教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2022年7月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「新しく創造される」

 

 

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤの信徒への手紙6章15節)。このみ言葉は2000年前のイエス様の復活と聖霊降臨から始まった教会が、その最初期の宣教の現場にあって、過去のユダヤの伝統や決まり事(律法)の間で四苦八苦しているのに対して、パウロが送っている言葉です。これは同じ教会の中にあってもいまだ古い伝統(割礼)に拘り、新しい一歩を踏み出せずにいる人々がいることに対して、本当に大切なことは主イエスの十字架の他に誇るものが無い、新しい道へと創造されていくことこそが大切であるとの教えであると思います。

 

それはまさに古いものが一度壊されて、新しいものが創造され始まっていく。そんな最初期の教会が歩んだ道を示唆するものであり、現在の私たちもまた、その新しい創造されたものとして同じ道に入っているのでしょう。しかしここでふと思うことがあります。それはこの聖書の中で起こっている「新しく創造されること」とは、実は今も起こり続けていることであり、起こり続けていなければならないことではないかということです。

 

 

料理人や伝統芸能・工業などの世界に「守破離」という言葉があるそうです。これは人が修行して行く過程を示すもので。「守」はひたすら伝統を守りその教えを吸収すること。「破」はその伝統や教えを一度壊すこと、そこに拘らないで取り組むことを意味し、「離」で自分自身という「個」を完成するということだそうです。

 

ここで面白いのは、こういった伝統あるものについて。外から見る私たちにとってのそれは、実はあまり変わっているようには見えないことが多いという点です。それは長い伝統があるものほどそう見えます。でも実際にはその伝統の中では、脈々と「守破離」が繰り返されて、新しい破壊と創造が行われている。目にはみえにくい部分で確かに「変わり続けている」からそこ、それらのものは、現実を生きる私たちにも受け入れられ「良いもの」とされているということです。

 

これは私たちもそうなのではないでしょうか。私たちの教会・教区あるいは故人の信仰にはそれぞれ歴史があり、そこには伝統と呼べるものがたくさんあることでしょう。でもそれは決して「不変」のものでも「不壊」のものでもなく、「変わり続けていく」「新しく創造され続けていく」ことが大切なのだと思います。

 

またもう一つ大切なことは、この「守破離」をなしていく上で大切なのは「確かな芯」がなければならないということです。どんな伝統あるものでも、そこに確たる「芯が」なけえれば、「守破離」の課程でそれは全く別のものに変質してしまうことでしょう。でもそうはならなかったから、それらは今も存在し続けている。

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そしてそれは私たちの教会にあっては、最も確かな「主イエスという芯」があることも示しています。どんなに私たちが、それぞれ「守破離」をしても、そこに主イエスという「芯」があり続ける限り、それは「良いもの」であり続けることでしょう。

 

 

今私たちは色々な意味で過渡期を迎えているように思います。そんな時代の中で私たちが「イエスの弟子」として立ち続けるためにも、一度それぞれの「守破離」と「新しく創造されること」に思いを寄せてみては如何でしょうか?

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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あけぼの2022年6月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「ロザリオの祈り」

 

 

あまり聖公会では、「ロザリオの祈り」という古くからの教会の伝統の中で行われてきた信心業について語られたり行われたりしませんが、定年退職後数年、私はこの「ロザリオの祈り」に凝っています。毎朝起床後すぐにまずこの「ロザリオの祈り」を祈り、私の一日が始まるのです。

 

「ロザリオ」とは、“バラの花冠”という意味で、“アヴェ・マリアの祈り”を一輪のバラとみなし、数珠になっているロザリオの珠を繰る時、イエスさまの生涯のおもな出来事が“アヴェ・マリアの祈り”を背景にして魂の目の前で繰り広げられます。これらの出来事は、〈喜びの神秘〉〈光の神秘〉〈苦しみの神秘〉〈栄えの神秘〉と4つの神秘にまとめられていて、それを曜日ごとに分けて行われ、私たちが主をよりよく知り、より深く愛することが出来るように、整えられて黙想が出来るのです。

 

教皇フランシスコは、“ロザリオの祈り”に関して次のように言っておられます。「ロザリオの祈りは、わたしたちを神に開く効果的な方法の1つです。それはエゴイズムを克服し、家族と社会と世界に平和をもたらすのを助けるからです」と。

 

 

先日次のようなことがありました。ロシアによるウクライナへの武力侵攻は世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で自体が展開していきましたし、今も続いています。

 

教皇フランシスコは、いのちの危機に直面している状況を憂慮され、平和を求めるために様々に努力を続けておられて、去る3月25日「神のお告げの祭日」(聖公会では、「聖マリヤへのみ告げの日」)に、教皇はヴァチカン聖ペトロ大聖堂で、ロシアとウクライナを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献されました。その際に教皇は、全世界の司教たちに、又司教を通じてすべての信者に、この奉献に一致して祈るように、出来れば教皇の祈りと同じ時間に祈りを捧げるようにと招かれ、呼びかけられました。

 

この呼びかけに応えて日本カトリック教会も、教会も、教皇によるローマでの奉献の時間が日本では夜になることから各教区で様々な工夫をしながら祈りの時が持たれました。大阪大司教区ではその「祈りの時」に参加して、世界の教会が同じ趣旨で同時に一致して祈るというこの機会に参加したい望みを持ちました。この「祈りの時」での公式の祈りは比較的長文の祈りでしたが、各国の言葉にすぐ翻訳されて世界中の教会が心を合わせて祈る祈りでしたし、「祈りの時」のベースは「ロザリオの祈り」でした。日頃少しは慣れ親しんできていた「ロザリオの祈り」でしたので、私でも参加しやすかったです。

 

このように「ロザリオの祈り」は、個人的信心業を越えて、「神の民=教会共同体の祈り」として全世界の教会が一致して祈ることが出来るという主なる神からの“招き”に気づかされましたし、その恵みに感謝した次第でした。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託 司祭 パウロ 松本 正俊

 

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あけぼの2022年5月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「あから働く、あるいは生きる」

 

 

以下は、ある単語を辞書で調べた際の説明です。ある単語とは何かおわかりでしょうか。

 

「立場上当然負わなければならない任務や義務」「自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと」「法律上の不利益または制裁を負わされること。特に違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担」。

 

そう、ある単語とは「責任」です。しかし、これでは今一つ腑に落ちないと考えるのは私だけでしょうか。そこでその理由を考えてみました。そして思い至った結論は…。

 

これらの説明はすべて「義務」という言葉の説明にも置き換えられそうだからです。しかし「責任」を「義務」とまったく同義語としてしまって果たしていいのだろうか。そう思います。なぜなら聖書に学ぶ「責任」は「義務」とは対極にある「自由」という概念から生じた言葉で、「人として支え合い活かし合いながら、共に豊かな生を生きることを求め続けるための俯瞰的な視点」をもつことだと思うからです。

 

 

ダビデ王の時代に、ダビデの息子ソロモンによって神殿建設が進められることになりました。そのためにダビデは莫大な量の金、銀、青銅、鉄、木材などを寄進し、また民にも寄進を呼びかけました。結果、おびただしい量の資材が献げられましたが、その際のダビデの言葉「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29章14)は、自らの行為を果たすべき義務としてではなく、神の恵みに対する自由意思の応答として捉えています。これこそが、「人として支え合い活かし合いながら、共に豊かな生を生きることを求め続ける俯瞰的な視点」をもった聖書の教える「責任」だと思うのです。

 

新約聖書の「タラントンのたとえ」(マタイによる福音書25:14~)では、「責任」についてのさらに明確な対比が示されています。旅に出る主人が僕たちそれぞれに5タラントン、2タラントン、1タラントン預けるこの譬え話において、自由意思の応答として自らの「責任」を考えたのは、商売をしてさらに5タラントン、2タラントンを儲けた僕たち、義務としてしか自らの「責任」を考えられなかったのは、1タラントン預かって穴の中にそれを隠した僕です。すなわち、義務としてのみ捉える「責任」は常に、「言われたからやった」「嫌々やった」「そうしなければならないからやった」などの言葉で装飾され、かつ自分の保身がその中心にあるのに対して、自由意思による応答として「責任」は、「こうしたら喜んでくれるだろうから」「こうするとみんなが便利だから、嬉しくなるだろうから」などそこに義務感はなく、他者の存在を視界に入れていなければ出てこない発想です。中心にあるのは他者の存在でありその幸せとであるとも言えるでしょうか。

 

私たちは、役割や機能や義務に偏らず、同じ星に棲む者同士、希望や夢を共有するために自分に何ができるのかを探し求め続けること、そこに招かれています。そうして働くこと、生きることこそが、キリストに倣う人間としての「責任」だと思うのですが如何でしょうか。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

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あけぼの2021年12月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「天国の鍵とみ言葉の剣」

 

 

私の奉職する福島県にある郡山聖ペテロ聖パウロ教会は、郡山市街地の中心に位置する麓山の上に建っています。聖堂は、1932年(昭和7年)に、当時のジョン・コール・マキム司祭が尽力されて建立し、ビンステッド主教により聖別されました。鉄筋コンクリート造ゴチック様式の荘厳で神聖な趣が今も保たれ、登録有形文化財に指定されています。そして2011年の東日本大震災の際には、地震の大きな揺れに加えて、地域全体が原発事故による放射性物質の被害に見舞われ、大変な苦難を負わされました。その時、日本聖公会の取り組みの拠点となるべく、セントポール会館が建てられ活動が行なわれました。現在は、信徒会館としての機能や幼稚園関係の集会だけでなく、地域に開らかれた施設として英会話教室、学習教室、生け花教室、諸団体の会議などに用いられています。すばらしい聖堂が建てられたことや聖ペテロ、聖パウロという二人の偉大な使徒の名前が命名されたことは、先人たちの宣教伝道への意気込みとして今も受け継がれています。そして聖堂内部の聖書台の前には、その象徴となるべく高さ30cmほどの聖ペテロと聖パウロの像が並べて安置されています(写真)。

 

 

聖ペテロは、主イエスの最初の弟子となり、「あなたがたは、わたしを何者だというのか。」と主イエスから問われ、真っ先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をし、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ16:19)と言われました。それゆえこの像の聖ペテロも立派な鍵を抱えており、聖ペテロが教会を「守る」使徒という思いが湧いてきます。しかしその聖ペテロは、主の十字架の際、主の仲間であることを三度も否定するという罪と汚点を残してしまいます。一方聖パウロの像は、左手に剣を持ち、右手には聖書を抱え、み言葉を武器に何事をも恐れずぐんぐんと前に切り開いて進む、力強いイメージが沸き上がります。パウロの持つ剣と聖書は「霊の剣、すなわち神の言葉」(エフェソ6:17)を表し、さらにその剣は「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4:12)と証されています。しかし聖パウロは他の使徒とは異質で、回心し、主に従う以前は主の働きに加わる人々を迫害して捕らえ、殺しさえする人物だったことが包み隠さず伝えられていることを加えます。教会は、信仰や礼拝を「守る」一方で、外に向かって切り「開く」姿勢を持ちますが、聖ペテロのもつ鍵と聖パウロのもつ剣は、教会に備わるべきその二つを表しているといえます。

 

聖ペテロと聖パウロの働きが全く違う性質のようにも記しましたが、二人には前述のように人間の弱さから犯した罪を「神様に赦され、愛に包み込まれた人」という大きな共通点があります。それは復活の主との出会いの中で変えられ、その後自らも人を赦し、希望に満たされ立ち上ったという点で同じです。さらに偉大な使徒にも拘わらず人間としての弱さや負の人生も包み隠さず聖書に残したことや神様に愛された喜びを証したことが、この二人の偉大さであることに気づきます。私たち誰もが、主イエスとの出会いの中で神様に赦され、その恵みによって歩み、愛され立っている者です。私たちも懸命に信仰を守り、心を開き、捧げ、主イエスの愛の生きた証し人、その肢として教会の働きを共に強めてまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会 牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

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あけぼの2021年11月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「諸聖徒日によせて~憶えて祈る~」

 

 

秋も徐々に深まり、11月1日には「諸聖徒日」という祝日を迎えます。

 

教会が諸聖徒日を守るようになったのは、5世紀始め頃のシリアの教会で、よく知られている全ての殉教者と、全く知られていない殉教者を記念して祝ったのが、その始まりだそうです。そして後には全ての逝去者を憶えて祈るようになりました。

 

よく知られている殉教者逝去者を記念することは、それほど難しいことではないでしょう。それは丁度、自分の親族や知人の死を記念する時のように、それらの人々の痛みや苦しみ、あるいは暖かい最後の交わりの時などを思い起こすことができるからです。けれども、全く知らない人を記念することは、とても難しいと思います。しかしそれが難しいと言って、私たちが記念しないなら、私たちにとっては、それらの人々は無に等しくなってしまうでしょう。

 

父なる神様はそのようなことをお望みではないと思います。イエス様は人が無視してしまうような「これらの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言われ、私たちが知っていようといまいと、一人ひとりの人を大切にすることを望んでおられるのです。私たちが知っていようといまいと、その人の人生があり、死があるのです。その事実は空しいものではなく、私たちが考える以上にイエス様、神様にとって大切な人生なのです。そのことに私たちの想像力を、思いを巡らせることが大切なのだと思います。

 

 

2005年の夏、「聖公会国際礼拝協議会」に出席するために加藤主教様とチェコのプラハに行ったことがありました。その協議会終了後、私たちは2つの経験をしました。

 

1つは、8月6日、旧市内の聖ミクラーシュ教会で、広島の犠牲者を憶えるレクイエム・コンサートが開かれていたことです。日本から遠く離れた中欧の教会が、60年前のヒロシマの出来事、原爆犠牲者の苦しみを憶えて祈って下さる。とても感激しました。

 

もう1つは、翌日に訪れたユダヤ人町の会堂(シナゴーグ)で見た出来事です。プラハに残る6つのシナゴーグの1つに、ピンカス・シナゴーグがあります。そのシナゴーグの壁面一杯に、人の名前と生年月日が書かれていたのです。(写真)それはナチスの大量虐殺によってチェコで殺されたユダヤ人犠牲者、約7万8千人の名前だそうです。それは人々の生きていた証しであり、痛みと苦しみの記憶でもあると思いました。まさにここでも人々は「憶えて祈り続けられて」いるのです。

 

 

諸聖徒日(に近い日曜日)、私たちはそれぞれの教会で神様のもとに凱旋された方々のお名前を呼んでお祈りします。それらの方々は私たちがよく知っている人、記憶に新しい人たちであると同時に、私たちが直接には知らない多くの信仰の先達たちです。その祈りは私たちの祈りだけではなく、すでに召された方々も天上の教会でイエス様と共に私たちを憶えて祈ってくださる、共同の祈り、交わりの祈りです。この世で神様と隣人を愛して生きられた一人ひとりの人生を憶えて祈り、神様がその人々を迎え入れてくださっていることを感謝して祝う時、そこには真実の聖徒の交わりがあるのではないでしょうか。

 

 

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 

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あけぼの2021年10月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「私たちは何かを信じ、何かに賭けて、前に進む」

 

 

コロナ禍自粛で先が見えない中で、冒険は遠ざかり、確実性を探し求めて生きるようになってきました。

 

夢と希望を追い求めた熱気に満ちた青春時代、そして今私は無駄なものをそぎ落してシンプルな生き方のゴールドエージを迎えました。しかしこの状況のなかでは思うような人生設計は叶いません。さらに心に映る景色が変わりました。

 

 

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

(ヘブライ人への手紙11章)

 

今信じることの不確実性に耐えがたいジレンマを感じています。私たちは少なくとも信じるものが存在しないと生きる力は湧いてきません。今顔の見える関係が希薄になってきました。見えない事実を日々確認したいのです。

 

合うことが出来れば例え貧弱な会話でも相手の顔の表情、ふるまいで心が通じます。他所とのふれあい、出会いを通して私たちは癒され、前に踏み出すことが出来ます。

 

前に出るということは冒険の旅に出かけることです。それこそ片道切符を手に握りしめて夜汽車に乗り込む心境です。目が覚めたらそこに何が待っているかわかりません。それでも信じるものに賭けて失敗を恐れず、全身で時間の止まった確実性の世界から飛び出して行きたいと思うのです。信じることを離れては何事も成すことは出来ません。生まれてすぐの赤ちゃんは全幅の信頼を母親に委ねます。この信頼が幼子の生きる力となります。

 

 

「私たちはいつまでも残るものを待っていると知っているので、財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです。だから自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるには忍耐が必要なのです」

(ヘブライ人への手紙10章)

 

私事ですが39年間東北教区でご奉仕に与り、その間、言語に尽くせない多くの体験を皆さまのご支援をいただきながらいたしました。時に忘れることの出来ない、忘れてはいけない2011年3月11日の東日本大震災は私が生きてきた人生に疑念を抱かせることになりました。

 

2万人近くの尊い命が奪われ、33万人の方々が仮設等で片寄せ合って、生活していました。先の希望は見えず、放射能汚染で、家族はばらばらにされ、帰りたい故郷には一歩も近寄れないでいる多くの現実がありました。一見元気そうに見える方も悲しみと辛さを耐えて頑張っていました。しかし仮設から一歩外に出ると、一見前と変わらない景色の中で、私を含めて多くの人々が生活していました。被災者の方々から時々言われたことを思い出します、「帰る家があること…いいよな!」と。日常の平和な生活、平凡な生活、特に変化は無いが仕事がある生活…3月11日を境にすべてが一変した多くの方々。平和な日常は夢の又夢となりました。

 

コロナ禍は再び3月11日のあの日々を思い出しました。先が見えない耐えがたい苦難と悲しみを背負ってこの10年を生きてきた震災の当事者の方々に想いを馳せます。

 

大震災から、コロナ禍の自粛生活から見えてきたものがあります。決して忘れてはいけないもの、信じること、諦めないこと、そして忍耐を伴うが自分の確信を決して捨てないことだと思います。

 

何も出来ない、助ける術もわからない、力も能力もない、そんな時イエスがそっと寄り添って「だいじょうぶだよ」と祈りの中で天の声が聞こえてきます。

 

 

打ちひしがれた時にこそ、主の豊かな恵みに触れ、約束されたものを受けることを信じて一歩でも前に進めますように…。主に感謝

 

 

仙台基督教会 嘱託 司祭 ピリポ 越山健蔵

 

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あけぼの2021年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「祈り続ける教会」

 

 

今現在、私は「朝の礼拝」「昼の祈り」「夕の礼拝」を、毎日献げる恵みと幸いと喜びを享受しています。

 

祈祷書の「朝の礼拝」冒頭に次のような言葉が記されています。“毎日聖書を朗読し、詩編を歌って神をほめたたえ、祈りをささげて日々の生活を神と人とのために清めることは、初代教会からの営みであった。わたしたちも「朝の礼拝」「夕の礼拝」によってこの営みに加わるのである。”とあります。

 

“毎日聖書を朗読する”ということは、ただ沈黙で聖書を黙読するのとは違って、様々なことに気づかせてくれます。例えば、誰に向かって朗読するのか?その方に声は届いているのだろうか?そのためにどのような朗読の仕方がふさわしいのだろうか?等々……。そしてそのような営みを通して、だんだん聖パウロの言う〈キリストを着る〉(ガラテヤ3:27)とか〈キリストがあなたの心の内に住む〉(エフェソ3:17)ということが体感できるような気がしてくるのです。

 

“詩編を歌う”ということについて、私が通っている聖グレゴリオの家で学んだ言葉があります。それは『詩編は、すべてキリストの言葉であり、詩編から我々はキリストの声、キリストについての声、キリストへの声、教会の声、教会についての声を聞くことが出来る。』と。そう教えられて、心を込めて味わいながら詩編を唱える(実際には歌わないが、自然にリズムが整えられる。)と今まで持っていた“詩編理解”から何か新たな目覚めを感じています。

 

さらに、某修道・神父が「詩編を祈る」という本の冒頭で次のようなことを書いていらっしゃいます。『詩編は実際、二千数百年以上もの昔から〈神の民の祈り〉として集められ、伝えられ、そして文字通りに一日もやむことなく歌われていた。――パレスチナの寒村や豪華な得るセムの神殿の中で、さすらいのバビロニアの花の都で、さらにキリスト教の時代になってからは、ローマのカタコンブの地下聖堂や大都会のカテドラル、そして、最後に、喧噪に満ちた大東京の団地や、最果ての北海道の山奥の静かな修道院で――あらゆる種類の男女、〈神の民〉となったひとりひとりの心と口から、一日も絶えることなく歌われて続けてきた。』と。私は二千数百年前から一日もやむことなく絶えることなく歌われ続けてきたなんて、今さらながら“詩編の歴史”はすごい!と思いました。この歴史の流れに実を任せる信仰を教会は主なる神からのご恩寵として受け取り実践してきたのです。

 

言うまでもなく、私たちの信仰は”教会の信仰”です。〈キリストの神秘的なからだである教会の私たちはその肢体である〉という信仰です。この教会で毎日「公祷」として捧げられる神への賛美と感謝、祈り続けられている教会の姿は、初代教会からの尽きること・絶えることのない素晴らしい伝統・歴史です。

 

そのような伝統・歴史を踏まえて、教会共同体〈神の民〉のメンバーとして、私たちは自覚をもって教会生活を送りたいものだと思います。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託司祭 司祭 パウロ 松本正俊

 

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あけぼの2021年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「マグロの赤字」

 

 

endoそこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:29-30)

 

 

「損をして得取れ」ということわざがあります。一時的には損をしても、将来的に大きな利益となって返ってくるように考えなさい、という意味です。日本中、どこのお寿司屋さんに入っても、必ず置いてあるネタはマグロの赤身です。ネタ切れでない限り、食べられないということはないでしょう。実際に、他のネタが無い場合は仕方ないと受け入れられても、マグロのないお寿司屋さんはあまり想像できないものです。しかし、どのお寿司屋さんでも原価率を考えた場合、売れれば売れるほど赤字になることが多いのもこのマグロであると言われています。お店の顔でもあるマグロはケチな仕入れなどできず、また、多くのお客さんが食べることから、値段も上げにくいのです。結果、お寿司屋さんは赤字のマグロを出し続け、他のネタで利益を生み出していくのです。

 

 

イエスさまの生き方を見ますと、決して器用な生き方をされていないことがわかります。もっとわがままに、損得を意識されて、ご自分のことを優先されたらと思うのですが、むしろ、周りからの批判や迫害を一手に引き受け、挙げ句の果てには、十字架の死をすべての人々のために担われ、一番大きな「命」をも、失われます。しかし、その損失ばかりの地上での歩みには、神様の壮大なご計画である人類の救済という豊かで大きな恵みが結び付けられています。

 

教会にとって、損とはなんでしょうか。教会の財源が減ってしまうようなことを言うのでしょうか。得とはなんでしょうか。教会に人があふれるような事態を言うのでしょうか。損とか得などとそんな世俗的な考えはキリスト教の信仰にそもそもふさわしくないとお考えになられる方も少なくはないと思います。しかし、どこの教会も、教区も現実的な問題として、こうしたことは、無視できない状況にあることは確かです。ただ、損なことにしても得なことにしても、大切なのは、それが神様の御心にかなっているかどうかということなのです。もう少し具体的に言いますと、目先の得に捉われて、10年、20年先の教会の維持を見られていますか、ということです。

 

 

現在、東北教区は十和田湖畔の国立公園にあるヴァイアル山荘の建て替えという大きなプロジェクトを進めています。今、この財政難で先行きの見えない大変な時期に、これは、傍目から見ると、無理をしているとしか思えないようなプロジェクトです。しかし、東北教区は、一見赤字を抱えそうなこのプロジェクトに豊かな、恵みと希望であふれている未来を見ています。

 

時間と力と知恵を注ぎ、常に神様の御心を求め、100年以上も紡がれてきたこの歴史的財産の中に、神様の栄光が現されることを信じて疑わないのです。

 

苦しい今この時だからこそ悲観せず、前向きに将来に目を向け、苦しい逆境の中で10年先とは言わず、100年先のための宣教の種を今、一緒に蒔いてまいりたいと思います。

 

 

八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介

 

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あけぼの2021年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「将来の栄光を見てみましょう」

 

 

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、種と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 3:18)

 

 

神様が喜ばれる人は「信仰の人」です。神様の言葉を疑わず信じて従う人を喜ばれます。神様は私たちに向けた特別な計画を持っておられます。神様の計画は、私たちの考えと期待を超越します。神様は、神様を信じて信頼する人を特別な人、偉大な人、夜空に燦然と新星のように輝く人になるように、計画しておられます。もし私たちが信仰を持たず、過去に何のビジョンも持たず、何も成し遂げられない生活を送った場合、今もそうでしょう。

 

しかし、信仰の人は違います。神様のための神聖なビジョンを持って生活します。したがって、私たちは信仰によって、神様の力を頼りにして義の冠を示し、十字架の栄光を見て行動します。このために私たちがしなければならないことは、神様の意思に完全に服従することです。神の意志に服従する者に、神様は聖霊の力を注いでくださいます。

 

 

皆さんはどのような人生を生きていますか。神様を信じず、信頼しない人生を生きたいですか。イエスの中で皆さんの人生を新たに計画してください。日常生活の中で特別な生活に飛躍してください。イエスを私たちの救い主として受け入れれば、神様は私たちのすべての罪を許してくださいます。そして、神の聖霊をプレゼントとしてくださいます。

 

聖霊は、皆さんの人生を特別な人生、能力を行なう人生、偉大な未来が待っている希望の人生に変えてくれます。私たちは、み言葉と祈りを通して、より一層神様を深く知るようになるとき、神様は私たちに人生を理解する能力をさらに育ててくださいます。そして、私たちの人生の扉を開いてくれます。

 

今日、多くの人々は、イエスの前に来ることに消極的です。私たちは、神の仕事よりも世界の世転びと快適さがより好きです。そして主の前にくることを拒否します。

 

しかし、モーセはイエスが現れる1500年前に、イエスのために苦しむ道を選択しました。モーセは信仰によって犠牲制度を定めています。信仰で過越と血をまく儀式を定めました。これは、イエスがメシアとして来られ、十字架で贖いの儀式を捧げ、私たちを救ってくださることを示す象徴の意味を持ちます。イエスがいらっしゃる1500年前にすでにモーセは信仰によってイエスを信じました。彼は選択しました。イエスのために苦しむことが王宮の栄華を味わうことよりよいと思いました。

 

 

私たちは、イエスの恵みと復活の恵みと聖霊を通して、イエス様が私たちの中に永遠に一緒におられる恵美を享受しています。したがって、私たちもモーセのように、イエスのために、世界の楽しさを放棄し、首都一緒に苦しむ道を選択する必要があります。これが行動する信仰です。皆さんの行動する信仰を示してください。イエスを受け入れ、聖霊を受け、その聖霊が常に私たちの中に豊かに住むことによって、特別な人生、輝かしい未来の栄光を成就して生きていかれることを願います。

 

 

仙台聖フランシス教会 牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕

 

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あけぼの2021年6月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「夢を見るということ」

 

 

「牧師さんは神様を見たことがあるのですか?」先日教会を見学に来られた方に言われた言葉です。中々ストレートな質問で、どう答えたものかと考えていると、ふと幼い時の記憶が甦りました。しかもそれは、実際の体験ではなく、その当時に見た夢を思い出したのです。

 

その夢はとても不思議なもので、広い草原のようなところに自分が立っているのですが、突然目の前にとても巨大で光り輝く「何か」が現れる、ただそれだけの夢です。この「何か」が現れた後に、特に何かが起こるという訳でもなく私は目が覚めたのですが、幼い自分はその時に、自分は夢で「神様」を見たのだという不思議な確信を持って目が覚めていたことを思い出したのです。

 

そんな夢の話を見学に来られた方に馬鹿正直にお話ししたものですから、突然キョトンとされてしまい、少し気まずい空気になりました。しかし一方で私はその夢を思い出したことで、自分の信仰というものを形作るものの一つとして、確かにあの夢があったのだということを思い起こすことが出来たのです。

 

 

私は生まれたときから教会というものが傍らにある環境でしたので、洗礼・堅信も周りの大人が進める通りにしましたし、礼拝にも出ていました。しかしそこに神様という存在への確信があったかというと、かなり怪しいままに過ごしていたように思います。そんな信仰生活の中にあって、神様という存在に対する疑いを持たなくなったのは、あの夢を見た頃からだったと、今になって確信できたのです。(教会生活への反発などはこの後も続いていく訳ですが)

 

たかが夢で大げさなと思われるかもしれません。確かにこれは、はたから見れば単なる子どもの時の夢でしょうし、私の話を合理的に裏付ける何かがあるわけでもありません。しかしながら、私たちが信じる聖書の中にあって、ヨセフが夢で啓示を受けるように(マタイ福音書1章20節)、旧約の預言者達が夢幻の中で神様の言葉を預かるように、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)と記されているように、このような「不思議」の中に神様は働かれ、私たちに力と導きを与えてくれるのだと思います。

 

そしてその「夢」は私が見たような分かりやすいものだけではないのでしょう。それは時に礼拝の中に現れるかもしれません。あるいは友との語らいの中、大切な人との日常の中、楽しい時、苦しい時、私たちに現れるものかもしれません。しかしそれらの「夢」あるいは「幻」は、その人の信仰の力と礎になるものでありましょう。
 今のこの世界は、様々な目に見えるもの、見えないものからくる困難に溢れかえり、人々は即効性のある「物」や「成果」を求めています。それらももちろん必要であることは確かでありますが、しかし私たち信仰者はそこで一歩立ち止まり、自分たちに希望と力を与えてくださる方の「不思議な夢、幻」に目を向けて見ることが大切だと思います。

 

 

自分たちの信仰の原点や転換点には、必ず神様からの「不思議な夢」があり、それが私たちの推進力になっているはずなのです。それをこのような時だからこそ、思い起こしてみてはいかがでしょうか?それに神様は、そのように日々歩む私たちに、新しい「夢」をも与えくださることでしょう

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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あけぼの2021年5月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「人生という山」

 

 

人生の歩みはよく山登りにたとえられます。

 

人生がさまざまな経験をしながら一歩ずつ歩むものであるのと同様、登山も一歩ずつ頂上に向かって歩みます。人生はいつも自分の進みたいように進めるわけではなく、入学や就職と言った岐路に立ったときに別の道を進まざるを得ない場合はありますが、山に登るときにも、進みたい道が樹木などで進めず、意に反して回り道を余儀なくされる場合があります。そして、そんな自分の意志に反した道を行ったからこそ生涯の伴侶に出会うことができたり、思いがけない絶景に出逢えたりするのも、人生の歩みと山登りは一緒です。繰り返される日常に埋没して下ばかり向いていると周囲の人の優しさや笑顔に気づけないのと同様、登ることだけに必死になって自分の足下と地面ばかりを見ていると、雄大な景色を見逃すことになりかねません。人生においては、勇気をもって降っていくことや立ち止まることを選択しなければならないことがありますが、登山の場合もいつも上り道とは限らず、頂上に向かうためには下りルートを辿らなければならないことがあります。細く険しい道を通らなければならなかったり、立ちはだかるハードルにゆっくりと歩まねばならない時が人生にはありますが、道の細さや先を歩く人に行く手を阻まれ、思うようにスピードを上げられないことが登山にもあります。

 

思いつくままに挙げただけでも、人生の歩みと山登りが似ているのは間違いなさそうです。

 

しかし登山と、ことに現代人の人生の歩みには相違点もあります。それは登山に際してはこれから登る山そのものについて知ろうとするのに比して、現代人は人生そのものについては深く知ろうとしていないのではという点です。

 

 

私は登山の専門家ではありませんが、おそらく登山に際しては、その山がどこに位置していて、そんな気象条件下にあるのか(天候の変化がおきやすいかどうか)など、ルートや登る手段のみならず、山そのものを深く知らなければなりません。ところが現代人は、自らの人生そのものについて深く掘り下げることにはあまり関心がないのでは、そう思います。自らの人生が、歴史や社会とどのようにつながっているのか、あるいはつながろうとしているのか、人生には悪天候の日もあって当然なのですが、そのための備えとして何をしておく必要があるのか、などといったことにはあまり関心がないように思えるのです。むしろそれよりも、そのコースを選択するのか、それによって見える景色にはどんな違いがあるのかばかりを気にしていると。だからそれを解説した指南本、すなわり「勝ち組になるためには」とか「失敗しない方法」といった類の書を手に取ることに躍起になっているのが現実なのではないでしょうか。

 

人生という山には入学、就職、結婚、親しい友との別れなどたくさんの岐路があります。それら一つ一つは真剣に向き合い決断をしなければならない大切な分岐点ですから必死になって既述の指南本を手に入れることや、その努力をムダだと言うつもりはありません。しかし人生という山そのものを見ずにコースやそこで見える景色ばかりに気をとられていると、希望通りの結果を得られなかったときに、あたかもそれが致命傷であるかの如く意気消沈してしまいます。結果、別の選択や別のルートに用意されている希望までを手放してしまうことになります。依然人生という山に立っていて、山から放り出されたわけではないのにもかかわらず……。

 

マニュアルや手段ではなく、人生という山そのものについて共に考えること、そんな役割も、この時代の宗教=基督の教会にはあるのではないでしょうか。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

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あけぼの2021年2月号

巻頭言「再び会いたいですね」

 

 

「教会相互の交わり・協働関係を深めます。」

 

「教区内17の幼保園(2019年現在)との協働関係を深めます」

 

 

これは東北教区宣教方針の2つの柱であるキーワード「ささげる」、「開く」の内の後者の具体的な行動指針として示されているものです。教区宣教方針が2019年11月に開催された第102(定期)教区会で決議されて早くも1年が過ぎました。

 

昨年はコロナ禍の中にあって教区の諸プログラムのほとんどが中止となりました。今年もどうなるか分かりません。

 

教会の礼拝は、感染予防をしながら再開されていますが、それ以外の事は自粛せざろうえない状況が1年近く今も続いています。皆さんと一緒に食事をして、語り合ったりする日常が特別な恵みであったことを人の出入りが減ってしまった静かな教会の会館で思います。

 

 

私自身の事を振り返っても教区の諸会議はほとんどインターネットを介したオンラインで参加しています。コロナ前は交通費や時間の節約のためにオンライン会議を教会でも取り入れていければいいなと思っていましたが、結局は話だけで終わっていました。

 

しかし、現在ではこれが日常になりつつあります。

オンライン会議はとても便利です。でも何か物足りません。何が物足りないのか。それは相手の感覚です。人間には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)があります。

人類学者である山極壽一氏が興味深い事を言っています。「人間は、視覚と聴覚を使って他者と会話すると脳で『つながった』と錯覚するらしいが、それだけでは信頼関係までは担保できません。なぜなら人は五感のすべてを使って他者を信頼するようになる生き物だからです。そのとき、鍵になるのが、嗅覚や味覚、触覚といった、本来『共有できない感覚』です。他者の匂い、一緒に食べる食事の味、触れる肌の感覚、こうしたものが他者との関係を築く上で重要」なのだそうです。

 

コロナが終息するまではなかなか自由に行き来することは難しいと思いますが、いつか必ず皆さんとお会いしたいです。
教会問答の問27に「聖奠および聖奠的諸式、その他教会の働きはだれが行いますか」とあります。答は「神の民(キリストとその教会を表す信徒と聖職)が共同体として行います」です。

 

これは「教会の働きは一人もしくは各教会単独ではなく一緒に協働していく」ことを示しているだと思います。これは大変重要な事です。

 

一人の小さな手という歌をご存じでしょうか。「ひとりの小さな手何もできないけど、それでもみんなと手と手を合わせれば何か出来る」

 

私は教会間協働、幼保園との協働を地道に着実に行っていきたいと思っています。なぜならそれが教会の働きにおいて決定的に大切なことだからです。今は我慢の時です。しかし、私たちがそれぞれの感覚を互いに感じながら再び会える時が必ず来ると信じています。

 

 

司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会 牧師)

 

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