相手の声をしっかり聞くこと、神様が与えてくださった世の中を信仰の目で見ることです。神様の声を聞こうと努力し、神様の力を経験しなければなりません。また、神様の愛を感じる信仰生活が必要です。私たち東北教区のビジョンというものは、いろんな言葉と会議による計画ではなく、神様の前で静かにお祈りをしながら、人間の声ではなくて神様の声を聞くこと、人間の計画ではなくて神様の導きを受け止める謙虚な信仰が必要です。
司祭 ドミニコ 李 贊煕(仙台聖フランシス教会 牧師)
あけぼの2022年7月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「新しく創造される」
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤの信徒への手紙6章15節)。このみ言葉は2000年前のイエス様の復活と聖霊降臨から始まった教会が、その最初期の宣教の現場にあって、過去のユダヤの伝統や決まり事(律法)の間で四苦八苦しているのに対して、パウロが送っている言葉です。これは同じ教会の中にあってもいまだ古い伝統(割礼)に拘り、新しい一歩を踏み出せずにいる人々がいることに対して、本当に大切なことは主イエスの十字架の他に誇るものが無い、新しい道へと創造されていくことこそが大切であるとの教えであると思います。
それはまさに古いものが一度壊されて、新しいものが創造され始まっていく。そんな最初期の教会が歩んだ道を示唆するものであり、現在の私たちもまた、その新しい創造されたものとして同じ道に入っているのでしょう。しかしここでふと思うことがあります。それはこの聖書の中で起こっている「新しく創造されること」とは、実は今も起こり続けていることであり、起こり続けていなければならないことではないかということです。
料理人や伝統芸能・工業などの世界に「守破離」という言葉があるそうです。これは人が修行して行く過程を示すもので。「守」はひたすら伝統を守りその教えを吸収すること。「破」はその伝統や教えを一度壊すこと、そこに拘らないで取り組むことを意味し、「離」で自分自身という「個」を完成するということだそうです。
ここで面白いのは、こういった伝統あるものについて。外から見る私たちにとってのそれは、実はあまり変わっているようには見えないことが多いという点です。それは長い伝統があるものほどそう見えます。でも実際にはその伝統の中では、脈々と「守破離」が繰り返されて、新しい破壊と創造が行われている。目にはみえにくい部分で確かに「変わり続けている」からそこ、それらのものは、現実を生きる私たちにも受け入れられ「良いもの」とされているということです。
これは私たちもそうなのではないでしょうか。私たちの教会・教区あるいは故人の信仰にはそれぞれ歴史があり、そこには伝統と呼べるものがたくさんあることでしょう。でもそれは決して「不変」のものでも「不壊」のものでもなく、「変わり続けていく」「新しく創造され続けていく」ことが大切なのだと思います。
またもう一つ大切なことは、この「守破離」をなしていく上で大切なのは「確かな芯」がなければならないということです。どんな伝統あるものでも、そこに確たる「芯が」なけえれば、「守破離」の課程でそれは全く別のものに変質してしまうことでしょう。でもそうはならなかったから、それらは今も存在し続けている。
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そしてそれは私たちの教会にあっては、最も確かな「主イエスという芯」があることも示しています。どんなに私たちが、それぞれ「守破離」をしても、そこに主イエスという「芯」があり続ける限り、それは「良いもの」であり続けることでしょう。
今私たちは色々な意味で過渡期を迎えているように思います。そんな時代の中で私たちが「イエスの弟子」として立ち続けるためにも、一度それぞれの「守破離」と「新しく創造されること」に思いを寄せてみては如何でしょうか?
福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓
あけぼの2024年10月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「イエスの深い憐れみ」
「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えを始められた。」(マルコ6:34)
今年8月の主日はすべてヨハネによる福音書6章が選ばれ少しずつ読み進めてまいりました。ヨハネ福音書6章の冒頭には有名な「五千人の給食」が記されています。この記事は4つの福音書すべてに記されています。今年は7月21日(特定11)にマルコによる福音書の記事が選ばれていました。冒頭の聖句はその一部ですが、イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ」ました。
6章を読んでいくと興味深い事実が記されています。
お腹を空かせていた多くの人々が奇跡を目の当たりにして主を自分たちの王にしようとします。その人々の様子が次第に変化していきます。「わたしは天から降ってきたパンである」「わたしは命のパンである」という主の教えの真意を理解できず、弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやき、ついには離れ去り、共に歩まなくなったのです。ヨハネ6章の最初と最後では人々の様子がまるで違うのです。
私はこれが人間の姿だと思います。主のもとに集まってきた人々は「空腹」でした。そして生きる希望を見いだせない「限界」にあったのだと思います。私たちが生きていくためには目に見える食べ物が必要です。人はパンだけで生きるのではないと聖書は語りますが、実際に限界に追い込まれた人にとっては今日を生きていくための食べ物、そして目に見える希望が必要なのです。
盛岡聖公会では地域の課題に寄り添っていくためのきっかけとなればという思いから「フードドライブ(食料支援・回収)」を実施しました。フードバンク岩手によると「想像できないかもしれませんが、学校の給食が頼りの子どもたちにとって夏休みはとても辛い期間なのです。そのため、夏休み中の食料支援の要請は通常の倍以上にもなります。」と報告されています。夏・冬休み前のフードバンク岩手への緊急支援要請は2021年で924世帯、2023年で1,004世帯と年々増加しています。子どもたちの食への貧困問題は深刻で、体の健康はもちろん、心の健康にも大きく影響を及ぼしています。
「実にひどい話だ」と言って主のもとを離れていった人々を、なんて符深厚な人なのだとは決して言えないと思います。なぜなら、人々の置かれていた現状は大変厳しかったのだと想像するからです。満たされない時、人は絶望し自己中心的な行動、言動をしてしまうのです。ですからイエス様の言葉も彼らには届かなかったのです。そんな人間への思いが「深い憐れみ」という言葉に込められています。
飼い主のいない「限界」に追い込まれた人々への深い深い思い、まなざしが向けられています。そして、私たち一人ひとりが日々しんどさを抱えながら生きていることも主は知っておられます。「私たちの日ごとの糧」が与えられ、お腹を空かせている人がいなくなる社会の実現こそが紙の国のしるしです。「わたしは命のパンである」と言われた主のみ言葉が私たちの心に留まるためにも、「神の国」の完成のためにあなたの存在を必要としてくださっている主からの招きに応えてまいりましょう。
盛岡聖公会牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也
「寄り添う心」2016年11月号
先日、ある教会の信徒の方から電話がかかってきた時のことです。私はあいにく留守にしておりましたので妻が電話に出て「今、司祭は刑務所に行っています」と答えますと「どうなさったのですか?、いつ出てくるのですか?」と大変驚かれ、心配をおかけしたという出来事がありました。我が家や盛岡聖公会では「刑務所に行ってきます」という会話が、日常の中に違和感なく存在しており、実はその時、私は宗教教誨師の務めを行なうため盛岡少年刑務所に出かけていたのでした。
宗教教誨師とは、「全国の刑務所、拘置所、少年院等の被収容者に対し、各宗教宗派の教義に基づいて、徳性や社会性の涵養を図り、健全な人格の形成に寄与するため、行政・矯正施設からの要請を受け、民間のボランティアとして活動する宗教家」と定義されています。
盛岡聖公会への赴任と同時に前任者の後を継ぐ形で、教区主教の推薦をいただき、全国教誨師連盟から認証を受け宗教教誨師の働きを行うこととなりました。具体的には私の場合、月に1度ないしは2度、地域の矯正施設(盛岡少年刑務所、盛岡少年院、盛岡少年鑑別所)に出向き、教室のような場所で、希望者に対し聖書の講読・勉強を1時間ほど授業形式で行なうことが主な活動となっています。宗教教誨を希望する被収容者は、キリスト教の他、仏教、神道、天理教等様々な宗教から選ぶことができ、受講者は、キリスト教の場合多い時で10名ほど、普段は5名ほどとなっています。熱心な方が多く、主の祈りをもって始め、最後に感想を語り合い、また、質疑応答も活発で、聖歌を歌うこともあります。さらに希望によって個人面談が設けられます。先日は少年鑑別所の担当者から収容中の少年による面会希望の連絡を受け、急遽、ギデオン協会の聖書を携えて少年鑑別所に出向くというようなこともありました。
盛岡聖公会の宗教教誨活動の歴史は長く、基本的には歴代の教役者がこの務めを受け継いで今日に至っています。昔は青年会や婦人会が慰問に訪れたり、クリスマスには女性の青年たちが訪問してクリスマスキャロルを歌ったという話を聞きますが、セキュリティーの面から現在ではなかなか難しくなりつつあるようです。また、盛岡聖公会では主日礼拝の代祷で教誨活動のためにお祈りいただき、さらに公益財団法人全国教誨師連盟・仙台矯正管区教誨師連盟岩手県教誨師会の後援会に教会と婦人会がそれぞれ団体会員となって加入し、毎年後援会々費という形で支援を続けています。このように教誨活動は教役者一人による働きではなく、教会の業として長きに亘り行われてまいりました。
盛岡少年刑務所の運動場に「心はいつもあたらしく」という言葉の刻まれた立派な記念碑が建てられています。この言葉の贈り主は高村光太郎で、太平洋戦争の最中、宮沢賢治の実弟の援助を受けて花巻に疎開し、暫く滞在しました。その際、盛岡の刑務所を訪ねて受刑者に寄り添って励まし、愛情をもって受刑者と向き合われたということです。「実際の罪」を犯した人々は矯正施設に収容され刑として、償ってまいりますが、私たちも「内心の罪」に日々苦しむ罪人です。自分に寄り添う人が必要なように、だれにも寄り添う人が必要だと改めて思い、導きを祈るものです。主イエスの働きの一つである教誨活動のためにもお祈りいただければ幸いです。
司祭 ヤコブ 林 国秀