教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2021年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「祈り続ける教会」

 

 

今現在、私は「朝の礼拝」「昼の祈り」「夕の礼拝」を、毎日献げる恵みと幸いと喜びを享受しています。

 

祈祷書の「朝の礼拝」冒頭に次のような言葉が記されています。“毎日聖書を朗読し、詩編を歌って神をほめたたえ、祈りをささげて日々の生活を神と人とのために清めることは、初代教会からの営みであった。わたしたちも「朝の礼拝」「夕の礼拝」によってこの営みに加わるのである。”とあります。

 

“毎日聖書を朗読する”ということは、ただ沈黙で聖書を黙読するのとは違って、様々なことに気づかせてくれます。例えば、誰に向かって朗読するのか?その方に声は届いているのだろうか?そのためにどのような朗読の仕方がふさわしいのだろうか?等々……。そしてそのような営みを通して、だんだん聖パウロの言う〈キリストを着る〉(ガラテヤ3:27)とか〈キリストがあなたの心の内に住む〉(エフェソ3:17)ということが体感できるような気がしてくるのです。

 

“詩編を歌う”ということについて、私が通っている聖グレゴリオの家で学んだ言葉があります。それは『詩編は、すべてキリストの言葉であり、詩編から我々はキリストの声、キリストについての声、キリストへの声、教会の声、教会についての声を聞くことが出来る。』と。そう教えられて、心を込めて味わいながら詩編を唱える(実際には歌わないが、自然にリズムが整えられる。)と今まで持っていた“詩編理解”から何か新たな目覚めを感じています。

 

さらに、某修道・神父が「詩編を祈る」という本の冒頭で次のようなことを書いていらっしゃいます。『詩編は実際、二千数百年以上もの昔から〈神の民の祈り〉として集められ、伝えられ、そして文字通りに一日もやむことなく歌われていた。――パレスチナの寒村や豪華な得るセムの神殿の中で、さすらいのバビロニアの花の都で、さらにキリスト教の時代になってからは、ローマのカタコンブの地下聖堂や大都会のカテドラル、そして、最後に、喧噪に満ちた大東京の団地や、最果ての北海道の山奥の静かな修道院で――あらゆる種類の男女、〈神の民〉となったひとりひとりの心と口から、一日も絶えることなく歌われて続けてきた。』と。私は二千数百年前から一日もやむことなく絶えることなく歌われ続けてきたなんて、今さらながら“詩編の歴史”はすごい!と思いました。この歴史の流れに実を任せる信仰を教会は主なる神からのご恩寵として受け取り実践してきたのです。

 

言うまでもなく、私たちの信仰は”教会の信仰”です。〈キリストの神秘的なからだである教会の私たちはその肢体である〉という信仰です。この教会で毎日「公祷」として捧げられる神への賛美と感謝、祈り続けられている教会の姿は、初代教会からの尽きること・絶えることのない素晴らしい伝統・歴史です。

 

そのような伝統・歴史を踏まえて、教会共同体〈神の民〉のメンバーとして、私たちは自覚をもって教会生活を送りたいものだと思います。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託司祭 司祭 パウロ 松本正俊

 

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あけぼの2021年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「マグロの赤字」

 

 

endoそこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:29-30)

 

 

「損をして得取れ」ということわざがあります。一時的には損をしても、将来的に大きな利益となって返ってくるように考えなさい、という意味です。日本中、どこのお寿司屋さんに入っても、必ず置いてあるネタはマグロの赤身です。ネタ切れでない限り、食べられないということはないでしょう。実際に、他のネタが無い場合は仕方ないと受け入れられても、マグロのないお寿司屋さんはあまり想像できないものです。しかし、どのお寿司屋さんでも原価率を考えた場合、売れれば売れるほど赤字になることが多いのもこのマグロであると言われています。お店の顔でもあるマグロはケチな仕入れなどできず、また、多くのお客さんが食べることから、値段も上げにくいのです。結果、お寿司屋さんは赤字のマグロを出し続け、他のネタで利益を生み出していくのです。

 

 

イエスさまの生き方を見ますと、決して器用な生き方をされていないことがわかります。もっとわがままに、損得を意識されて、ご自分のことを優先されたらと思うのですが、むしろ、周りからの批判や迫害を一手に引き受け、挙げ句の果てには、十字架の死をすべての人々のために担われ、一番大きな「命」をも、失われます。しかし、その損失ばかりの地上での歩みには、神様の壮大なご計画である人類の救済という豊かで大きな恵みが結び付けられています。

 

教会にとって、損とはなんでしょうか。教会の財源が減ってしまうようなことを言うのでしょうか。得とはなんでしょうか。教会に人があふれるような事態を言うのでしょうか。損とか得などとそんな世俗的な考えはキリスト教の信仰にそもそもふさわしくないとお考えになられる方も少なくはないと思います。しかし、どこの教会も、教区も現実的な問題として、こうしたことは、無視できない状況にあることは確かです。ただ、損なことにしても得なことにしても、大切なのは、それが神様の御心にかなっているかどうかということなのです。もう少し具体的に言いますと、目先の得に捉われて、10年、20年先の教会の維持を見られていますか、ということです。

 

 

現在、東北教区は十和田湖畔の国立公園にあるヴァイアル山荘の建て替えという大きなプロジェクトを進めています。今、この財政難で先行きの見えない大変な時期に、これは、傍目から見ると、無理をしているとしか思えないようなプロジェクトです。しかし、東北教区は、一見赤字を抱えそうなこのプロジェクトに豊かな、恵みと希望であふれている未来を見ています。

 

時間と力と知恵を注ぎ、常に神様の御心を求め、100年以上も紡がれてきたこの歴史的財産の中に、神様の栄光が現されることを信じて疑わないのです。

 

苦しい今この時だからこそ悲観せず、前向きに将来に目を向け、苦しい逆境の中で10年先とは言わず、100年先のための宣教の種を今、一緒に蒔いてまいりたいと思います。

 

 

八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介

 

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あけぼの2021年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「将来の栄光を見てみましょう」

 

 

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、種と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 3:18)

 

 

神様が喜ばれる人は「信仰の人」です。神様の言葉を疑わず信じて従う人を喜ばれます。神様は私たちに向けた特別な計画を持っておられます。神様の計画は、私たちの考えと期待を超越します。神様は、神様を信じて信頼する人を特別な人、偉大な人、夜空に燦然と新星のように輝く人になるように、計画しておられます。もし私たちが信仰を持たず、過去に何のビジョンも持たず、何も成し遂げられない生活を送った場合、今もそうでしょう。

 

しかし、信仰の人は違います。神様のための神聖なビジョンを持って生活します。したがって、私たちは信仰によって、神様の力を頼りにして義の冠を示し、十字架の栄光を見て行動します。このために私たちがしなければならないことは、神様の意思に完全に服従することです。神の意志に服従する者に、神様は聖霊の力を注いでくださいます。

 

 

皆さんはどのような人生を生きていますか。神様を信じず、信頼しない人生を生きたいですか。イエスの中で皆さんの人生を新たに計画してください。日常生活の中で特別な生活に飛躍してください。イエスを私たちの救い主として受け入れれば、神様は私たちのすべての罪を許してくださいます。そして、神の聖霊をプレゼントとしてくださいます。

 

聖霊は、皆さんの人生を特別な人生、能力を行なう人生、偉大な未来が待っている希望の人生に変えてくれます。私たちは、み言葉と祈りを通して、より一層神様を深く知るようになるとき、神様は私たちに人生を理解する能力をさらに育ててくださいます。そして、私たちの人生の扉を開いてくれます。

 

今日、多くの人々は、イエスの前に来ることに消極的です。私たちは、神の仕事よりも世界の世転びと快適さがより好きです。そして主の前にくることを拒否します。

 

しかし、モーセはイエスが現れる1500年前に、イエスのために苦しむ道を選択しました。モーセは信仰によって犠牲制度を定めています。信仰で過越と血をまく儀式を定めました。これは、イエスがメシアとして来られ、十字架で贖いの儀式を捧げ、私たちを救ってくださることを示す象徴の意味を持ちます。イエスがいらっしゃる1500年前にすでにモーセは信仰によってイエスを信じました。彼は選択しました。イエスのために苦しむことが王宮の栄華を味わうことよりよいと思いました。

 

 

私たちは、イエスの恵みと復活の恵みと聖霊を通して、イエス様が私たちの中に永遠に一緒におられる恵美を享受しています。したがって、私たちもモーセのように、イエスのために、世界の楽しさを放棄し、首都一緒に苦しむ道を選択する必要があります。これが行動する信仰です。皆さんの行動する信仰を示してください。イエスを受け入れ、聖霊を受け、その聖霊が常に私たちの中に豊かに住むことによって、特別な人生、輝かしい未来の栄光を成就して生きていかれることを願います。

 

 

仙台聖フランシス教会 牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕

 

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あけぼの2021年6月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「夢を見るということ」

 

 

「牧師さんは神様を見たことがあるのですか?」先日教会を見学に来られた方に言われた言葉です。中々ストレートな質問で、どう答えたものかと考えていると、ふと幼い時の記憶が甦りました。しかもそれは、実際の体験ではなく、その当時に見た夢を思い出したのです。

 

その夢はとても不思議なもので、広い草原のようなところに自分が立っているのですが、突然目の前にとても巨大で光り輝く「何か」が現れる、ただそれだけの夢です。この「何か」が現れた後に、特に何かが起こるという訳でもなく私は目が覚めたのですが、幼い自分はその時に、自分は夢で「神様」を見たのだという不思議な確信を持って目が覚めていたことを思い出したのです。

 

そんな夢の話を見学に来られた方に馬鹿正直にお話ししたものですから、突然キョトンとされてしまい、少し気まずい空気になりました。しかし一方で私はその夢を思い出したことで、自分の信仰というものを形作るものの一つとして、確かにあの夢があったのだということを思い起こすことが出来たのです。

 

 

私は生まれたときから教会というものが傍らにある環境でしたので、洗礼・堅信も周りの大人が進める通りにしましたし、礼拝にも出ていました。しかしそこに神様という存在への確信があったかというと、かなり怪しいままに過ごしていたように思います。そんな信仰生活の中にあって、神様という存在に対する疑いを持たなくなったのは、あの夢を見た頃からだったと、今になって確信できたのです。(教会生活への反発などはこの後も続いていく訳ですが)

 

たかが夢で大げさなと思われるかもしれません。確かにこれは、はたから見れば単なる子どもの時の夢でしょうし、私の話を合理的に裏付ける何かがあるわけでもありません。しかしながら、私たちが信じる聖書の中にあって、ヨセフが夢で啓示を受けるように(マタイ福音書1章20節)、旧約の預言者達が夢幻の中で神様の言葉を預かるように、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)と記されているように、このような「不思議」の中に神様は働かれ、私たちに力と導きを与えてくれるのだと思います。

 

そしてその「夢」は私が見たような分かりやすいものだけではないのでしょう。それは時に礼拝の中に現れるかもしれません。あるいは友との語らいの中、大切な人との日常の中、楽しい時、苦しい時、私たちに現れるものかもしれません。しかしそれらの「夢」あるいは「幻」は、その人の信仰の力と礎になるものでありましょう。
 今のこの世界は、様々な目に見えるもの、見えないものからくる困難に溢れかえり、人々は即効性のある「物」や「成果」を求めています。それらももちろん必要であることは確かでありますが、しかし私たち信仰者はそこで一歩立ち止まり、自分たちに希望と力を与えてくださる方の「不思議な夢、幻」に目を向けて見ることが大切だと思います。

 

 

自分たちの信仰の原点や転換点には、必ず神様からの「不思議な夢」があり、それが私たちの推進力になっているはずなのです。それをこのような時だからこそ、思い起こしてみてはいかがでしょうか?それに神様は、そのように日々歩む私たちに、新しい「夢」をも与えくださることでしょう

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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あけぼの2021年5月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「人生という山」

 

 

人生の歩みはよく山登りにたとえられます。

 

人生がさまざまな経験をしながら一歩ずつ歩むものであるのと同様、登山も一歩ずつ頂上に向かって歩みます。人生はいつも自分の進みたいように進めるわけではなく、入学や就職と言った岐路に立ったときに別の道を進まざるを得ない場合はありますが、山に登るときにも、進みたい道が樹木などで進めず、意に反して回り道を余儀なくされる場合があります。そして、そんな自分の意志に反した道を行ったからこそ生涯の伴侶に出会うことができたり、思いがけない絶景に出逢えたりするのも、人生の歩みと山登りは一緒です。繰り返される日常に埋没して下ばかり向いていると周囲の人の優しさや笑顔に気づけないのと同様、登ることだけに必死になって自分の足下と地面ばかりを見ていると、雄大な景色を見逃すことになりかねません。人生においては、勇気をもって降っていくことや立ち止まることを選択しなければならないことがありますが、登山の場合もいつも上り道とは限らず、頂上に向かうためには下りルートを辿らなければならないことがあります。細く険しい道を通らなければならなかったり、立ちはだかるハードルにゆっくりと歩まねばならない時が人生にはありますが、道の細さや先を歩く人に行く手を阻まれ、思うようにスピードを上げられないことが登山にもあります。

 

思いつくままに挙げただけでも、人生の歩みと山登りが似ているのは間違いなさそうです。

 

しかし登山と、ことに現代人の人生の歩みには相違点もあります。それは登山に際してはこれから登る山そのものについて知ろうとするのに比して、現代人は人生そのものについては深く知ろうとしていないのではという点です。

 

 

私は登山の専門家ではありませんが、おそらく登山に際しては、その山がどこに位置していて、そんな気象条件下にあるのか(天候の変化がおきやすいかどうか)など、ルートや登る手段のみならず、山そのものを深く知らなければなりません。ところが現代人は、自らの人生そのものについて深く掘り下げることにはあまり関心がないのでは、そう思います。自らの人生が、歴史や社会とどのようにつながっているのか、あるいはつながろうとしているのか、人生には悪天候の日もあって当然なのですが、そのための備えとして何をしておく必要があるのか、などといったことにはあまり関心がないように思えるのです。むしろそれよりも、そのコースを選択するのか、それによって見える景色にはどんな違いがあるのかばかりを気にしていると。だからそれを解説した指南本、すなわり「勝ち組になるためには」とか「失敗しない方法」といった類の書を手に取ることに躍起になっているのが現実なのではないでしょうか。

 

人生という山には入学、就職、結婚、親しい友との別れなどたくさんの岐路があります。それら一つ一つは真剣に向き合い決断をしなければならない大切な分岐点ですから必死になって既述の指南本を手に入れることや、その努力をムダだと言うつもりはありません。しかし人生という山そのものを見ずにコースやそこで見える景色ばかりに気をとられていると、希望通りの結果を得られなかったときに、あたかもそれが致命傷であるかの如く意気消沈してしまいます。結果、別の選択や別のルートに用意されている希望までを手放してしまうことになります。依然人生という山に立っていて、山から放り出されたわけではないのにもかかわらず……。

 

マニュアルや手段ではなく、人生という山そのものについて共に考えること、そんな役割も、この時代の宗教=基督の教会にはあるのではないでしょうか。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

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あけぼの2021年2月号

巻頭言「再び会いたいですね」

 

 

「教会相互の交わり・協働関係を深めます。」

 

「教区内17の幼保園(2019年現在)との協働関係を深めます」

 

 

これは東北教区宣教方針の2つの柱であるキーワード「ささげる」、「開く」の内の後者の具体的な行動指針として示されているものです。教区宣教方針が2019年11月に開催された第102(定期)教区会で決議されて早くも1年が過ぎました。

 

昨年はコロナ禍の中にあって教区の諸プログラムのほとんどが中止となりました。今年もどうなるか分かりません。

 

教会の礼拝は、感染予防をしながら再開されていますが、それ以外の事は自粛せざろうえない状況が1年近く今も続いています。皆さんと一緒に食事をして、語り合ったりする日常が特別な恵みであったことを人の出入りが減ってしまった静かな教会の会館で思います。

 

 

私自身の事を振り返っても教区の諸会議はほとんどインターネットを介したオンラインで参加しています。コロナ前は交通費や時間の節約のためにオンライン会議を教会でも取り入れていければいいなと思っていましたが、結局は話だけで終わっていました。

 

しかし、現在ではこれが日常になりつつあります。

オンライン会議はとても便利です。でも何か物足りません。何が物足りないのか。それは相手の感覚です。人間には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)があります。

人類学者である山極壽一氏が興味深い事を言っています。「人間は、視覚と聴覚を使って他者と会話すると脳で『つながった』と錯覚するらしいが、それだけでは信頼関係までは担保できません。なぜなら人は五感のすべてを使って他者を信頼するようになる生き物だからです。そのとき、鍵になるのが、嗅覚や味覚、触覚といった、本来『共有できない感覚』です。他者の匂い、一緒に食べる食事の味、触れる肌の感覚、こうしたものが他者との関係を築く上で重要」なのだそうです。

 

コロナが終息するまではなかなか自由に行き来することは難しいと思いますが、いつか必ず皆さんとお会いしたいです。
教会問答の問27に「聖奠および聖奠的諸式、その他教会の働きはだれが行いますか」とあります。答は「神の民(キリストとその教会を表す信徒と聖職)が共同体として行います」です。

 

これは「教会の働きは一人もしくは各教会単独ではなく一緒に協働していく」ことを示しているだと思います。これは大変重要な事です。

 

一人の小さな手という歌をご存じでしょうか。「ひとりの小さな手何もできないけど、それでもみんなと手と手を合わせれば何か出来る」

 

私は教会間協働、幼保園との協働を地道に着実に行っていきたいと思っています。なぜならそれが教会の働きにおいて決定的に大切なことだからです。今は我慢の時です。しかし、私たちがそれぞれの感覚を互いに感じながら再び会える時が必ず来ると信じています。

 

 

司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会 牧師)

 

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あけぼの2021年1月号

巻頭言「サイレントナイト」

 

 

「今年のクリスマスはやめにしませんか」そんな提案を教会役員会にぶつけたのは、私が聖ペテロ伝道所に勤務していた時、近くのプロテスタント教会に勤務していた若い牧師さんでした。当然の如くに「何をいっているのだ」と役員さんたちは反発します。この牧師さん、少し言葉が足りなかったようで、いいたかったのは降誕日の礼拝をしないということではなく「例年のように派手な飾りつけや、ご馳走を囲んだパーティーをやめましょう」ということだったようです。

 

イエス様は、身重のマリアさんとヨセフさんが住民登録をするためにナザレからベツレヘムに向かう途中で、宿も取れない中で、貧しい家畜小屋でお生まれになりました。まさに「人みな眠りて、知らぬまにぞ」(聖歌第85番2節)と歌われている通りの状況でした。

 

最近知って驚いたのですが、イスラエルにも雪の積もる山があり、スキー場もあるのだとか。イエス様のご降誕が本当に12月なのかは定かではありませんが、平地でも夜は冷えた ことでしょう。暗くて寒くて静まり返った闇の中、落ち着いて赤子を寝かせることもかなわず、両親とてもゆっくりと横たわることができなかったことでしょう。想像するだけで寂しさがこみ上げてきます。

 

多くの人たちが「クリスマス」と聞いて思い浮かべる光景とは、まったく違ったみ子のご降誕の姿がそこにはありました。わたしたちは降誕日前夕の礼拝(イヴ)の中で、その時の場面を垣間見ているのかもしれません。必要最低限の光しか用いられないのは、雰囲気作りなどではなく、きっと2千年前の「その場」にわたしたちも繋がれるためではないでしょうか。神の示された「時」に確かに私たちもみ子と共に存在しているのです。クリスマスには毎年繰り返す「祭り」としての意味もあるでしょう。何度となく繰り返してきたクリスマスですが、同時に毎年私たちはみ子イエスの誕生の瞬間に招かれているということも、信仰の真実ではないかと思うのです。

 

そう考えると、礼拝が終わり「さー、次行ってみよう!」とパーティーに切り替えるのは、なんだか惜しい気がしてしまいます。もちろんそこには宣教的な意味もあるわけですから、単純には否定できないことですが、たまにはみ子のご降誕の場に居合わせた余韻を静かに感じる時があっても良いのではと思います。冒頭で紹介した牧師さんにも、そんな思いがあったのかもしれません。

 

そういう意味で今年のクリスマスは千載一遇の時です。

 

祝会をどうするかと意見を交わすまでもなく、結果は見えてしまっています。残念といえばその通りなのですが、礼拝が終わって「残念だね」とか「さみしいね」といって感染症を呪って帰るのではなく、まさに今年の降誕節は「静かな夜・サイレントナイト」に思いを寄せてみなさいという、神様からの恵みの時なのだと捉えられないでしょうか。どんな時でも、み子のご降誕は救いの時、恵みの時であることに変わりはないのです。

 

そして今年は聖家族がヘロデからの迫害を逃れたエジプト逃避行、み子のための幼き殉教者、東方からの訪問者などにも思いを馳せ、降誕の出来事を黙想する中で、豊かな恵みが与えられそうです。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2020年12月号

巻頭言「クリスマスの旅」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように。

 

今年私たちは、一堂に会してはご復活日をお祝い出来ませんでした。松丘聖ミカエル教会の主教巡回は、松丘保養園面会自粛要請のため中止となりました。盛岡では仁王幼稚園・牧師館落成式を大々的に開けませんでした。飲食は控えていますから、弘前での堅信式の後でも、青森の牧師任命式の後にも祝会は開けず、どこか物足りなく感じました。主イエスが弟子たちや出会った人たちと親しく食事の席に着くのが大好きだったように、私たちも会食をしながら楽しく歓談したいとつくづく思いました。

 

新型コロナウイルス感染状況に劇的な変化がなければ、来たる降誕日も「東北教区主日礼拝ならびに宣教活動のための指針_No.7」に従い、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャルデスタンスを徹底し慎重な礼拝を献げ、祝会は控えなければなりません。そうだからと言って、いつものようでないクリスマスである訳ではありません。かえってそれだからこそ、クリスマスはさらに意義深くまたやって来ます。

 

今起きている出来事、自分に襲いかかっている事件が不可解で、不明な時、これから先一体どうなるのか分からない、未来が読めない時に、人は悩み、不安に支配されます。そして、そのような苦悩する人に、神様は優しく、力強くささやかれます。

 

 

イエスの両親ヨセフとマリアは、赤子出産前後2回、旅をしなければなりませんでした。それは自分たちが計画して、うきうきしながらのものではありませんでした。

 

1回目は、人頭税をかけられるための戸籍登録をしなければならないという強いられた、苦痛、屈辱のナザレからベツレヘムへの旅でした。まして身重のマリアの不安の大きさはいかばかりだったでしょうか。それでも、夫ヨセフの故郷に帰省する訳ですから、少しの誇りとわずかな興奮と期待を持った旅でもありました。

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そしてそこには、マリアを支えた言葉がありました。「マリア、恐れることはない。」「生まれてくる子は神様の祝福をいただいた、神様に喜ばれる、それこそめんこい神様の子です」。新しいいのちは人知を越えた神秘的な希望なのです。

 

2回目の旅は、出産後、3人の博士たちがヘロデ王に再会せずに帰国し、王は逆鱗し幼児虐殺を命じるに及んで、誕生間もない赤ちゃんを抱えてマリアは、ヨセフに手を取られエジプトに逃避行しなければなりませんでした。この旅は出産前と真逆で、見知らぬ土地へ、外国へ、異境の地に逃れて、孤立して生き延びなければならないものでした。その心細いこと、大きな不安定さに潰されそうになります。その最中を支える言葉がありました。「ヨセフ、逃げなさい。私があなたを呼ぶまで」です。殺戮、迫害がなくなるその時は必ず来ます。ヘロデ王にもやがて終わりがきます。

 

私たちにも語り掛けてくる言葉があります。羊飼いたちが聞かされたものです。「恐れるな。大きな喜びを告げる。聞け。今日、あなたがたのために救い主・メシアがお生まれになった。」この言葉を今も私たちは聞きます。

 

私たちの人生の旅の途上で「今日、あなたにメシアが生まれ」ます。

 

 

「主よ、わが心に、宿らせたませ」(聖歌358番)

 

 

司祭 フランシス 長谷川清純(青森聖アンデレ教会 牧師)

 

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あけぼの2020年11月号

巻頭言「『すべての人を一つに』~分断の社会にあって~」

 

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)

 

 

これは、主イエスが十字架を目前にした時に祈られた「大祭司の祈り」の一部です。「分断の社会」という言葉をしばしば耳にする昨今、この主イエスの祈りの言葉が心に響いておりました。このお祈りの背景には、現代と同じく、主イエスにとって決して見過ごすことにできない、分断された社会構造や人間関係があったことが想像され、「すべての人を一つにしてください」という祈りの言葉は、主イエスの心の叫びと受け取ることができます。また、この祈りの直前、主イエスは弟子たちの足を洗い、弟子たちと共に最後の晩餐をとり、聖餐を制定されましたが、聖餐の奥義もまた私たちが主の命に結ばれて共に「一つになる」ことです。主は、私たちが主にあって「一つになるため」に祈られ、さらに聖餐を定められたのです。私たちはその聖餐式を行い、主の命をいただいて一つにされると信じています。そして、その聖餐式を私たちが一つになるまであきらめずに「み子が再び来られるまで」(祈祷書P175)、行ない続けてまいります。このように主イエスの祈りや思いは、世界や人々、そして私たちが一つになることにほかなりません。ただし「一つになる」ということは、「同じになること」とは違います。神様は、一人一人に同じではない命と人格、個性を与えてくださったのですから、「一つになる」ということは、それぞれ違う私たちが違うまま集められ一つとなることです。それぞれの性別、血筋、民族、主義主張、考え方や意見は違って当然の事ですし、十人十色、食べ物や色の好みも違うものです。私たち一人一人は違って良いし、違うべきだと思います。その違いを認め合って一つになる時、大きな喜びに溢れます。主は命を賭して、私たちが一つになる方法を、遺してくださったのです。しかし、主の思いに反して、民族人種差別や性差別、利己主義、いじめ、ハラスメント、人権侵害、特に最近では新型コロナウイルス感染症の拡大の中で罹患者への偏見など現代社会は分断へと進んでいます。み心は、誰もが尊重され、互いに愛し助け合い、公平、公正、平等で平和な社会をつくり上げ、一つになることのはずです。

 

ところで私たちの教会、自分自身や身近な話としてはどうでしょうか?意見や考え方の違いから人を遠ざけたり、逆に離れようとするようなことはないでしょうか?先日、東北教区展望会議で作成された自己点検チェックシートが各教会に配られ、自身と教会を見つめ直す良い機会となりましたが、それとあわせて「大祭司の祈り」を思い起こし、主イエスご自身がわたしたちのために祈り、励ましてくださっていることを覚えたいと思います。この恵みに感謝をしながら、この世にあって信仰を守り抜き、基本的なことではありますが、自分を愛するように人を愛し、すべての人に敬意を払い、歩んでまいりたいと思います。

 

 

 

司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会 牧師)

 

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あけぼの2020年10月号

巻頭言「ハレルヤ、主とともに行きましょう」

 

 

近頃はメールや携帯電話などで連絡を取り合うことが多くなり、教会の電話、家の電話共に鳴ることが少なくなりました。そんな中で、明らかに何かの勧誘(0120から始まる番号など)以外の、未登録の番号からの電話は「教会への問い合わせかも」と勇んで出るようになっています。

 

8月7日にそんな電話がかかってきました。夕の礼拝間近かの時間でしたが受話器を取ると、高齢の男の方で、しかも少し酔っているのか、かなり聞き取りにくい声が聞こえてきます。

 

「俺の○○(お袋?)がクリスチャンでよお。一所懸命教会に通ってたんだ。だから俺もキリスト教は好きなんだけどな。」(私)「そうなんですか。ありがとうございます。」「それでな、夕べNHKで原爆の特集やってたんだけどな、原爆積んだB29が飛ぶ前に何で牧師が祈ってるんだ。これから原爆落としに行くっていう飛行機のためにキリスト教は祈るのか!」と、急に語調が変わり、こんな思いをぶつけられました。そんなこと言われてもなぁ、という思いと、礼拝前に長くなりそうだなという思いが交差しましたが、昔のこととはいえ、好感を持っていたキリスト教の牧師が広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」出発に際して祈っていたということは、かなりショックだったのでしょう。しかも話を続けるうちにわかったのですが、その方は核兵器反対の運動をされている方の様でした。

 

電話の向こうからは「何でだ!どうしてだ!」という声が響きます。大した知識もないことで困りましたが、「旧日本軍にも従軍僧がいたように、キリスト教国の軍隊には従軍牧師という人たちがいるのです。その牧師は原爆のことは知らなかったんじゃないかな。これから大事な作戦に出るから、乗員と作戦成功のために祈ってくれと言われたら、祈るのは当たり前だったのだと思いますよ。」と答えましたが、納得してもらえません。引き続き「それにな、俺は反対運動一所懸命やってるけど、キリスト教なんかどこも出てきたことねーじゃねーか。平和、平和とか言っても何にもやってねーだろ」とまくし立てられ、「いや、教会だってやってますよ。核兵器の問題だって世の中に、世界に向けて反対を表明してます。」このあたりから私も少し熱くなってしまい、しばらく不毛な議論が続いてしまいました。最後には「バカヤロー!死ね!」と電話を切られ、「平和運動をやってる人が、初めて話した相手に死ねとは何事か」と怒りながら礼拝堂に向かいました。落ち着かない心で礼拝することになりましたが、ふと会話の中で「(教会の)中だけでやってちゃだめなんだよ。」といわれたことを思い出しました。彼が教会のことをどれだけ知っているのかはわかりませんが、確かに教会の中だけで盛り上がって、何かを達成したかのように思ってしまっている部分がないわけではないな。と気が付かされました。

 

 

聖餐式の最後に私たちは、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」と唱えます。これは教会が目指す場所、またそれぞれが遣わされる場所に「主のみ名によって」出て行くということだと思います。それは日々の、何気ない日常の中にもあるのです。それぞれが「主のみ名によって」「私が」出て行くのはどこなのかということを念頭に置きながら「ハレルヤ!」と唱えたいものです。そしてそれが「教会を開いていく」ことにもつながっていくことを信じたいと思います。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2020年9月号

「口より行動する信仰生活」

 

 

 


「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(コリントの信徒への手紙二1:12)

 

 

コロナウイルス感染症拡大の中で信仰生活を過ごしている東北教区各教会や信徒皆さん、また地域の皆様の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。

 

人々は一般的に行動より先に口を出します。また、言うのは簡単ですが行動が従わなくて失敗したり、信用を失ってしまう場合が沢山あります。

 

成功というものは、口ではなく、行に現れます。そのためには行動する生活を守らなければならないということを覚えておいてください。

 

まず、宣言は口がしますが、占領は足ですることになります。

 

足が先に行かなければならない理由があります。宣戦布告をして遠くから攻撃しても、実際にその地に旗を立てなければ占領された土地とすることができないのです。占領は、ただ、その地を足で踏むその瞬間からのものです。皆さんの成功が永遠に皆さんのものになることができるのは、行動をする場合のみ可能になります。

 

それだけでなく、口で宣言した者の責任は、行動することで責任を果たさなければなりません。皆さんが成功のために人々に話をしたとき、その宣言と行動に責任を伴っていなければ、皆さんは、多くの人々から非難を受けることになります。

 

したがって、口で述べたことの責任は行動で実践しなければならないという原理を思い出してください。成功とは、行動する者だけが味わう栄光であることを深く心に留めてください。

 

 

第二:行動は練習を介してのみ可能である。

 

言うことは簡単ですが行動は難しいものです。しかし、言葉より行動が自然に先立つには、瞬発力を育てる訓練が必要です。瞬発力は頭ではなく、感覚によって可能であり、感覚は繰り返されたトレーニングで可能となります。

 

足とは、足音を出すことだけではなく行動することで、普段繰り返された行動の習慣が自然に足を動かしています。足の動きは、皆さんが目指した成功の高みを占領するようにします。

 

 

第三:理由は行動を止める。

 

皆さんの行動を停止させ、妨害するものは理由です。いくつかの出来事が皆さんに行動してくれることを要求したとき、同時にあるものが理由です。理由はなぜ?という疑問を要求します。それで、皆さんの頭は、計算に着手し、それによって行動は、瞬発力を失い、最終的に行動にブレーキがかかってしまいます。

 

 

今、私たち東北教区に必要なのは、相手の声をしっかり聞くこと、神様が与えてくださった世の中を信仰の目で見ることです。神様の声を聞こうと努力し、神様の力を経験しなければなりません。また、神様の愛を感じる信仰生活が必要です。私たち東北教区のビジョンというものは、いろんな言葉と会議による計画ではなく、神様の前で静かにお祈りをしながら、人間の声ではなくて神様の声を聞くこと、人間の計画ではなくて神様の導きを受け止める謙虚な信仰が必要です。

 

 

司祭 ドミニコ 李 贊煕(仙台聖フランシス教会 牧師)

 

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あけぼの2020年8月号

「『変化』の中で教会を考える」

 

 

先日、祭服や聖具を販売するアメリカの大手メーカーが、祭色にあわせて四色(白・赤・緑・紫)の、ストールと同じ柄のマスク販売をはじめたというニュースを知りました。そのニュースを聞いて思い出したのが、かつて、主教や司祭、執事もマニプルと呼ばれるストールを小さくしたような形のものを手に巻き、祭服の一部としていたことです。これは、もともとはスダリウムと呼ばれる「汗拭き」が形骸化したもので、主イエスが十字架につけられた際に手を縛った縄も象徴していると言われているそうですが、今ではマニプルをつけることはほぼなくなりました。時の流れと共に祭服も変化を遂げていると言えるでしょうか。その意味ではマスクも、もしかしたら近未来には当たり前のように祭服の一つとして採用されているのかも知れない、そんな想像をしました。そして考えたこと…。

 

 

幼少の頃、手塚治虫氏の描いた漫画『鉄腕アトム』が大好きでした。車が空を飛び、感情をもったロボットたちが活躍する情景は、空想の世界だからこその自由さや夢のあふれるワクワクする世界でした。

 

あれから半世紀、そんな空想の世界が現実のものとなりつつあります。自動車の自動運転実用化はもうすぐ目の前に迫っています。もしかしたら、「昔は車を運転するのに免許証が必要だったんだって」などと会話が交わされる未来がやってくるのかも知れません。ドローンを大型化したような人の乗れる“空飛ぶタクシー”の開発も進められているそうです。また巷ではAIの普及によって、近未来には人間の仕事でなくなる職業があると噂されています。まさに『鉄腕アトム』の世界です。さらに近頃では、水道の蛇口の下に手を出して「先生、水が出ません」と話す、蛇口をひねって水を出すことを知らない子ども、トイレでは自分で水を流すことを知らない子どももいると聞きます。

 

こうした変化が憂うべき現実なのかどうかは別にして、僅か半世紀の間に、日々の生活様式とそれを取り巻く「技術」は格段に進化・変化を遂げたのは事実です。

 

時代と共に生活様式が変化した一方で、キリストの教会はどうでしょうか。祭服がどのような変化を遂げたのか、遂げるのかはともかくも、主イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた聖餐は、2000年の間不変のものとして守られてきましたし、これからも守られていくでしょう。しかしその方法については、東面式から対面式になり、文語体から口語体になり、信徒が参与する場面も増えるなどキリストの教会も変革を遂げてきました。1968年ランベス会議やローマカトリックの教会の第2バチカン公会議を経てのそうした変革は、イエスという原点に立ち戻るからこそのことでした。

 

 

 

今、わたしたちは、新型コロナウイルスの蔓延という範疇を超えて、軸足をしっかりとイエスという原点におきつつ、すなわち時代の趨勢だからではなく、あらためて今の時代、この世界、社会におけるキリスト・イエスの「宣教=ミッション」とは?を解釈し続ける決意を新たにしなければならないと思います。「変えることのできるものを変える勇気と、変えてはならないものを受けいれる冷静さと、それらを識別する知恵をお与えください」(ラインホルド・ニーバー)と祈りつつ。

 

司祭 ヨハネ 八木正言(郡山聖ペテロ聖パウロ教会・若松諸聖徒教会 牧師)

 

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