教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

「覚え続けること」2016年9月号

教会や近所のご婦人方と話をしていると、NHKの「朝ドラ」の話題で盛り上がることがあります。私は最近では聖公会と所縁のあるニッカウヰスキー創業者、アブラハム竹鶴政孝・リタ夫妻がモデルとなった「マッサン」は夜の再放送でよく視聴しましたが、最近の話題にはついていけません。そんな話の中で気が付いたのは、現在放送中のものの前々回のものくらいまではみなの記憶にあるのに、それより前のものになると「あれ?何だっけ」となることが多いことです。これに限らず「流行り」というものはそういうものであるのかもしれません。

 

世の中の動きを「流行り」と同等に捉えてはなりませんが、やはり現在進行形の事柄にみなの関心が向くのは否めないことです。九州で大きな地震の被害があり、各地で自然災害があり、自分たちとはまだ直接かかわりのないことのように捉えていた「テロ」が身近に忍び寄ってきている不気味さなど、数え上げたらきりがありません。

 

東日本大震災も「あれから5年」というニュースを聞いて「そうか。5年になるのか」と、思い起こした人が多かったのだろうと思います。しかし、どんな出来事でもその当事者にとっては「現在進行形」なのです。たとえ復興計画が完了したとしても、決して過去にはならないのでしょう。

 

多くの人が忘れるのは仕方がないし、私たちも遠くであった出来事に対して同様です。マスコミでも特別な時にしか取り上げられなくなっていくのでしょう。でも、東北にある私たちは「あの日」をまだまだ歴史にしてはいけないと感じています。この地に住む者だけは決して忘れてはいけないと心に誓います。

 

しかしどのように寄り添い続けていけば良いのか、忘れていないと言うだけで良いのかと戸惑うことがあるかもしれません。様々なかかわり方があると思いますが、私たちに、そして教会にできることの一つに祈りの中に覚え続けるということがあります。実際に毎月11日には被災された方と被災地を覚え祈り続けている教会があり、主日の代祷の中で覚え続けている教会もあります。これから10年、20年、30年と続けていくことで、それは生きた記憶、未来への警鐘となっていくのだと思っています。教会が大震災の出来事を伝える、生きた「石碑」になることも、とても大事なことだと思いますし、これまでかかわってきた者の責任でもあると思います。

 

祈りの中で覚え続けていると、その人の顔が見たくなったり、その場所に行ってみたくなったり、何かできることはないかと思ったりします。教区では被災者支援の働きが継続されており、宣教部主催の「被災地に立つ」が今年も行われます。山形の教会では年に数回被災地を訪ねることを続けています。何ができるわけでもない、行って、見て、帰ってくることの繰り返しです。不思議と毎回素敵な出会いがあることが感謝です。これからいろいろな働きが見た目には小さくなり、その形も変わっていくのかもしれません。それでも「覚え続ける」ことが、教会の自然な姿であり続けたいと思います。広報委員会ではできるだけ「今」の被災地の様子を伝え続けたあけぼの9月号1ページ写真いと思っています。教区の皆様も夏休み、秋の行楽シーズンなどに被災地を訪問される機会がありましたら、その地の様子をご一報いただけましたら幸いです。

司祭 ステパノ 涌井 康福

写真:磯山聖ヨハネ教会礼拝堂跡地訪問

 

 

 

「そろそろ・動き出す」2016年8月号

巻頭言写真 HP用スタートダッシュが速いこと、立ち上がりが速く、フットワークが軽いことが高く評価される傾向があります。

 
確かに陸上競技でも、100メートルの競争とマラソンとでは、スタートの仕方はまったく違います。東日本大震災から5年と5カ月、「そろそろ動きだしてみようか」という、亀さんみたいなことがあっても、とっても素敵だなと思います。

 
実際、教会の婦人会や有志の方が被災地を訪ね、お茶等の一時を一緒にするプログラムに、「あ、この方も参加されたんだな~」と思うことが最近でもあります。ご自身も被災された方の場合があります。

 
震災後、3年、5年経って、やっと被災地を訪ねる気持ちになったという方の話も聞きます。自分が親しんだ土地であればあるほど、3年、5年はとても行けなかった、というお気持ちを聞いたこともあります。本当にそうだと思います。

 
大きな事柄であればあるほど、それに対してどのように向き合えるかは個人の差も大きいでしょう。比較できない面が多いだろうとは思いますが、広島・長崎の原爆、あるいは沖縄の激戦から70年が過ぎても、その地を訪ねる意義は少しも変わっていません。そして東日本大震災の被災地の状況は(他の大きな災害にも共通するでしょうが)当初の困難さとはまた異なった困難があり、残念ながら所によっては深刻さは薄まるどころか、その度合いをましているとさえ言えるのですから。

 
「だいじに・東北」以来のプログラムで、「巡礼」という言葉をたびたび用いてきました。もちろん訪ね歩いて祈ることですが、背景には「何もしなくてもいい」ということもあったと思います。震災当初から、「行っても自分には何にも出来ない」「何をしたらいいかわからない」「ただ観に行くのでは申し訳ない」という言葉を多くの方から聞く中で、ともかく「訪ねてみよう」「いっしょに祈ろう」という意図が込められていました。もちろん、その中から、自分らしい仕方で出来る何かが見つかるならば、それはまた良いでしょう。

 
「訪ね歩く」ということは、わたしはキリスト教信仰の中の、本質的な部分の一つだと思っています。病気の友を見舞うこともそうです。

 
「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(マルコ6:6b)。福音書のイエスは旅をされ、訪ね歩かれるイエスです。昨年からの東北教区宣教部主催の修養会も、昨年は八戸、今年は大館と訪ねるプログラムでした。本当にお互いにもっともっと訪ねあったらよいと思っています。

 
東日本大震災だけでなく、東北各地には固有の課題があります。もちろん共通もしています。お互いにさらに深く知り合うことは、大きな恵み、思いを超えた経験となる筈です。最近の九州地震や、世界にあるさまざまな困難、悲劇に対して、東北の感じ方、眼差しもまたあっていいのだと思います。

 
今年の夏はどうされますか? 何か一つ、今までしていなかったことに(何であれ)、腰をあげてみてはいかがかなと思うのです。

主教 ヨハネ 加藤 博道

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」2016年7月号

1面 挿絵恐怖は、様々な場面で感じることがあります。例えば、最大の恐怖は死であり、自分の能力と限界の恐れもあります。また、将来に対する不安もありますし、合格と不合格の恐怖と喜びもあります。その恐怖に心配して眠ることができない場合もあります。

 
自然災害の恐れもあります。嵐や地震がその例です。おそらく地震や火山の爆発は、巨大な被害を与えるため、恐怖も大きくなります。インドネシアの地震や2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災と津波は、言葉で表現できない恐怖でした。また、2016年4月14日午後9時26分以降、九州地方を震源とする地震が続いています。これらのすべてが死に追い込むものだからです。また、暴力や武力の恐怖も本当に大変な恐怖です。

 
マルコによる福音書4章37節以下に次のような話があります。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 
弟子たちはひどく恐れています。船に水が入るのに艫の方で枕をして眠っておられるし、「なぜ怖がるのか?」と言われるイエスの言葉が理解できません。私たちもそのような状況で、恐怖を覚えないことができるでしょうか? それは当然のことであり、弱い人間の姿です。しかし、恐れていますが、船に乗っていて、イエス様が一緒にいらっしゃいから船に水が入って来ても、恐怖を出す必要がないという言葉です。

 
キリスト教の伝統で船というものは教会共同体を象徴し、イエス様が立ててくださった共同体です。弟子たちは、イエス様と一緒におり、暴風が打って、水が入ってきて、死に先んじて、すべて恐れるほどのことが起こっています。しかし、イエス様は沈黙し、眠っておられるように見えるかもしれません。私たちも生きていく中で、このように数多くの人々が命を失い、恐怖に陥り、互いに裏切って、神を恨んで信じなくて船を離れて行き、また今後も船を離れていく可能性があります。そして弁明としてつらくて船を守ることができなかったし、怖くてやったと言ってしまうかもしれません。だから今日も、イエス様は、「なぜ怖がるのか?」「まだ信じないのか?」と私たちに尋ねておられます。

 
それは生命であるイエス様と一緒にいられず、疑うので恐れてしまうのです。

 
そのすべては信仰です。信仰を通って沈没しようとする船を救い、私たちの生命も救い、私たちの教区も救い、私たちの教会共同体も救うことができます。しかし、私たちは、イエス様の能力を疑って生きています。完全に信じることができない、私たちの弱い信仰を反省しながらこれからは疑いもなく、イエス様と世界を愛することにもっと努力する信仰者でなければならないでしょう。

司祭 ドミニコ 李 贊熙

 

「Y司祭の水出しコーヒー」2016年6月号

あやめ「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ…」(ルカ10:41)

 
私が司祭になって間もない頃の忘れられない苦い体験です。仙台勤務についたばかりの頃、Y司祭を特別な用もなく、突然訪ねました。彼は1人縁側に腰を下ろしてじっと瞬きをせずゆったりと嬉しそうに前を見つめていました。目線の先の畑には、なすび、キュウリが見事にたくさんのたわわな実をつけて、Y司祭の信仰の友のようでした。

 
しかし私が気になったのは、なすびやキュウリではなく目の前に置かれた得体の知れない不思議な物体でした。それが何であるかすぐに理解できました。初めて見る水出しコーヒーでした。司祭さん曰く、今日は誰かが訪ねて来るような予感がしてコーヒーを用意して待っていたと言われました。それは感激です。初めていただく水出しコーヒーの味を想像しておりました。

 
ところがいつまで経っても出てこないのです。寡黙な司祭さんでしたから、あまり話も弾まず、ただ黙って時々司祭さんの横顔を覗きながら庭を見ていました。司祭さんは何事も無かったかのように黙々とその場でお地蔵さんのように動かず、何時できるかもわからないコーヒーにも関心がないようにただ座っておりました。

 
聞こえるのはさらさらと頬を伝う風と、いつ果てるともなく“ぽたっ、ぽたっ”と落ちるコーヒーの水滴の音だけです。我慢の限界。しびれを切らしてこれ以上待てないと、まだ仕事がありますので次回にいただきますと、失礼を詫びながらその場を離れようとしました。

 
それまで物静かな仙人のような司祭さんの顔が一瞬ゆがんだのを見逃しませんでした。いきなりでっかい雷が落ちました。馬鹿者と一括でした。僕は君にあげる物が無い。今あげられるのは僕に残されたわずかな時間…もう次の言葉を返せませんでした。

 
今、定年を控えてその言葉が脳裏を過ぎります。それでも懲りない自分がいます。

 
世界一心が豊かなウルグアイの元大統領ホセ・ムカヒさんの言葉が今世代を超えて暗い世界に光り輝いています。ミヒャエルエンデの代表作『モモ』の時間泥棒を思い出しながら、心に残るその名言をいくつか紹介したいと思います。
・毎月人の2倍働き、ローンを払ったら年老いた自分の残った…後悔はありませんか?
・貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。
・質素に暮らすことは、物に縛られない自由な生き方を勝ち取るため…質素な生活を送ることで働かない自由な時間が確保できる。
・幸福な人生の時間は、そう長くはない。
今、当たり前の事を告げる81歳になるムカヒさんの言葉が、妙に心にズキンと響くのです。彼の人生は、若いときには人々の解放のためゲリラ組織に入るも逮捕され13年間過酷な獄中生活を送り、後に政治家として頭角を現し、多くの人々の支持を得てウルグアイの第40代の大統領となり、任期5年でその職を辞して昔も今も静かに妻と2人で変わらず農園にて生活を続けています。その辿り着いた生活スタイルは生きるために必要な最小限のもの(余計な物は欲しがらない)で、自由な時間が確保された最大限の幸福な人生を生きる哲学に支えられています。

 
想像するのです。物はいつでも買えますが、時間はいつでも買えないことが、この歳になってようやくY司祭の一喝がムカヒさんの言葉と重なり、生きている限りまだ時間はある、まだ間に合うとしぶしぶ自分に言い聞かせながら、限りある人生の時間をどう使うかまだ迷う69歳になった自分がいます。

司祭 ピリポ 越山 健蔵

「主よ、私の心を開いてください」2016年5月号

あけぼの5月号1ページ写真あなたはまず自分自身の心を開放してごらんなさい」

 
この言葉は私が大切にしている言葉の一つです。私が15歳の時に教父母から言われた言葉です。見事に核心をつかれました。

 
私は中学生の頃に学校に行くことが出来なくなってしまいました。その理由は自分自身の中にありました。私は大丈夫と無理に自分の心にふたをして取り繕って優等生でいなければならない自分と本当の自分がぶつかったことが根本的な原因でした。

 
もう一つの私の人生にとって大きな出来事は、弟の死でした。弟は1998年9月16日未明に自ら命を絶ちました。19歳の人生でした。亡くなる数時間前に私の携帯電話に弟から電話がありました。

 
それは9月15日に仙台で大きな地震があり、ニュースで地震のことを知り、当時、仙台の大学に通っていた私の事を心配して電話をかけてきたのでした。まさかその電話での会話が最後になるとはその時は思いもしませんでした。私はその時、日本聖公会の聖職候補生の認可を頂いており、大学を卒業したら春からは神学校に行く準備をしていました。しかし、弟の苦しみに気付いてやれないような者が聖職の道を歩んでいいのだろうかと思い悩む日々が続きました。

 
また、「哲也さんはご兄弟がいるの?」と聞かれると「いいえ、私には兄弟はいません」もしくは「弟さんの死因は何だったのですか」と聞かれると、「突然死」ですと言って本当の事をとっさに伏せてしまっていました。しかし、それは本当に苦しいことでした。本音を隠して体裁を整えてばかりいる自分がそこにはいました。そんな時に思い出したのが冒頭の言葉です。

 
「自分自身の心をまず開放してごらんなさい」自分自身の心に嘘をついて蓋をしていると人生のどこかで必ず無理がくるのです。自分では大丈夫だと思っていても心は正直です。しかし、どうでしょうか。心を開放すれば楽になるかもしれませんが、人間そんなに簡単に本当の部分を吐露することは出来ません。なぜならば怖いからです。

 
東日本大震災5周年記念礼拝の中で3人の方がお話をしてくださいました。皆さんそれぞれのお話に私は心打たれました。震災当日の出来事から今日に至るまでの心の動きをお話しくださいました。多くの人の前でこれまでなかなか言えなかった本音も吐露されていました。とても勇気のいることだったのではないかとお話を伺いながら感じました。

 
皆さんはどうですか。ご自身の本当の部分を吐露できていますか。イエス様の前で告白できていますか。無理していませんか。みんな、毎日鎧をかぶって生きています。でもそれがやはり積りに積もっていけば限界に達してしまいます。私は今本当にお一人お一人が「心の開放」を必要としているのではないかと思います。ある信徒の方が息子さんを亡くされて言いました。「私は今イエス様と喧嘩しているんです。なぜ息子は死ななければならなかったんですかと。」私はこれでいいと思うのです。イエス様にすべてをさらけだしていいのです。キリストの教会が体裁や建前によって形成されていくのではなく、破れや苦しみが吐露され、そして回復が与えられていくことによって成長していくことを心より願っています。

司祭 ステパノ 越山 哲也

「出エジプトの旅」2016年3月号

3月号 1面写真ひとり孤立せず生活できるのは幸せです。地域にある教会は決して単独ではなく、世界と固く結びついている故に力があります。被災地にいる私たちは、多くの皆様のお祈りに本当に支えられ励まされてきました。例えばロンドンの日本語英国教会で覚え祈ってくださり、2月6日、サザーク大聖堂にてマイケル・イプグレイブ主教説教で東日本大震災追悼礼拝を献げてくださいました。大韓聖公会首座主教パウロ・キム・グンサン主教や大田教区モーセ・ユ・ナクジュン主教が東日本大震災記念聖餐式に参列くださいました。日本聖公会すべての信徒・教役者の皆様も同様に祈ってくださっております。

 

 
祈りは連帯を促します。祈りは世界と教会をつなぎ一つとします。祈りは共同体一致を目指します。祈りは個々人 を支える大きな力なのです。

 

 
今、日本は憲法無視の安保法案可決、辺野古への新たな軍港建設、原発再稼働、深刻さが増大するばかりの福島第1原発放射能汚染等、生命・環境に憂慮すべき事態が進行中です。福島県の小児甲状腺癌および疑いのある子どもは160人を超え、帰還政策、補償金打ち切り等は、今そこにあるいのちの著しい軽視です。原発事故の恐ろしさを描いた黒澤明監督のオムニバス映画「夢」第6話「赤富士」が夢の中の話ではなくなってしまいました。

 

 
昨年のノーベル文学賞作家、ベラルーシのスベトラーナ・アレクシエービチさんは言います。福島原発事故の後、広島、長崎原爆とチェリノブイリ事故と併せて「人間の文明は『非核』の道を選択すべきではなかったのか」「原子力時代から抜け出さなければならない。私がチェリノブイリで目にしたような姿に世界がな

ってしまわないために、別の道を模索すべきだ。」さらに、「生命の共感や他者への思いやりを重視する女性的な価値観こそが、新しい世界を開くのに重要です」と。これらには、私たちの行動を方向付けさせます。

 

 
では、私たちがなすべき責任は何か。核兵器廃絶に向けた科学者たちのパグウォッシュ会議のきっかけとなったラッセル・アインシュタイン宣言(1955年)にある、「人間性の回復」に努めたいと願います。世界教会協議会2014年7月採択声明「核から解放された世界へ」は、「私たちに求められている生き方とは、いのちを守ることです。」と単純明快に発信しました。これに先立つ2012年12月開催の「原子力に関する宗教者国際会議」でのチャン・ユンジェ氏基調講演は「核から解放される出エジプトの旅」でした。「この砂漠(最初に核実験が行われた場所)で“死の遊び”が始まったのです。これを止め、“いのち”を選ばねばならない。核から解放された世界への出エジプトが、ここから始まらなければならない。……その旅路の先に、私たちは人間性を取り戻せるはずなのですから。長く厳しい旅路となるかもしれません。

 

 

しかしその旅において、あなたは孤独ではないのです。なぜなら、この出エジプトの道は、いつか、いのちと正義を重んじる多くの人々の列となるからです。」
私たちはこの出エジプトのイメージ、幻を実現させるため被災の地に立ち続け、旅に加わって参りましょう。

 

立ち続け、旅に加わって参りましょう。

 

司祭 フランシス 長谷川 清純

「競争」2015年12月号

10月某日、晴れ渡る秋空の下で、私は聖クリストファ幼稚園の運動会にお手伝いとして参加させて頂きました。かわいらしいダンスや、玉転がしや玉入れ、そして駆けっこやリレー、その他様々な「競争」がそこでは行われました。それら全てに小さな子どもたちが、本当に一生懸命に取り組んでいて、見ているこちらが元気づけられる思いでした。そして運動会は、そんな子どもたちの姿や笑顔があふれながら進んで行ったのですが、その内のある「競争」の中で、私は子どもたちの中に神様からのメッセージを見ることが出来たのです。

 

 

その競技は、二つのチームで、荷物を引きながら競争をするというものだったのでした。そしてその競技中に、片方のチームの子どもが荷物を落としてしまう出来事があったのです。普通ならこれは、もう片方のチームにとって、相手を大きくリードするチャンスです。相手チームが手間取っている間にどんどん進むべきですし、それが常識です。
しかしそのときに、リードできるチャンスのチームの子どもは、全く前に進もうとはしませんでした。周りからも「先に行っていいんだよ~」「進んで進んで~」と声が上がります。私も思わず「はやく行けば良いのに!」と思ってしまいました。しかしその子どもは、相手の子が自分と同じ所にくるまで待っていました。そして同じ所にやって来た瞬間に、自分も全力で一緒に走り出したのです。私はこの光景を目にしたときに、これこそが聖書において言われる「競争」のあるべき姿なのだと思ったのです。

 

 

聖書において出てくる「競争」という言葉、例えばヘブライ人への手紙12章1節に登場するこの言葉は、中々理解が出来ない言葉として私は認識していました。「何故聖書において、人と競い合うようなことを言うのだろう、単純に走ると言えばいいじゃないか」そう思っていました。しかし運動会での出来事を受けて、改めて「競争」という言葉を辞書で引くと。そこには一般的に認識されている、「他者と競い合い、様々な手段を使い、その人よりも上に行くように行動すること」といった意味の他に、「同じ目的・目標に向かい、互いに高めあいながらその目的・目標に進んで行くこと」というものがありました。そしてその注釈には、「現代の競争という言葉のイメージは、経済発展や近代化、学歴競争などに伴い闘争と似たような概念になってしまっている」とも書かれていたのです。

 

 

私はなるほどと思いました。今現在の私たちを取り巻く世界は、国も個人もあるいは教会すら、「闘争」ばかりをしているのだと。本当は同じ目標に向かっているはずなのに、自分たちだけが少しでも上に・前に行こうとして「闘争」を起こしている。それが「普通」になってしまっているのだと。

 

クリストファKG運動会

だからこそ私たちには、運動会で相手の子を待ってあげていた子どもが示した「競争」こそが、大切なのです。私たちは同じ目標である「神の国と復活」を目指し、自分だけではなく、相手も一緒にその目標へと至れるように「競争」をしていくことが必要なのです。そして教会は世界に「闘争」ではなく、「競争」をしてもらうために働くべきなのだ。運動会での子どもたちの姿を通して、そう強く感じました。

 

聖職候補生 パウロ 渡部 拓

「小名浜に遣わされて」2015年11月号

4月1日より越山健蔵司祭の指導の下、小名浜聖テモテ教会と聖テモテ支援センターの働きに従事して、半年が過ぎようとしています。これまでの多くのスタッフ・ボランティアによって培われた信頼関係を引き継ぎ、原発避難地域からいわき市の応急仮設住宅団地に住まわれている方々との交わりをいただいています。

 
富岡町からの泉玉露仮設・大熊町からの渡辺町昼野仮設の両集会所で、週に2回ずつ「ほっこりカフェ」(下写真)を開催しています。先日は、警察官がカフェに来訪し、大熊町をパトロールした際のビデオを上映してくれました。これは仮設在住の避難者の要望に応えて、未だ高線量で一時帰宅もままならない元の家がどんな風になっているか、画面からだけでも見てもらおうとの活動でした。

 
変わり果てた思い出の我が家を目の当たりにし、「帰りたい…!」と号泣される姿に、私も警察官も涙を禁じえませんでした。ところがレンズが振られたとき、驚きの光景が拡がりました。そこに映ったのは、通常の制服姿で何の放射線防護もしていない(花粉用マスクですら!)20歳代前半の警察官の姿でした。

 
我が家を一目見たいと依頼した方も、孫と同年代の若者が福島第一原発のそばで無防備で立ち歩いている姿に呆然としておられましたが、後悔の念が沸き起こったと後日伺いました。

 
私は脇へ警察官を連れて行き、風邪を引いた振りでもいいからパトロールの際は自分を守るべきだと言いましたが、言葉にしづらい事情があるのでしょう、黙って首を振るだけでした。このように、今も安全神話がはびこり、多くの人の身体と心を傷つけ続けている現実があります。

 
大震災から4年半を経た今、仮設団地は転出のピークを迎えています。いわき市内の造成地を買い求め、自宅を建てることが出来た方が、次々と仮設を後にしていきます。残されているのは、経済的・健康的・年齢的・家族的に余裕がなかったり事情が許さなかったりして、復興公営住宅が建設されるのを待っている方々です。工事は遅々として進まず、更に2年間はプレハブ暮らしを強いられると思います。気が滅入り、部屋に閉じこもってしまわないよう、近隣の気の合う仲間とコーヒーを飲んでほっこりしていただけるならば幸いです。私は時が経つにつれカフェのニーズは減っていくどころか、逆に増していくと考えています。復興公営住宅での孤立の問題も深刻です。

 

女性も男性も和気あいあい

女性も男性も和気あいあい

困難な状況に置かれた方々の背後に、いやその方々の姿に、十字架の主イエスが私には見えます。この困難と悲しみのただ中で既に働いておられる主イエスに従うことが、信仰者のありようだと考えています。福島県から遠くなるほど、生の声はますます届かなくなっているのではないでしょうか。国や原発でまだ儲けたい人たちは、もう終わったことにしたいのでしょうが、そうはいきません。私たち信仰者は、聖餐式に示されるように、繰り返し思い起こし連帯することが得意なはずです。皆様、ぜひ小名浜をお訪ねください。この地を共に巡りながら、私たちに先立って働かれる主といっしょに歩かせていただきたいと願っています。

 

執事 バルナバ 岸本 望

「忍耐と希望」2015年10月号

1面イラスト九州生まれで関東育ちの私が初めて東北の地を訪れたのは、今から41年前の中学2年生(14歳)の夏のことでした。当時会社に勤めていた父が仙台で単身赴任をしており、初めての一人旅でその父を訪ねたのでした。まだ東北新幹線もありませんでしたので、上野駅から特急ひばり号に乗って4時間近くも電車に揺られておしりが痛くなる中、ようやく仙台駅に降り立つと、父が家では見せたことのないような笑顔で出迎えてくれたことを鮮明に覚えています。その後父に連れられ、松島や平泉を観光し、また仙台基督教会も訪ねて、大変暖かくお迎えいただいたことが今でも思い起こされます。その時初めて味わった東北の海山の景色や透き通った空の美しさへの感動、また、人の暖かさとの出会いが、自分の将来を大きく動かすことになったと思っています。その後、23歳の時に自分の強い思いがあって東北教区の聖職候補生として認可をいただき、東北教区の聖職の一員としての道を歩み始めることができました。長い道の途中、やはり東北とは別物であることに悩み、また、自分自身の失態から多くの皆さまに多大なご迷惑、ご心配をかけながらも、皆さんの深い愛情と神様のみ許しをいただき、何とかここまで歩みを進め今日に至ることができたと思っております。心より感謝申し上げます。さらに仙台出身の妻と出会い、釜石勤務中には2人の子どもにも恵まれ、東北出身でないのは私だけという家族になりました。それだけが原因かどうかわかりませんが、しばしば家族の中でも完全アウェイ状態になることがあり「そういうところがいけないんだよね」などと叱られ、忍耐することも学ばされたように思っています。

 
「東北の皆さんの忍耐強さに心から敬服いたします」。これは東日本大震災でボランティアの方々がやって来た時によく耳にした感想の言葉です。この言葉には、復興が遅々として進まぬ中、暑苦しい体育館や避難所にあっても苦言・不平を漏らさず、ひたすら耐えておられる皆さんの姿を見て、純粋に感動を表した言葉として受け止められる一方で、遠慮せずにもっと大きな声を出して、早期復興・生活改善の要望を心の内をさらけ出し訴えるべきだという思いも含まれていたように感じました。しかし、現在も変わりない状況の中ではありますが、それでも、忍耐し続けるしかなかったのだと思うのです。私たちには、苦難にあうとき、忍耐は練達を、練達は希望を生むという確信が与えられていますが、希望のない忍耐ほど辛く無意味なことはないのではないかと考えさせられます。

 
2年前に終了となりました「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動の中にあって被災地に出向いた時、「本当に、あんたたちは神様を信じている人たちなんだね」「イエス様を信じている人たちは違うね」という、教会の活動に対するこの上ない賛辞の言葉を頂戴したことが忘れられません。「いっしょに歩こう!プロジェクト」や教会の働きはイエス様の働きそのものであったと思うのと同時に、その働きは主にある交わりから湧き出る希望を、僅かばかりではあったと思いますが忍耐している皆さんに一縷の希望の光として届けることができ、神様の働きの一助として祝福されたと思っています。恵みに満ち溢れた私たちの神様こそが真の希望を私たちに与えてくださることをさらにこの世で証し、何を信じるべきかを信心深い人々へ伝えることが私たちの役割であることを再確認したいと思います。

 

 

 

司祭 ヤコブ 林 国秀

「聖ヨハネ祭のこと」2015年9月号

昼間の時間が一番長い夏至の日付は年によって違いますが、今年は6月22日でした。この夏至に近い24日に洗礼者聖ヨハネ誕生日を迎えます。バプテスマのヨハネがイエス様よりも6カ月前に生まれたというのでこの日が祝われるようになりました。

 
ヨーロッパではミッドサマー(Midsummer)と呼ばれ夏至祭が祝われます。北欧では葉っぱや花の飾りをつけた柱(ドイツ他の五月柱〈メイポール〉が伝わったもの)が広場に立てられ一晩中踊り明かして、たき火を焚いて祝うそうです。

 
ところが日本はちょうど梅雨のときと重なり、曇り空で太陽が見えないので、うっかりすると夏至を忘れて過ごしています。

 
さて今年は雨がさっぱり降らなくて、6月26日(金)にようやく「東北南部が梅雨入りしたと見られる」と発表があり、土曜日に青森も恵みの雨となりました。夕方から嵐になり、少々降りすぎましたが、まとまった雨はこのときだけで、南の地域には申し訳ないのですが、青森は、晴れの日が続いています。(※1)
朝3時半というともうすっかり明るくて、夕方7時半になってもまだ日差しが残っています。晴天続きの今年、しみじみ夏至を肌で感じることが出来ました。
聖ヨハネ日前夜に摘む薬草は特別な効果があると言われています。切り傷や神経症に薬効があると言われる西洋弟切草はSt. John’s wortと呼ばれていますが、採れる真っ赤な浸出油が聖ヨハネの最期を連想させるのでこの名前が付いたようです。

 
このオトギリ草を摘んでお母さんの病気を治すステキな童話があります。

 
Google画像やYouTubeで「聖ヨハネ祭」と検索するとおびただしい数のスカイランタンが夜空を舞う美しい素敵な光景を見ることが出来ます。2010年に公開されたディズニー映画「塔の上のラプンツェル」の中にランタンが飛ぶシーンがありますが、聖ヨハネ祭からヒントを得ているようです。真似したいのですが、火事の心配があるので出来そうにありませんが、こんな祭があったらなと思います。

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夏至の頃に電気を消してスローな夜を過ごしませんか、と環境問題に熱心な方々が発起人となって「100万人のキャンドルナイト」の運動が呼びかけられ10年間続けられ2012年に一区切りとなりました。今は各地で自主的に開催されているようです。

 
東日本大震災による福島第一原子力発電所事故以来「電気に頼る暮らしがいかがなものか」と問わない訳にはいきません。

 
脚本家の倉本聰さんがTVドラマ『北の国から』を始めたのは「電気がなければ暮らせないのか?」という問いかけからだったそうです。富良野の大自然の中で、聰さんが私財を投じて開かれていた俳優養成のための富良野塾(今は閉塾)には「あなたは文明に麻痺していませんか 石油と水はどっちが大切ですか ‥‥‥あなたは感動を忘れていませんか‥‥‥」と書かれていました。

 
考えてみれば電気も石油も車もない時代にイエス様のいろいろな出来事があったのです。

 
青森には六ヶ所村とか大間とか原子力発電関連施設があり、ことに大間に行きますと晴れた日に対岸に函館が見えるのです。「後戻りはできないのですか」と問わないでいられない毎日です。私たちにも覚悟がいるのではないでしょうか。

 

 

 

 

司祭 フランシス 中山 茂

※1 統計開始以来、東北南部は1967年に並んで最も遅く、記録的に遅い梅雨入りでした。東北北部は一番遅い梅雨入りは同年7月3日とのこと。昨年より3週間遅い梅雨入りでした。青森は、梅雨のない北海道の影響を受けるようです。

「自分の中の風化」2015年8月号

去る5月30、31の両日に、秋田市で「東北六魂祭」が開かれ、県内外から20数万人の方が秋田を訪れました。予想以上の人出だったようです。東北六魂祭は東日本大震災の犠牲者の鎮魂と被災地の復興を願って、震災発生の年2011年に仙台で1回目が開催されて以来、盛岡、福島、山形と回り、この度の秋田での開催で5回目を迎えました。第1回目の開催の時は仙台におりましたが、翌日の主日礼拝準備が進んでいなかったのでテレビで見ていました。第2~4回もそうでしたが、この度の秋田市開催は会場へ足を運んで見てきました。

 

大震災以来開催されている東北六魂祭。私も大震災以来続けていることが2つあります。その1つは、毎月11日午後2時46分に東北六魂祭同様、犠牲者の鎮魂と被災地復興を願って教会の鐘を1分間鳴らし、そして主教会作成の「東日本大震災のための祈り」、2014年2月以降から「東日本大震災を覚えて」の祈りをお献げしています。これには北海道在住の親友がその時間帯に共に祈ってくれていることが大きな励ましになっています。彼には大船渡で家業を継ぐ大学時代の友人がおり、その友人の方は直接的な被害はなかったものの、震災以降それまでの生活がガラッと変わり、苦しい状況の中にいるそうで、その方の復興をも願いながら付き合ってくれています。毎月11日の前日または当日に「鐘に合わせて祈るよ」とメールを送ってくれます。彼の後押しが打鐘と祈りを私に続けさせているのだと思います。

 

もう1つは、20数年続けている私的な「日誌」の当該日の日付の上に、その日が大震災から何日目であるかを記しています。震災発生から4年3カ月を迎えた去る6月11日は1,553日目に当たる日でした。時々震災発生の日に書いたことを読み返すことがあります。読み返しながら当日以降を思い出してみたりしますが、記憶があやふやなことも多々あります。書いてあることが思い出せないのです。これは風化でしょうか。

 

毎月11日に打鐘と祈りを献げている、と先ほど書きましたが、実を言うと忘れてしまったこともしばしばありました。外出していた時もありました。その日の昼頃までは覚えていても、別なことをしているうちに忘れてしまったことも少なからずありました。ド忘れなのか、それとも「風化」なのかわかりませんが、記憶がだんだん薄れてきていることは確かかもしれません。

 

あけぼの8月号1ページ写真

松丘聖ミカエル教会

そんな中で、先日あるテレビ番組を見ました。ハンセン病問題を特集していた番組で、進行役が実際に「多磨全生園」を訪ね、そこに70年暮らしている方のお話しも放送されました。全国のハンセン病元患者の皆様の願いは「自分たちの存在を知って欲しい」、ということです。この言葉を聞き、私たちの東北教区にもハンセン病で苦しんでこられた方々がいらっしゃることを「改めて」思い起こされました。ここにも私の中に風化が進行していることを認めざるを得ない事実があったことを告白致します。

 

「霊性」ということの1つの表れとして、祈りの項目(代祷項目)をどれだけ挙げられるかだ、と学んだことを思い出しています。祈りを通して霊性を深め風化を防ぎたいと思います。教区の皆様も祈りのうちに覚えてくださいますようお願い致します。

 

司祭 アントニオ 影山 博美

「今、ここで、主と共に生きる」2015年7月号

八木司祭イラスト北海道、岩手に次いで、全国で3番目に面積の広い福島県。その広さがもたらしてくれる楽しみの一つに、桜の満開を長く楽しめることがあります。面積の広さに加えて、盆地である福島市は同じ市内でも土地の高低差があり、場所によって桜の満開時季も異なり、したがって、市街地では散り始めていても、少し車を山間部に走らせると、まだまだ満開ということがあるのです。もう桜の季節は終わったと思っていたのに、この辺りの桜は今が見頃なんだ!などという発見があると、うれしい気分になります。今年は、行く先々で満開の桜を見つけるのが楽しみになっていました。

 

ある日、この日もお訪ねした信徒宅の近くの土手で満開の桜を見つけてしばし鑑賞した後、帰路につくと、今度は、風に煽られて勢いよく散っていく桜の木に出会いました。文字通りの桜吹雪です。みるみるうちに近くの川面が桜色に染まっていきます。それはそれは美しい光景でした。そしてあらためて思わされたのです。私たちは桜を、花が咲き誇っているときだけ愛でてきたのではないことを。

 

私たちは古来、花びらの舞う光景を“桜吹雪”と呼び、その散った花びらが水面に浮かび流れるのを筏に見立て“花筏”と呼びました。さらに花が散ってしまった桜の木を“葉桜”と呼び、新緑の香りと美しさを愛でました。散りゆく花びらをいつまでも惜しむのではなく、その移ろいを受け入れ、その一瞬一瞬に楽しみを見出してきたのです。それを仮に「受容力」と名付けるなら、桜の木の移ろいのみならず、どんな状況にあっても、それを包み込み、受け入れ、幸せを見出してきた私たちは、そもそも「受容力」の備わった生き物なのかも知れない、そんなことを思いました。

 

しかし、いつの頃からか、社会には「善悪」「損得」「幸、不幸」「勝ち組、負け組」など多くの二元論が溢れるようになり、今や現代人は相対評価で物事を判断することに慣らされてしまったといえるかも知れません。でも、この世の中が本当に二元論で割り切れるなら、桜の木の折々の状況を受け容れ、愛でることなどできないはず…そう思うのですが如何でしょうか。

 

弟子たちの主イエスとの一度目の別れ、すなわち受難の前、彼らは、十字架に架けられることなどあってはならないと師をいさめ、さらには師を知らないと拒み、家の戸に鍵をかけていました。そんな弱々しい弟子たちが、二度目の別れ、すなわち主の昇天の際には、「大喜びでエルサレムに帰った」とルカ福音書は記しています(24:52)。弱かった弟子たちが、今度は主との別れを悲しむのではなく喜び、その後も幾多の困難を乗り越えていく力強い宣教者に変えられたのです。この間にあった出来事は主の復活です。彼らは主の復活によって、人間が本来備え持つ「受容力」を呼び覚まされ、強められたのではないでしょうか。

 

今に生きる私たちも、同じ主の復活を信じて生きる者です。そして、桜の移ろいをどんな時季にも楽しめる「受容力」も与えられています。そうであるならば、課題を数え上げ、自らを取り巻く困難さを声高に主張して、それらすべてを解決しなければ幸せにはなれないと思い込んでうずくまるよりも、今、ここで、主が共におられることに幸せを感じられる一人ひとりでありたいと思います。

 

被災地にある教区、教会として、聖霊の導きを祈り求めつつ。

 

司祭 ヨハネ 八木  正言