教区報
教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事
「『はだしのゲン』に思う癒しの原点」2018年11月号
大館へ出張する際、途中で時間があれば道の駅で昼食を食べ、そこにあるマンガ本を読むことが楽しみになっています。ここ数回は中沢啓治作『はだしのゲン』を読んでいます。
この話の舞台は原爆投下前後の広島。その広島で生きる中岡元(ゲン)という少年が主人公。父親は戦争反対者で、官憲や周りの人々から「非国民」として目をつけられ、拷問も受けています。それでも考えは変わりませんでした。そして原爆投下―。広島の街は焼け野原になり、まるで地獄の様相と化しました。火の海となり、原爆の熱線で全身を焼かれ、皮膚が垂れ下がっている人、ガラスが体中に突き刺さっている人、手足がちぎれ、目玉が飛び出し…そのような人が水を求めて歩いていました。ゲンの家族も父親・姉・弟が犠牲になりました。そして敗戦。戦争は終わりましたが、同時に人々の生きる闘いが始まっていきます。ゲンは母親と新たに生まれた弟とその闘いに立ち向かっていきます。この作品は、その闘いの中で逞しく生きるゲンの物語です。
つい先日も大館へ出向く途中、昼を食べながら前回の続きを読みました。ゲンはある時、かつての仲間に出会います。その仲間はヤクザの組に拾われ使いっ走りをしていました。組に頼らず自分たちの力で生きて行こうと呼びかけますが、混乱した時代、自分たちのような子どもは何かに頼らざるを得ないと突っぱねられます。しかしゲンはあきらめずに働きかけていきます。その仲間に勝子という少女がいました。勝子は原爆で家族を失い、おまけに顔や体中がケロイドに覆われていました。周りの人たちも気持ち悪がって勝子を避けていました。勝子の心は荒んでいました。ゲンはそんな勝子の心を汲み取り突然、勝子の腕の袖をまくり上げケロイドを舐め回しました。舐めて舐めて舐め回しました。それがきっかけとなって勝子の心は少しずつ和らいでいきました。
「ゲン、わたし、嬉しかったんだよ」
今年の聖餐式聖書日課はB年。その特定8の福音書は、キリストが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという物語です。キリストはヤイロの娘の手を取って「タリタ、クムー少女よ、起きなさい」と言うと、少女は起き上がって歩き出しました。特定18の福音書では、キリストが自分の指を相手の両耳に差し入れ、さらに指に唾をつけて相手の舌に触れることで耳が聞こえるように、口が利けるようにされたという物語でした。この二つの癒しの物語で共通していることはキリストが相手に触れているということです。ゲンも勝子の腕に触れ、そして舐めるという行動に出ました。キリストの癒しの行動、そしてゲンの行動が私の中で重なり、何かに感じ入り、珍しく食が進まなくなってしまいました。勝子は自分に降りかかった苦しみ・悲しみに苛まれ心が荒んでいました。しかしその心はゲンがケロイドを舐めることで氷解していきます。心が起き上がりました。勝子は生き返ったということが出来るでしょう。
人に寄り添うことは並大抵のことではありません。苦労知らずの私には不可能かもしれません。私にできること、それは人の苦しみ・悲しみをキリストに委ねる、祈ることかもしれません。だからこそ祈りはわたしたちの務めなのだと思います。
司祭 アントニオ 影山 博美(秋田聖救主教会牧師)
「祈りによる証と喜びに満たされて」2018年10月号
「初めから立派な司祭などおりません。どれだけ祈り、主により頼んで、日々歩んでいくことができるか、それが大切なことです。」
これは私の司祭按手に際して先輩聖職からいただいた励ましの言葉です。それから30年程経ち、その間大きな挫折もありながら、それでも何とか神様の御用を続けることができたのは、ひとえに神様の憐れみと皆さまからのお支えとお祈りによるものと心から感謝しております。
司祭、牧師の務めは、礼拝の司式・説教を行なうことや牧会、病床訪問、冠婚葬祭を執り行なうこと、教区・教会の運営に関する責任、関連施設との関係など多々ありますが、皆さんからの「わたしの家族が大変重い病気で入院しています。どうかお祈りしてください。」というお願いや、「今度旅行に出かけるので、お祈りしてください。」という様々なお願いをお受けして、お祈りを捧げるということも大切な務めだと思っています。「家族が重篤です。今すぐお祈りをお願いします。」という知らせが届けば、夜中でも病院に駆けつけるということもありました。
また、東日本大震災時における原発事故が起きる前のことですが、原発での危険な作業に従事しておられた信徒の方からの「毎日仕事につく前にお祈りをしていますが、司祭さんもお祈りしてください。」というお願いもありました。その施設は、震災時も大きな事故が起きず、守られたのだと思っています。さらに「お子さんの命は五分五分です」と医師から宣告されたお父さんからのお祈りのお願いもありました。残りの五分を神様にかけ、一緒に必死に祈りました。その後お子さんは元気になって成人となり命を繋いでおられます。
今まで経験したお祈りのお願いは枚挙にいとまがありませんが、最後に、大きな港街の教会に勤務していたときの、幼稚園児のS君とお母さんからのお祈りのお願いを紹介したいと思います。
S君は幼稚園のお帰りの時間になるとお母さんと一緒に礼拝堂にやって来ては、何やら短いお祈りをしていました。そして丁度、顔を合わせた時「お父さんのために神様にお祈りしているんだ。」とS君が教えてくれました。よくよく話を聞くと、お父さんはイカ釣りの漁師さんですが、近年、日本の近海でイカが獲れなくなり、ニュージーランドやアルゼンチン沖が主たる漁場となったので、漁に出るとノルマを達成するまで、8~10カ月も帰ってこないというのです。勿論、私も命の危険にさらされながら漁に励むお父さんのためにお祈りすることを約束しました。その後S君のお父さんが無事に戻られお会いしたとき、S君のお祈りのことを伝えると、様々なことがあったのでしょう「本当に神様が守ってくださっていました。」と証され、自分が嵐をも静められる神様に祈られていたことを心から喜ばれました。
それから15年程の月日が経ちましたが、毎年7月第2主日の「海の主日」を迎えるごとに、立派になったであろうS君のことを思い起こします。同時にこの世に祈る対象が数多ある中、主イエス・キリストのとりなしと聖霊の導きによって捧げる「天地の造り主、全能の父なる神」への祈りこそが、私たちの魂を平安へと、また、真の救いへと導き、恵みをお与えくださることを心から感謝し、喜びにあふれた教会を皆さんとご一緒にこの世に益々証することができればと願っています。
司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会牧師)
「なぜこの道を?」 2018年9月号
「進学希望校先を宮城教育大学から東北学院大学のキリスト教学科に変更をしたいのだけど、いいかな?」
1994年のある日、私は両親に相談をしました。今から24年前、私が18歳の時の話です。
私は中学生時代に不登校になり、ほとんど中学校に行きませんでした。
そんな私を3年間担任してくださった先生がいます。今ではなかなか連絡を取れていないのですが、心から尊敬している方です。昼夜を問わないでいつでも私のこと、家族のことを気にかけてくださり、先生と出会っていなければ今の私がなかったのではと思うほど大切な恩師です。私自身、子どもが大好きで将来は先生のような子どもたちに関わる仕事がしたいと漠然とではありますが思うようになっていました。そして高校生になって、将来は小学校の先生になりたいと思い、進学先は宮城教育大学を考えていました。私は、中学校はほとんど行くことが出来ませんでしたが、恩師の担任の先生、両親、弟、教父母、教会の信徒の皆さん、友人の支えにより3年生の2学期から登校出来るようになり、高校受験をすることが出来ました。第一志望校には合格することが出来ませんでしたが、徒歩通学可能な距離にある仙台の県立高校に合格できました。高校生活は充実していました。吹奏楽部に入り、ほとんど休みなく部活動に明け暮れる日々でした。そのような日々の中で将来の進路を考えていたときに中学時代のこと、そして教会を通して感じてきたことを振り返っていました。
そして聖職の道を志すことと小学校の先生の道を目指す道と2つの選択肢が出てきたのです。そして、当時の心境を振り返ってみると、私の心は「聖職」への道へと傾いていたと思います。
両親も進学希望先変更の了承と聖職を志す道も応援してくれました。
進学希望先を変更し、東北学院大学への入学が決まっていた1995年1月に阪神・淡路大震災が発生し、中山司祭に誘って頂き、神戸にボランティアに行かせて頂きました。神戸の街の惨状にただただ驚きつつも、その現場で懸命に助け合いながら生きる方々やボランティアの方々との出会いがありました。
大学に入り、新しい仲間が出来、たくさんの影響を受けました。また神戸で開催された日本聖公会全国青年大会にも、最初は遠慮して参加を渋っていたのですが、実行委員長からの直々のお誘いを受け、参加させて頂き、大会にかけるスタッフの皆さんの熱い思いと参加者との出会いを通して私の目が開かれました。そして東北教区でも青年の交わりがしたいと当時の教会の仲間に声をかけて青年活動を行ったことを、まるで昨日のように覚えています。充実していた大学生活、教会生活でしたが、大学4年の時に弟が自ら命を絶ちました。どん底に突き落とされた経験でした。この道を歩むことを躊躇する本当に苦しい時でした。
しかし、私は翌年の春にウイリアムス神学館に入学をしました。振り返ってみると私の人生の節目で見えざる神さまの導きがあったことを感じざるを得ません。神さまからの形を変えた様々な呼びかけに迷いながらも、手を伸ばし続けてきたことが、今の私を支えてくれていると信じながら、これからも聖職の道を歩みたいと思います。
司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会牧師)
写真:十和田湖畔鉛山聖救主礼拝堂の祭壇の前に掲げられているイエス様
「安息日のこと」 2018年8月号
とんでもない耳を塞ぎたくなるような悲惨な事件が続いています。新幹線の中で若者が刃物を振り回し、小学生が帰宅寸前に若者に連れ去られ殺害・遺棄。幼子が実の親から数々の虐待を受け、命を奪わる等々、心が引き裂かれる痛ましいニュースが続いています。
氷山の一角ですから、常軌を逸した行動をとる人間はもっと多いのかもしれません。この国はどうなってしまったのでしょう。命を育むという尊い業が壊れかけているようです。
オオカミに育てられた子どもが発見され、教育したけれど、人間としての成長は難しかったと学びました。この話は諸説あり、詳細は分からないのですが、今の社会も、同様の不安を抱えているのかもしれません。
人が人間として育つのには、何を大切にしなければならないのかが問われているのではないでしょうか。人間が人間らしく育つには、中でも幼いときに、まことの愛で結ばれた人の交わり中で育つことが必要なのです。
加えて、私たちを取り巻く環境は、ふさわしくないものであふれています。
現実世界では、ほとんど触れることのないような暴力や殺害の場面(映像)がメディアを通して、シャワーのように注がれています。こんなことをしていて良いのでしょうか?
イスラエルの聖ジョージ神学校に行ったとき、「安息日を経験しましょう」というプログラムがありました。
最初に、金曜日の夕方、あるユダヤ人家族のお父さんとお子さんに案内されて、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)に行き、礼拝に参加しました。
それから日没前に、自宅に案内していただくと、流しに行き、取っ手が二つ付いた特別なコップで手を洗いました。手を清めてから食卓に着くと、ろうそくに火が灯され、お父さんが創世記1章の終わりから2章の初めを読み「神様が7日目に休まれたのだから、私たちも休みましょう」との言葉で安息日が始まりました。始めにお母さんがパンを祝福して裂き分け、ブドウ酒を特別なカップに注いで飲みました。続いて用意してあった料理をいただきました。
流れを体験しながら『これって聖餐式じゃないか!』と驚きました。キリスト教で日曜日の朝に聖餐式を行なうのは、安息日が始まるよという合図の意味もあったのです。
続いて、部屋でおしゃべりしながらリラックスして過ごしました。何しろ子どもたちは「勉強してはいけない」日ですし、お母さんは「料理や家事をしてはいけない」嬉しい日なのです。
一週間にあった出来事を家族がお互いに報告し会っている様子が、とても微笑ましかったです。ゲストの私は日本語について話し、危うく紙に字を書いて説明するところでした。(安息日では禁止行為)
このような家族の交わりが、モーセの時から3千年以上も続けられていることを知ると、大変な驚きです。この安息日がユダヤ人に与えた意義は、非常に大きいものでした。
イエス様が批判された安息日のために人があるような事態にはならないように、大事な家族の絆を強める日としていただけたらと思います。
司祭 フランシス 中山 茂(青森聖アンデレ教会牧師)
「ツルハシ一振り」 2018年7月号
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書14:6)。教会の逝去者記念(レクイエム)の礼拝でもよく用いられる聖書の一節です。これは、「私たち人間はイエス様の行かれる十字架の道、そのみ跡を歩くことなしにはその命に救いは無いということ。」しかし逆を言えば「イエス様を知り、そのみ跡に従うことにより、どんなにか罪深い私たちであっても、その命をイエス様は天上の家に招いてくださる」という希望に満ちた福音でもあり、宣教の勧めでもあります。イエス様という真理と命の道を歩き、そのみ跡に従って業を行うこと。それはすなわち宣教でもあり、まさにキリスト者の本懐であります。しかしながら自分がこの「イエス様の道」を歩み、その「喜ばれる業」を成すことが出来ているのかと思うと、非常に不安に感じる時があります。特にわたし自身が聖職になってからは、その思いは日々強くなっています。「今わたしが歩んでいる道は、実はとんでもなく見当違いの道を進んでいるのではないか。」「わたしが教会・教区でしている働きも実は何にもなっていないのではないか」と感じる。特に宣教という業は、なかなか目に見えて結果が見えることがないものが多いと感じています。
そんな時にわたしの目を開いてくれたのが、一つの道の開通でした。わたしは昨年から月に1回山形の米沢聖ヨハネ教会に礼拝奉仕をさせてもらっています。当初は米沢聖ヨハネ教会に行くには片道2時間30分以上かかり、さらに険しい栗子峠も超えなければならず大変な思いをしました。しかし昨年の11月に東北中央道の米沢区間が開通し、一気に45分近くその旅程は短くなり、また安全な道を通ることが出来るようになりました。当初はその安全と便利さを当たり前のように享受していた私ですが、ふとこの道を通すのには全体で30年、工事だけでも20年以上の月日を要したのだと改めて気がついた時に、目先の結果や歩みにクヨクヨしている自分が恥ずかしくなったのです。
思えば当たり前のことですが、工事を始めた人たちはすぐに道が通るとは思っていない訳です。さらには最初期の人であれば、自分たちの働きの結果を見ることも出来なかったはずです。でも現実にはその人びとの最初の働きが「ツルハシの一振り」が無ければ、道は完成しなかったのです。
このことに思い至った時に、わたし自身の道も同じなのだと気づかされました。わたしが今進んでいる道もまた、すぐに開通するものでも無ければ、結果が得られるものでもない。しかしその道がイエス様に繋がる道だと信じることによって、その歩みは決して無駄ではないこと。わたしが不安に感じる歩みも必ず「ツルハシの一振り」になっているのだと思えたのです。ましてわたしたちが歩む道は、イエス様が既にその先頭を歩かれているのだから、何も不安に思うことはないのだと。
わたしたちの教区・教会は皆小さく、その歩みと神様への道を開く宣教の働きは遅く小さいかもしれません。しかしどんなにか小さく見えるそれぞれ働きも、そして祈りも、必ず「ツルハシ一振り」になり、わたしたちを救いに導くのだということ。そしてそれは後に続く全ての人々にとっても、神様への道を助けるものにもなるのだということを覚えたいと思います。
執事 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会牧師補)
「心の真ん中に」 2018年6月号
新学期が始まり、セントポール幼稚園を卒園した子どもたちは小学校へと、そして園にいる子どもたちは一人ひとりクラスが上ってお兄さん・お姉さんです。今まで助けてもらっていた子たちは、今度はより小さい子どもたちを自分たちなりに助けようと一生懸命です。その瞳はキラキラし、まっすぐ前を向き、自信に溢れている様に感じられます。
私は日々学びとかけがえのない時を与えられております。週報作成や、信徒訪問、電話相談。また主日の説教、誕生礼拝や教師学びの会でのお話しなど、当日の朝まで悩み考えても出てこず、しっくりこないという時もあります。そんな自分に苛立ちと不甲斐なさを覚えたりしますが、何よりも沢山の人との出会いと交わりが私を支えてくれております。
教会、幼稚園の周囲を歩いていると、卒園生が預かり保育のために幼稚園に向かってきます。また一段とお兄さん・お姉さんになった子どもたちに向かって手を振ると、「こう先生、ただいま!」と46歳の自分には少々きついタックルと「ぎゅ~」があります。また、学校で色々なことがあったのか、泣きながら帰って来る子たちもいます。何も言わず、ただ泣くだけ。もう少しで幼稚園だから大丈夫と言うと「ううん、まず教会に行ってお祈りしたい、けんかしたお友だちのためにお祈りしたい」怒りそうになった自分、その友だちのことを嫌いになりそうになった自分、全部含めて神様とお話ししたいと言います。
教会会館の利用を申し込まれる方々がいます。御挨拶に伺うと、地域の高齢の方々の集まりです。すると、「うちの孫が幼稚園でお世話になってます~」、また「いや、自分の娘もお世話になったよ~」といったお話があります。教会の周囲を散歩している時に、いつも見かける散歩するご婦人、ゴミを出す日を懸命に守っておられる方々、その皆さんとお会いする機会を教会の会館で与えられていることに感謝です。
「天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったイエス様がおられます。私はこのみ言葉に関して清廉潔白でなければと思っておりました。子どもたちが私に向けるまっすぐな目の様に。
でも、思うのです。幼子はだれかの支えがなければ生きてはいけません。食べることに関しても、衣服を着ることに関しても。それは、「誰かに寄り頼む」そして「誰かに見守られている、それを知り、全幅の信頼を寄せているから」ということではないかと思うのです。しかしながら、生を受け、社会の中で、そして様々な問題、そして喧騒の中歩んでおりますと、「自分」が中心になってきます。それはそうでありましょう。だって、「自分」が頑張らないと、ちゃんとしないと、この「社会」では生きていけないのですから。知らないうちに大人は自分以外、沢山の経験や年月を経た自分しか信じられなくなっているのではないでしょうか。
でもイエス様は、「大きな力にみ守られているんだよ。 どこが中心ですか? 心の真ん中に何がありますか?それは神様だよ!」というとっても大切なメッセージを伝えていると思うのです。それを子どもたちの姿に例えたのではないでしょうか。
かけがえのない存在として大切にみ守られている子どもたちが、その受けた思いを伝えている、それが保護者であって、おじいちゃん、おばあちゃんであって、そして地域の人たちであると感じております、それは祈りと交わりの中、その中心に神様がおられるからと思うのです、温かい眼差しで、そして「ぎゅっ~」と。
何が真ん中であるか、その問いへの答えは日々の出会いと交わり、そして何より種を蒔かれた「光の子どもたち」からであります。
主に心から感謝
執事 アタナシウス 佐々木 康一郎
「いつまで?」 2018年5月号
今年も3月11日を迎え、東日本大震災から7年目の時を迎えました。こういう振り返りの文章を書いていると、つい決まり文句のような「早いもので」という言葉を使ってしまいそうになりますが、「私の中では、時は止まったままです」「どれだけ時間が経とうが私には関係ない」という被災された方々の声を聴くと、私などが軽々に使ってはいけない言葉だなと思わされています。「ああ、もうそんなに時間が経ったのか」という思いは、やはり外側から見た思いだからなのでしょう。そして「この言葉は使うべきではない」という私の思いは、後ろめたさから来ているものかもしれません。忘れてはいません。決して忘れているわけではないのです。しかし・・・
震災の当初から支援活動の手伝いをさせていただき、「いっしょに歩こう!プロジェクト」「だいじに・東北」の働きの中で4年間関わらせていただきました。近所の方からも「今日も仙台(支援活動)かい。ご苦労さんだねー」と声をかけていただきました。
そんなある日、見知らぬ男性が山形の教会を訪ねてこられ、どこで知られたのか「教会でも支援活動をされているそうですね。私の友人も石巻の津波で死んでしまいました。どうかお祈りしてください」と涙ながらに言われました。直接の被害は少なかった山形県ですが、人と人の繋がりの中で、こんな悲しみがここにもあることを知らされました。その悲しみは癒されることはあっても、決して消え去ることはないのでしょう。こんな思いも教会は忘れてはいけないのだと思います。
それと対極をなすような言葉が聞かれ始めたのは、震災後3、4年目くらいからだったと記憶しています。「東北教区はいつまで支援活動をするの?」悪気ではないのでしょう。遠くから見ていると「もう良いのじゃない」と見えるのかもしれません。「ほかでも災害が起きているし、そっちも大事じゃない?」それもわかります。無関心でいてはいけないことです。でも、私たちの身近に悲しみ、傷ついている人たちがいるのです。少し意地悪とも思えてしまう問いかけに、不甲斐ない私は答えに詰まります。しかし人のことは言えません。私自身も遠くの悲しい出来事には、当初は涙することはあっても、ごめんなさい。いつの間にか忘れてしまっています。だからこそ東日本大震災のことは、東北にある教会、そして私は忘れてはいけないのです。
「いつまで?」に答えはありません。「終戦記念日」はすべての戦争犠牲者を覚え、永遠の平和を願う日であり「次の戦争が起こるまで」などという怖い期限はついていないでしょう。それとは違い自然災害はまたいつの日か私たちに襲い掛かってくるのでしょう。残念ながら今の私たちにはそれを完全に防ぐ手段はありません。しかし、自然の脅威に抗い、少しでも犠牲者を出さないように、少しでも悲しみに暮れる人を出さないようにと「これより先に家を建ててはならない」「津波はここまで到達した」と石に刻み、後世に伝えようとした先人がいたように、たとえ大災害を経験した人たちがいなくなっても、教会も生きている石碑として東日本大震災という出来事を語り継ぐ存在となることを願っています。なぜならば聖霊の導きの中で「語り継ぐ」人たちがいたからこそ、私たちはイエスという方と出会うことができるからです。遣わされた場所で何を語り継ぐか、それも教会の使命なのです。
司祭 ステパノ 涌井 康福
「神の恵みへの応答」 2018年2月号
5歳の時、先天性心室中隔欠損で心臓手術を経験しました。この心臓手術で肋骨を縦半分に切ったのですが、8歳の時、これを留めるために巻いていた針金を除去する手術をしました(現在は外科技術も進歩し、そのような“荒っぽい”手段はとらないようです)。26歳の時には当時在籍していた聖公会神学院の学生寮の階段で転落、頭蓋骨骨折急性硬膜外血腫で入院しました。思えば何度も入院を経験し、家族を含め周りの人たちに多くの心配をかけてしまったことを思わされます。
しかし、度重なる入院経験で糧となったこともあります。病室にいる人は居留守が使えないという事実を知ったことです。気分が落ち込んで、誰にも会いたくないと思うことは入院患者とて同じです。しかし病室にいれば逃げも隠れもできません。来る者拒まず応対しなければならないのです。ましてや相手が牧師である場合、病床で祈りが捧げられ、「早く良くなってください」と告げられて牧師が病室を出て行った後、「やっと帰ってくれた」と思うことも失礼ながらありました。病める人のために祈りを捧げることができたと満足感を覚えるのは牧師だけで訪問された側はホッと胸を撫で下ろしている、そんなことがあるかも知れない…。自身が牧師になった今、病床訪問の際に常に思い出す経験です。
病気や怪我はある意味でアクシデントですが、それ以外にも、これまでの人生で自ら招いた、あるいは不慮の出来事によって何度も挫折経験をしてきました。その度に「どうして自分がこんな目に遭うんだ」「なぜこんなに苦しまねばならないのだ」と神に叫びました。その時々は二度と起ち上がることはできないと感じもしましたが、そうした挫折経験も入院経験と同じように、マイナスで終わることはありませんでした。あの経験があったから今がある、そう思える自分がいます。だからこそ「すべてのことが相働いて益となる」というみ言葉が座右の銘でもあります。
イスラエルの民と神が関係を結ぶに際して、モーセもその後継者ヨシュアも、神が民に行われた恵みを思い起こさせ、その上で誰に仕えるかを選べと迫ります。そこには、その時は挫折経験だと思えたことであっても、そこに神の導きがあったから今があるということを想起させ、その導きに応えるために自らできることを神に対して捧げ出すのがあなたがたの責任ではないかという論理があります。
どうも「すべてのことが相働いて益となる」には時間が必要なようです。だからこそ教会は「待つ」ことを大事にしてきたのだとも思います。しかしこの「待つ」時間は、ただ「座して待つ」「静観する」だけの時間ではないと思うのです。人間的には挫折と思えることでも、それを通して命を育む存在があることを想起し、自分には何ができるかを考え捧げ出していく時間であるように思うのです。そしてそれは、財政逼迫や人的問題など課題を抱える教区にあっても同じではないかと思いますが如何でしょうか。
「主は命を 与えませり
主は血しおを 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ 何をなして
主にむくいし」
(聖歌第506番第1節)
司祭 ヨハネ 八木 正言
「わたしの反省 ―新主教と東北教区の皆様へ―」 2017年12月号
「わたしの反省」等と書きだすと小学生の反省文のようです。「わたしの反省」、それは〈もっと遊べばよかった〉ということです。何を不真面目なことをと思われるでしょうか。しかし実は意外と真面目な反省なのです。
東日本大震災の発生に際して、わたしは本当にしまったと思いました。わたしはその時までほとんどの太平洋岸の被災地に行ったことがなかったのです。仙台近郊の閖上も荒浜も。志津川も、気仙沼や石巻さえ。
教会がないからです。わたしは大震災までの7、8年間、教会とホテルと執務室、主教館の間だけを飛び回わり、それ以外の土地を訪ねる〈遊びに行く〉余裕をもっていなかったということになります。時間的にというよりは心のゆとりの無さでしょう。南三陸の美味しい魚を食べに行きたいねと家族で話しても、実際に行くことはありませんでした。釜石はもちろん度々行きましたが、それでも教会と園を訪ねるだけで、その近くの土地、激甚な被災地となった鵜住居や大槌を訪ねたことはなかったのです。
そのことが被災者支援の働きにどう影響したか、やはり土地勘がない、その地域の震災前の生き生きとした姿を知らない。その点では他教区から来られた支援の方たちと同じでした。案内なんか出来るわけがありません。その反省から、わたしは他教区から主教として来られる方には、まずよく遊んで、その土地の景色を眺め、美味しい物を召し上がってくださいと申し上げようと思っていました。
自分の奉職する教区を好きになること、それはやはり大切で良いことだと思います。「好き・嫌い」というよりも、やはり様々な面での風土・気候の違い、地域ごとに異なる多彩なお人柄。
教区主教就任当初は、管区の仕事等、東京に行く時は嬉々として行っていたわたしが、むしろ帰りの新幹線で白河を超え、東北の地に戻ってくるとホッとするようになり、都会の夜のネオンの方が似合うと思っていた自分が、車窓から見える景色、山々や広がる田園風景を美しいと思うようになったのは、自分でも意外なことでした。
もちろん厳しい季節もあり、また過酷な歴史や経験を重ねてきた地でもあることを含めてのことですが。
主教被選者となられた吉田雅人師は、ウイリアムス神学館館長として神学教育を担われ、また礼拝委員長、祈祷書改正委員長という、日本聖公会の要職を担ってこられました。そういう方を主教として選び出した東北教区には責任があります。
今後、新主教がどのようなお働き方をされるかはわたしが言及すべき事柄ではありません。しかし普通に考えれば、大変お忙しくなることが想像されます。
だからこそ気をつけて遊んでくださいと。
周囲の皆様も、新主教がゆとりをもって東北を楽しみ、愛情を深めていって下さるように、何よりご健康を保たれるようにご配慮くださいねと、多少無理を承知で申し上げたいと思います。
新主教と東北教区のすべての皆様が、共に祈り、共に働き、共に語り合い、神様の恵みをますます豊かに分かち合ってくださいますように、心からお祈りいたします。
主教 ヨハネ 加藤博道
「タオ=道=ホドス」2017年11月号
還暦を迎える8月、中学同期会が催されて祝いました。成人式以来40年ぶりの再会で、何か気恥ずかしい心持ちも働いて、十分に会話を楽しむどころではなかった次第でした。
恩師は86歳の男先生一人だけの出席でしたが、先生は「長生久視」の文字を書にし、コピーして全員に配られました。祝辞の中で「今、社会で中心的に働いている皆さん、これからが長い人生です。80、100歳と長命で活躍してほしい」と驚きのお言葉が述べられました。
間もなく、高齢者の仲間入りをする私たちに向かって、長寿でいろよと、先生らしく発破を掛けて応援されたのだと、ここはお元気な見本的な方の温かなお気持ちを感謝して受け止めました。
「長生久視」は、老子の論語59章にある言葉です。老子はおよそ2500年前、中国古代を代表する偉大な思想家で「道(中国語でタオ)」を説かれた方です。老子「道徳経」(道=タオ、と徳=テーを説き、いわゆる「どうとく」ではない)の中にあるくだりを、加島祥造著「タオー老子」から現代語訳された、第50章の文章を引用します。人は生まれて、生き、死んで、去ってゆく。
30の年までは柔らかで若くて生命の仲間だといえる。60をすぎてからの30年は こわばって老いて 死に近づいてゆく。このふたつの30の間の壮年期の30年は、まあ、しきりに動きまわって、どんどん 固いものに近づいてゆく期間だよ。
どうしてこんなサイクルになるかって? それはね、ひとが 生きるための競争に こだわりすぎるからだよ。
私の残りこれからは、こわばって老いて死に近づいてゆく訳です。しかしです、私は何としてもこわばらずに老いたいのです。
その答はこう。
なにを失い、なにを亡くすかだって? 静けさと平和さ。このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。人になにかを求めないで、これでまあ充分だと思う人は、ゆったり世の中を眺めて、自分の人生を長く保ってゆけるのさ。(44章)
まあ充分かなの余裕、ゆったりの心境を保って人生を長く生きたいものです。
「わたしは道(ギリシャ語で『ホドス』)である」とご自身を証すイエスさま。道路である俺を踏みつけて歩け、ということではないでしょう。道はどこかへと通じており、その行き着く先が見据えられている筈です。それはパラダイスです。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ伝23章)と、イエスさまの十字架の左手に磔にされた犯罪人に語りかけられた言葉は、ほんとうの幸せを、私たちに強烈に教えてくれるものです。
イエスさまは、私たちが幸せに生きるにはどう歩んだらよいのかを分からせてくださる方です。幸せへの道しるべ、また幸せへの導き(=道引き)手です。幸せになるための要素は、すなわち、いのちを大事にすること、あなたを大事にすることです。それが自分のいのちも大事にされることにもなります。それ故、イエスさまには神の愛と慈しみ、恵みが満ちみちておられる方であると知るのです。
私は、何から何までも主にお任せした、おっとり老人にしぼんでいければなあ、と思う昨今なのです。
司祭 フランシス 長谷川 清純
あけぼの巻頭言11月号
「俺たちは憧れられているんだ」2017年10月号
皆さんは「メイク・ア・ウィッシュ」という団体をご存知でしょうか。難病に苦しむ子どもたちが持つ夢の実現の手伝いをすることを目的としている、アメリカで始まったボランティア団体で、日本でも活動しています。
その活動の始まりは、クリスという白血病と戦っている7歳の少年の夢の実現でした。クリスの夢は「白バイ警官」になることでした。この話を聞いたある警察官が動きました。どうにかしてクリスの夢をかなえてあげたいと思ったその警官は仲間を募り、上層部に相談します。そして上層部もクリスの夢の実現のために動きました。彼のために新品の制服装備一式を用意し、「名誉警察官」に任命しました。その上、クリスにミニバイクをプレゼントし、実際にパトロールや取り締まり業務にも当たってもらったそうです。クリスは夢のような時間を過ごし、夢がかなった5日後に亡くなりました。警察官たちは殉職警官と同様の栄誉礼でクリスを送ったそうです。
大変感動的な話しですが、警官たちがクリスの夢を叶えるために組織を上げて揺り動かされた一つの言葉があります。それはクリスの話を聞き、何とか夢をかなえてあげたいと考えた一人の警官の、仲間や上層部への「俺たちは憧れられているんだ!」との訴えでした。なかなか言える言葉ではありませんが、警官たちの誇り高さを感じさせられる言葉です。
自分が子どもの頃に憧れていたものを振り返ってみると、プロ野球選手、鉄道の運転士、バスの運転手、森林警備隊員(カナダの少年ドラマを見て)等々、色々ありました。今となればどれも最早無理ですが、ふと、当時の憧れが過ることもあります。そして今、私は何とか教役者として生かされています。私が教役者の道を歩もうと思ったきっかけ、所謂「召命感」は何だったのだろう?ということを改めて振り返ると、子どもの頃とは違う「憧れ」というものがあったように思います。私は教会の環境で育った訳ではなく、途中から、俗に言う「突然変異」で教会へ通うようになりました。教会へ行くたびに「司祭」という方の存在が不思議でなりませんでした。決して「お暇」ということではなかったかと思いますが、高校〜大学を通して向き合って頂きました。このことが不肖私を教役者の道へ導いたことは間違いないことです。その思いの大部分は「憧れ」だったのだと思います。
私たち東北教区はこの度の主教選挙に向けて教役者会や教役者・信徒が共に話し合う時を共有しました。「牧会的・霊的リーダー」としての主教を望み、何方が選出されても支えることで一致しましたが、「人を育てる」主教さんであって欲しい、という望みが託されたと思います。東北教区は教役者も信徒も少ない状況の中にあります。特に教役者数は危機的状況かもしれません。「人を育てる」の中には教役者の養成が勿論含まれているでしょう。その教役者養成には教区聖職養成訓練委員会を中心に検討されています。具体策として何かある訳ではありませんが、ただ、私たち教役者が多くの人に、特に子どもたち、若い人たちに「憧れられる」者としての意識、誇りを更に持つことが大事だと思います。自戒を込めてその思いを書かせて頂きました。
司祭 アントニオ 影山 博美
あけぼの巻頭言10月号
「東北教区管理主教として」2017年9月号
東北教区の聖職・信徒の皆さまに主の平和がありますように。
ここ数年、よく同じような夢を見ます。もう礼拝が始まる時間なのに、いくら探しても式服が見つからない! 礼拝堂ではもう聖歌が始まっているのに・・・。説教壇の前に立つと、その日必要な大事な原稿がどうしても見当たらない・・・などと。何かに追いたてられて自分ではどうしようもない状況に立たされている場面。妻に助けを求めるのに、それが全く通じなくてさらに苛立ちを覚えている・・・、そんな中で汗ばみながら目が覚めるのです。あぁ、夢で良かった・・・。
忙しいという字は心を亡ぼすという意味があるそうですが、確かに平安とは程遠い状況に自分を追い込んでしまっていることに気が付くことがあります。自分の計画通りに人生は進みません。どんなに緻密に計画を立て、余裕をもっていても、思いもよらぬことが起きます。その中で私たちはジタバタしながら、それでも、ある時は回りの人に助けられ、ある時はどん底に落ちながらも這い上がり、様々な経験を経てまたなんとか起き上がって歩みを続けるのです。
加藤博道主教さまの14年間にわたるお働きの中、東日本大震災という想定外の大惨事に遭われて、聖職・信徒の方たちと共に、どれほど大きな苦しみを負いながら、この6年間を復興に費やされたことでしょうか。被災地である東北教区の主教としての重責は計り知れないものがあったと想像します。私たちは隣りの北海道教区にありながら何もできませんが、この6月末まで、いくつかの教会では聖餐式の代祷の中で主教のために祈る際、「主教ヨハネ加藤博道」のお名前も挙げてずっと祈り続けてきました。
今回、加藤主教さまの教区主教退任に際し、東北教区の管理主教としての任を仰せつかり、私にとっても予期せぬ状況に置かれましたが、東北教区が新たな教区主教を戴いて出発をするまでのつなぎの役として、忙しさを理由に心を亡ぼすことなく、神様からの力と聖職・信徒の皆さまからのお祈りとお助けをいただきながら、誠実に務め上げたいと願っております。
東北教区というお隣りの教区に伺うことによって、私自身にも違う視点が与えられ、別の面から北海道教区を見直す機会となることも期待しています。先日、北海道教区の函館聖ヨハネ教会と今金インマヌエル教会との合同礼拝に、東北教区の信徒さんが2名お見えになり、楽しい交わりをさらに豊かにしてくださいました。教区を超えて交わりがあることは大へん喜ばしいことです。新しい発見があり、自分自身の信仰に違う風が吹き込みます。
どのような状況にあっても、私たちは決して神様から見捨てられることはありません。ゆえに、今まで信じて続けてきたことを、これからも日々変わらず続けていくことを大事にしたいと思うのです。小さな奇跡、よみがえりの奇跡は、大へんな状況の中でこそ、ひっそりと、でも確実に起こっているのです。日々キリストの死に与り、キリストの復活を身に帯びて、私たちは歩みを共にしたいと思います。
主の御守りの中、豊かなお導きと祝福が皆様の上にありますように。
東北教区管理主教(北海道教区主教)
主教 ナタナエル 植松 誠
教区報「あけぼの」巻頭言9月号