教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

「いつまで?」 2018年5月号

今年も3月11日を迎え、東日本大震災から7年目の時を迎えました。こういう振り返りの文章を書いていると、つい決まり文句のような「早いもので」という言葉を使ってしまいそうになりますが、「私の中では、時は止まったままです」「どれだけ時間が経とうが私には関係ない」という被災された方々の声を聴くと、私などが軽々に使ってはいけない言葉だなと思わされています。「ああ、もうそんなに時間が経ったのか」という思いは、やはり外側から見た思いだからなのでしょう。そして「この言葉は使うべきではない」という私の思いは、後ろめたさから来ているものかもしれません。忘れてはいません。決して忘れているわけではないのです。しかし・・・

 

 

震災の当初から支援活動の手伝いをさせていただき、「いっしょに歩こう!プロジェクト」「だいじに・東北」の働きの中で4年間関わらせていただきました。近所の方からも「今日も仙台(支援活動)かい。ご苦労さんだねー」と声をかけていただきました。

 

 

そんなある日、見知らぬ男性が山形の教会を訪ねてこられ、どこで知られたのか「教会でも支援活動をされているそうですね。私の友人も石巻の津波で死んでしまいました。どうかお祈りしてください」と涙ながらに言われました。直接の被害は少なかった山形県ですが、人と人の繋がりの中で、こんな悲しみがここにもあることを知らされました。その悲しみは癒されることはあっても、決して消え去ることはないのでしょう。こんな思いも教会は忘れてはいけないのだと思います。

 

 

それと対極をなすような言葉が聞かれ始めたのは、震災後3、4年目くらいからだったと記憶しています。「東北教区はいつまで支援活動をするの?」悪気ではないのでしょう。遠くから見ていると「もう良いのじゃない」と見えるのかもしれません。「ほかでも災害が起きているし、そっちも大事じゃない?」それもわかります。無関心でいてはいけないことです。でも、私たちの身近に悲しみ、傷ついている人たちがいるのです。少し意地悪とも思えてしまう問いかけに、不甲斐ない私は答えに詰まります。しかし人のことは言えません。私自身も遠くの悲しい出来事には、当初は涙することはあっても、ごめんなさい。いつの間にか忘れてしまっています。だからこそ東日本大震災のことは、東北にある教会、そして私は忘れてはいけないのです。

 

 

「いつまで?」に答えはありません。「終戦記念日」はすべての戦争犠牲者を覚え、永遠の平和を願う日であり「次の戦争が起こるまで」などという怖い期限はついていないでしょう。それとは違い自然災害はまたいつの日か私たちに襲い掛かってくるのでしょう。残念ながら今の私たちにはそれを完全に防ぐ手段はありません。しかし、自然の脅威に抗い、少しでも犠牲者を出さないように、少しでも悲しみに暮れる人を出さないようにと「これより先に家を建ててはならない」「津波はここまで到達した」と石に刻み、後世に伝えようとした先人がいたように、たとえ大災害を経験した人たちがいなくなっても、教会も生きている石碑として東日本大震災という出来事を語り継ぐ存在となることを願っています。なぜならば聖霊の導きの中で「語り継ぐ」人たちがいたからこそ、私たちはイエスという方と出会うことができるからです。遣わされた場所で何を語り継ぐか、それも教会の使命なのです。

 

司祭 ステパノ 涌井 康福

「神の恵みへの応答」  2018年2月号

5歳の時、先天性心室中隔欠損で心臓手術を経験しました。この心臓手術で肋骨を縦半分に切ったのですが、8歳の時、これを留めるために巻いていた針金を除去する手術をしました(現在は外科技術も進歩し、そのような“荒っぽい”手段はとらないようです)。26歳の時には当時在籍していた聖公会神学院の学生寮の階段で転落、頭蓋骨骨折急性硬膜外血腫で入院しました。思えば何度も入院を経験し、家族を含め周りの人たちに多くの心配をかけてしまったことを思わされます。

 

しかし、度重なる入院経験で糧となったこともあります。病室にいる人は居留守が使えないという事実を知ったことです。気分が落ち込んで、誰にも会いたくないと思うことは入院患者とて同じです。しかし病室にいれば逃げも隠れもできません。来る者拒まず応対しなければならないのです。ましてや相手が牧師である場合、病床で祈りが捧げられ、「早く良くなってください」と告げられて牧師が病室を出て行った後、「やっと帰ってくれた」と思うことも失礼ながらありました。病める人のために祈りを捧げることができたと満足感を覚えるのは牧師だけで訪問された側はホッと胸を撫で下ろしている、そんなことがあるかも知れない…。自身が牧師になった今、病床訪問の際に常に思い出す経験です。

 

病気や怪我はある意味でアクシデントですが、それ以外にも、これまでの人生で自ら招いた、あるいは不慮の出来事によって何度も挫折経験をしてきました。その度に「どうして自分がこんな目に遭うんだ」「なぜこんなに苦しまねばならないのだ」と神に叫びました。その時々は二度と起ち上がることはできないと感じもしましたが、そうした挫折経験も入院経験と同じように、マイナスで終わることはありませんでした。あの経験があったから今がある、そう思える自分がいます。だからこそ「すべてのことが相働いて益となる」というみ言葉が座右の銘でもあります。

 

イスラエルの民と神が関係を結ぶに際して、モーセもその後継者ヨシュアも、神が民に行われた恵みを思い起こさせ、その上で誰に仕えるかを選べと迫ります。そこには、その時は挫折経験だと思えたことであっても、そこに神の導きがあったから今があるということを想起させ、その導きに応えるために自らできることを神に対して捧げ出すのがあなたがたの責任ではないかという論理があります。

 

どうも「すべてのことが相働いて益となる」には時間が必要なようです。だからこそ教会は「待つ」ことを大事にしてきたのだとも思います。しかしこの「待つ」時間は、ただ「座して待つ」「静観する」だけの時間ではないと思うのです。人間的には挫折と思えることでも、それを通して命を育む存在があることを想起し、自分には何ができるかを考え捧げ出していく時間であるように思うのです。そしてそれは、財政逼迫や人的問題など課題を抱える教区にあっても同じではないかと思いますが如何でしょうか。

 

「主は命を 与えませり
主は血しおを 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ 何をなして
主にむくいし」
(聖歌第506番第1節)

司祭 ヨハネ 八木 正言

「わたしの反省 ―新主教と東北教区の皆様へ―」  2017年12月号

 

「わたしの反省」等と書きだすと小学生の反省文のようです。「わたしの反省」、それは〈もっと遊べばよかった〉ということです。何を不真面目なことをと思われるでしょうか。しかし実は意外と真面目な反省なのです。

 

 

東日本大震災の発生に際して、わたしは本当にしまったと思いました。わたしはその時までほとんどの太平洋岸の被災地に行ったことがなかったのです。仙台近郊の閖上も荒浜も。志津川も、気仙沼や石巻さえ。

教会がないからです。わたしは大震災までの7、8年間、教会とホテルと執務室、主教館の間だけを飛び回わり、それ以外の土地を訪ねる〈遊びに行く〉余裕をもっていなかったということになります。時間的にというよりは心のゆとりの無さでしょう。南三陸の美味しい魚を食べに行きたいねと家族で話しても、実際に行くことはありませんでした。釜石はもちろん度々行きましたが、それでも教会と園を訪ねるだけで、その近くの土地、激甚な被災地となった鵜住居や大槌を訪ねたことはなかったのです。

そのことが被災者支援の働きにどう影響したか、やはり土地勘がない、その地域の震災前の生き生きとした姿を知らない。その点では他教区から来られた支援の方たちと同じでした。案内なんか出来るわけがありません。その反省から、わたしは他教区から主教として来られる方には、まずよく遊んで、その土地の景色を眺め、美味しい物を召し上がってくださいと申し上げようと思っていました。

 

 

自分の奉職する教区を好きになること、それはやはり大切で良いことだと思います。「好き・嫌い」というよりも、やはり様々な面での風土・気候の違い、地域ごとに異なる多彩なお人柄。

教区主教就任当初は、管区の仕事等、東京に行く時は嬉々として行っていたわたしが、むしろ帰りの新幹線で白河を超え、東北の地に戻ってくるとホッとするようになり、都会の夜のネオンの方が似合うと思っていた自分が、車窓から見える景色、山々や広がる田園風景を美しいと思うようになったのは、自分でも意外なことでした。

もちろん厳しい季節もあり、また過酷な歴史や経験を重ねてきた地でもあることを含めてのことですが。

 

 

主教被選者となられた吉田雅人師は、ウイリアムス神学館館長として神学教育を担われ、また礼拝委員長、祈祷書改正委員長という、日本聖公会の要職を担ってこられました。そういう方を主教として選び出した東北教区には責任があります。

今後、新主教がどのようなお働き方をされるかはわたしが言及すべき事柄ではありません。しかし普通に考えれば、大変お忙しくなることが想像されます。

だからこそ気をつけて遊んでくださいと。

周囲の皆様も、新主教がゆとりをもって東北を楽しみ、愛情を深めていって下さるように、何よりご健康を保たれるようにご配慮くださいねと、多少無理を承知で申し上げたいと思います。

 

 

新主教と東北教区のすべての皆様が、共に祈り、共に働き、共に語り合い、神様の恵みをますます豊かに分かち合ってくださいますように、心からお祈りいたします。

 

主教 ヨハネ 加藤博道

 

 

 

 

「タオ=道=ホドス」2017年11月号

還暦を迎える8月、中学同期会が催されて祝いました。成人式以来40年ぶりの再会で、何か気恥ずかしい心持ちも働いて、十分に会話を楽しむどころではなかった次第でした。

 

恩師は86歳の男先生一人だけの出席でしたが、先生は「長生久視」の文字を書にし、コピーして全員に配られました。祝辞の中で「今、社会で中心的に働いている皆さん、これからが長い人生です。80、100歳と長命で活躍してほしい」と驚きのお言葉が述べられました。

 

間もなく、高齢者の仲間入りをする私たちに向かって、長寿でいろよと、先生らしく発破を掛けて応援されたのだと、ここはお元気な見本的な方の温かなお気持ちを感謝して受け止めました。

 

「長生久視」は、老子の論語59章にある言葉です。老子はおよそ2500年前、中国古代を代表する偉大な思想家で「道(中国語でタオ)」を説かれた方です。老子「道徳経」(道=タオ、と徳=テーを説き、いわゆる「どうとく」ではない)の中にあるくだりを、加島祥造著「タオー老子」から現代語訳された、第50章の文章を引用します。人は生まれて、生き、死んで、去ってゆく。

 

30の年までは柔らかで若くて生命の仲間だといえる。60をすぎてからの30年は こわばって老いて 死に近づいてゆく。このふたつの30の間の壮年期の30年は、まあ、しきりに動きまわって、どんどん 固いものに近づいてゆく期間だよ。

どうしてこんなサイクルになるかって? それはね、ひとが 生きるための競争に こだわりすぎるからだよ。

 

私の残りこれからは、こわばって老いて死に近づいてゆく訳です。しかしです、私は何としてもこわばらずに老いたいのです。

 

その答はこう。

なにを失い、なにを亡くすかだって? 静けさと平和さ。このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。人になにかを求めないで、これでまあ充分だと思う人は、ゆったり世の中を眺めて、自分の人生を長く保ってゆけるのさ。(44章)

 

まあ充分かなの余裕、ゆったりの心境を保って人生を長く生きたいものです。

「わたしは道(ギリシャ語で『ホドス』)である」とご自身を証すイエスさま。道路である俺を踏みつけて歩け、ということではないでしょう。道はどこかへと通じており、その行き着く先が見据えられている筈です。それはパラダイスです。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ伝23章)と、イエスさまの十字架の左手に磔にされた犯罪人に語りかけられた言葉は、ほんとうの幸せを、私たちに強烈に教えてくれるものです。

 

イエスさまは、私たちが幸せに生きるにはどう歩んだらよいのかを分からせてくださる方です。幸せへの道しるべ、また幸せへの導き(=道引き)手です。幸せになるための要素は、すなわち、いのちを大事にすること、あなたを大事にすることです。それが自分のいのちも大事にされることにもなります。それ故、イエスさまには神の愛と慈しみ、恵みが満ちみちておられる方であると知るのです。

私は、何から何までも主にお任せした、おっとり老人にしぼんでいければなあ、と思う昨今なのです。

 

司祭 フランシス 長谷川 清純

あけぼの巻頭言11月号

 

 

「俺たちは憧れられているんだ」2017年10月号


 

皆さんは「メイク・ア・ウィッシュ」という団体をご存知でしょうか。難病に苦しむ子どもたちが持つ夢の実現の手伝いをすることを目的としている、アメリカで始まったボランティア団体で、日本でも活動しています。

 

その活動の始まりは、クリスという白血病と戦っている7歳の少年の夢の実現でした。クリスの夢は「白バイ警官」になることでした。この話を聞いたある警察官が動きました。どうにかしてクリスの夢をかなえてあげたいと思ったその警官は仲間を募り、上層部に相談します。そして上層部もクリスの夢の実現のために動きました。彼のために新品の制服装備一式を用意し、「名誉警察官」に任命しました。その上、クリスにミニバイクをプレゼントし、実際にパトロールや取り締まり業務にも当たってもらったそうです。クリスは夢のような時間を過ごし、夢がかなった5日後に亡くなりました。警察官たちは殉職警官と同様の栄誉礼でクリスを送ったそうです。

 

大変感動的な話しですが、警官たちがクリスの夢を叶えるために組織を上げて揺り動かされた一つの言葉があります。それはクリスの話を聞き、何とか夢をかなえてあげたいと考えた一人の警官の、仲間や上層部への「俺たちは憧れられているんだ!」との訴えでした。なかなか言える言葉ではありませんが、警官たちの誇り高さを感じさせられる言葉です。

 

自分が子どもの頃に憧れていたものを振り返ってみると、プロ野球選手、鉄道の運転士、バスの運転手、森林警備隊員(カナダの少年ドラマを見て)等々、色々ありました。今となればどれも最早無理ですが、ふと、当時の憧れが過ることもあります。そして今、私は何とか教役者として生かされています。私が教役者の道を歩もうと思ったきっかけ、所謂「召命感」は何だったのだろう?ということを改めて振り返ると、子どもの頃とは違う「憧れ」というものがあったように思います。私は教会の環境で育った訳ではなく、途中から、俗に言う「突然変異」で教会へ通うようになりました。教会へ行くたびに「司祭」という方の存在が不思議でなりませんでした。決して「お暇」ということではなかったかと思いますが、高校〜大学を通して向き合って頂きました。このことが不肖私を教役者の道へ導いたことは間違いないことです。その思いの大部分は「憧れ」だったのだと思います。

 

私たち東北教区はこの度の主教選挙に向けて教役者会や教役者・信徒が共に話し合う時を共有しました。「牧会的・霊的リーダー」としての主教を望み、何方が選出されても支えることで一致しましたが、「人を育てる」主教さんであって欲しい、という望みが託されたと思います。東北教区は教役者も信徒も少ない状況の中にあります。特に教役者数は危機的状況かもしれません。「人を育てる」の中には教役者の養成が勿論含まれているでしょう。その教役者養成には教区聖職養成訓練委員会を中心に検討されています。具体策として何かある訳ではありませんが、ただ、私たち教役者が多くの人に、特に子どもたち、若い人たちに「憧れられる」者としての意識、誇りを更に持つことが大事だと思います。自戒を込めてその思いを書かせて頂きました。

 

 

司祭 アントニオ 影山 博美

あけぼの巻頭言10月号

 

 

「東北教区管理主教として」2017年9月号

東北教区の聖職・信徒の皆さまに主の平和がありますように。

 

 

ここ数年、よく同じような夢を見ます。もう礼拝が始まる時間なのに、いくら探しても式服が見つからない! 礼拝堂ではもう聖歌が始まっているのに・・・。説教壇の前に立つと、その日必要な大事な原稿がどうしても見当たらない・・・などと。何かに追いたてられて自分ではどうしようもない状況に立たされている場面。妻に助けを求めるのに、それが全く通じなくてさらに苛立ちを覚えている・・・、そんな中で汗ばみながら目が覚めるのです。あぁ、夢で良かった・・・。

 

忙しいという字は心を亡ぼすという意味があるそうですが、確かに平安とは程遠い状況に自分を追い込んでしまっていることに気が付くことがあります。自分の計画通りに人生は進みません。どんなに緻密に計画を立て、余裕をもっていても、思いもよらぬことが起きます。その中で私たちはジタバタしながら、それでも、ある時は回りの人に助けられ、ある時はどん底に落ちながらも這い上がり、様々な経験を経てまたなんとか起き上がって歩みを続けるのです。

 

加藤博道主教さまの14年間にわたるお働きの中、東日本大震災という想定外の大惨事に遭われて、聖職・信徒の方たちと共に、どれほど大きな苦しみを負いながら、この6年間を復興に費やされたことでしょうか。被災地である東北教区の主教としての重責は計り知れないものがあったと想像します。私たちは隣りの北海道教区にありながら何もできませんが、この6月末まで、いくつかの教会では聖餐式の代祷の中で主教のために祈る際、「主教ヨハネ加藤博道」のお名前も挙げてずっと祈り続けてきました。
今回、加藤主教さまの教区主教退任に際し、東北教区の管理主教としての任を仰せつかり、私にとっても予期せぬ状況に置かれましたが、東北教区が新たな教区主教を戴いて出発をするまでのつなぎの役として、忙しさを理由に心を亡ぼすことなく、神様からの力と聖職・信徒の皆さまからのお祈りとお助けをいただきながら、誠実に務め上げたいと願っております。

 

東北教区というお隣りの教区に伺うことによって、私自身にも違う視点が与えられ、別の面から北海道教区を見直す機会となることも期待しています。先日、北海道教区の函館聖ヨハネ教会と今金インマヌエル教会との合同礼拝に、東北教区の信徒さんが2名お見えになり、楽しい交わりをさらに豊かにしてくださいました。教区を超えて交わりがあることは大へん喜ばしいことです。新しい発見があり、自分自身の信仰に違う風が吹き込みます。

 

どのような状況にあっても、私たちは決して神様から見捨てられることはありません。ゆえに、今まで信じて続けてきたことを、これからも日々変わらず続けていくことを大事にしたいと思うのです。小さな奇跡、よみがえりの奇跡は、大へんな状況の中でこそ、ひっそりと、でも確実に起こっているのです。日々キリストの死に与り、キリストの復活を身に帯びて、私たちは歩みを共にしたいと思います。
主の御守りの中、豊かなお導きと祝福が皆様の上にありますように。

 

 

東北教区管理主教(北海道教区主教)

主教 ナタナエル 植松 誠

教区報「あけぼの」巻頭言9月号

「祝福されている私たち」2017年8月号

「主教は次の言葉を用いて会衆を祝福する。」と、聖餐式の最後の祝福の祈りの前に小さく記されているのを皆さんは意識されたことがあるでしょうか。

 

昨年2016年10月に東北教区と親しき交わりにあります米国聖公会ルイジアナ教区主教モーリス・K・トンプソンJr.師父が東北教区を訪問されました。トンプソン主教は限られた滞在期間の中でありながらも仙台基督教会でのメッセージ、講演、そして東日本大震災の被災地も訪問されました。そして10月16日の主日は、八戸聖ルカ教秋宣教120周年記念礼拝にご臨席頂きました。トンプソン主教は、聖餐式の陪餐の時に未信徒の方やまだ堅信を受けていない信徒一人一人の頭に手を置いて祝福をしてくださいました。記念礼拝の後の祝賀会のご挨拶で「今日の礼拝では主教職にとって最も大切なご奉仕をさせて頂く恵みが与えられ感謝します」と述べられました。私は大変印象的なお言葉として心に残りました。また、今年6月11日には加藤博道主教が八戸聖ルカ教会を教区主教として最後の巡回で、聖餐式の司式と説教をしてくださいました。

 

そして加藤主教も陪餐の時に子どもたちや未信徒の方々に祝福をしてくださいました。

 

私は両主教が「祝福」をしているお姿にとても感激をしました。礼拝の中における「祝福」という行為は、イエス様からの私たちへの大きな恵みであると心から実感いたしました。皆さんも思い浮かべてください。礼拝や諸行事、会議等で教区主教が臨席されている時は会の最後は主教様の祝福の祈りによって終わることが多いと思います。

 

主教の祝福に関してのエピソードをいくつか紹介します。

 

ある主教様は息子さんからの電話があると必ず電話の最後に祝福をしてくださったそうです。またある主教様はご高齢で体のお具合が悪く療養されながら礼拝に出席をされていましたが、祝福の祈りをされる時は、大変力強く張りのあるお声で会衆を祝福されました。またある主教様は病床にあっても看病する家族にベッドから祝福をして下さったというお話しも伺ったことがあります。

 

主イエス様は復活された後、天に昇られる時に手を上げて祝福されました。そしてこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)

 

祝福の祈りを頂くごとに私たちは主の祝福の内に生かされていることを思い出したいと思うのです。喜びの時や嬉しい時だけではなく、むしろ悲しみや辛いとき助けて欲しいときこそ「大丈夫、私があなたと共にいる」という確信を私たちは祝福を頂く事によって得ることが出来るのです。

 

東北教区が抱える様々な課題、そして皆さんお一人お一人の思いは様々だと思います。しかし、どんな状況であったとしても私たちは祝福され続けていることを覚えましょう。

 

そして、わたしたちに主の祝福を祈り、私たちの教区を導いてご一緒に共働してくださる次期東北教区主教を選出することが出来ますように、祈り行動して参りましょう。

司祭 ステパノ 越山 哲也

「日々の中に・・・・」2017年7月号

朝玄関で「おはようございます!」と声をかけ、小さな声で「おはようございます」と答える子と握手する。午後は卒園児が「ただいま!」と幼稚園にやって来て、「お帰り!」と迎える。これがセントポール幼稚園の毎日で、笑顔溢れる毎日です。

 

朝、礼拝堂でのお祈り後、教会の周りを散歩。沢山の出会い――犬を連れて散歩されている方、歩行の訓練をされている方、ごみ収集所でほうきをもって立っている方、お庭のお花にお水をかけている方、学校へと急ぐ学生たち――声をかけ、声をかけられながら。

 

最近は近くのコンビニの方々から、「今日も早いね、行ってらっしゃい!」と声をかけられる様になりました。秋田出身と伝えたら、「秋田名物八森はたはた~」とレジの前で秋田音頭を歌ってくれました。また、文の最後に「~ばい」を付ける郡山弁を教えて頂いた。「今日は寒いばい!」と慣れない言葉で伝えた時の相手の笑顔が心に残ります。寒い日には「持ってって!」とあったかいコーヒーを渡され、その温もりに「せば、まんず!」と秋田弁で照れ隠しをする自分がいます。

 

これが日常、郡山での毎日です。日の光を浴び、風を感じ、道端の花を愛でるように、わたしにとっては尊く、何ものにもかえがたい宝物です。

 

ただ、ただ、毎日を生きる。日々の生活をし、交わり、季節を感じ、それを愛で、感謝し、生きている、いいえ、生かされている。

 

わたしは、言葉に言い表せない思いで溢れています。心からの感謝と共に、その毎日を笑顔と一緒に大切に歩んでゆきたいと願います。

 

人は歩みの中で、足りないことや出来ないことを気にしがちです。でも、じっくりとゆっくり見渡せば、既に与えられている恵みが沢山あると思うのです。

 

自分にないものを考えたらきりがありません。でも、与えられていることに思いを巡らし、感謝し、それから学ぶことの尊さを思います。

 

わたしがここ、郡山に来た時は緊張・戸惑い・不安で一杯でした。でも、「そのままでいいからね。いてくれるだけでいいんです。」という言葉、体調を崩した自分にご飯を届けてくれた、命の尊さをご自身の想いを短い言葉で伝え励ましてくれた、その一つひとつの温もりが自分に新たな歩みを始めるきっかけをくれました。

 

私は神様のみ前にいること、教会にいること、そして自分の首にカラーを付けることにおそれを感じます。自分を律し、願い求め、神様の御前に清くありたいと思いながらも、これほど破れがある自分が許せない・・・。それを「そのままで」という言葉が、沢山の想いが、祈りが、そして笑顔が自分を救い、支えてくれています。

 

多分、聖書の中のみ言葉から皆様にお伝えすることが今回の私に求められていることでしょう。でも、わたしは日々の生活の中に、毎日の営みの中、その只中に、み言葉、そして日々の出会いの中に“主”を感じていることをお伝えしたいと思います。

 

また明日、礼拝堂でお祈りをお捧げします。教会の周りを散歩します。あのご婦人に会えるかな? あのワンちゃんは元気かな? あのほうきを持って立っているおじさんはいるのでしょうか? 今日は、あの子は泣かないかな? 幼稚園の先生たちは元気かな? 教会に集う皆さんは元気かな? 日曜日のお話し、全身全霊をかけて取り組みます。いつものコンビニでの笑顔と会話、全部楽しみです。

 

すべてに感謝します、心から。

 

主に感謝。

 

執事 アタナシウス 佐々木 康一郎

「十字架の道と断食のこと」2017年6月号

今年も聖金曜日の正午から、「十字架の道行」の祈りを行ないました。イエス様が十字架を背負って歩かれた道での出来事は、長い歴史の中で伝説が生まれ、脚色されたものが多々あるのですが、黙想のために用意されたテキストがよく出来ています。一つ一つの言葉が、深い洞察に導かれていて、魂を洗われる思いがします。

 

エルサレムに行きますと城壁に囲まれた旧市街(Old city)があります。その旧市街の中にヴィア・ドロローサVia Dolorosa(ラテン語:悲しみの道)とかヴィア・クルキス(Via crucis 十字架の道)と呼ばれる道があります。北東側のイスラム教徒が住んでいるライオン門付近から、ゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会まで、道筋の14か所には留(ステーションstation)があります。いわく〈ピラトに裁かれた場所〉〈鞭打たれ十字架を背負った場所〉〈クレネのシモンに助けられた場所〉等々と、エピソードを伝えています。

 

エルサレムは石で出来ていますから、家を建てるときには、崩れた石の上に建てます。時代が過ぎるとまたその石の上に家が建てられますから、実際にイエス様が歩かれた道ははるか地下にあり、発掘されています。現代の道は実際に歩かれた道とはまったく違うのですが、巡礼で訪れる人々が十字架を背負って祈りながら歩いています。

 

エルサレムの神学校に行った際、コースの終わる頃「考古学的には根拠は無いけれど、私たちも十字架を背負って歩いてみよう!」と先生に言われ、歩いたのですが、何とも言えない複雑な気持ちを味わいました。皆が見ている中で十字架を背負って歩くのは、勇気がいるものです。気恥ずかしくて、決して単に肉体の痛みだけではなかったんだと気付かされました。

エルサレムまで行くのは難しいので、このような十字架の道が教会や修道院の境内に造られています。郷里の山梨県の清里聖アンデレ教会から清里聖ルカ診療所まで十字架の道があって、各留毎に小さな聖像が飾られていました。

 

東北教区の中にも、どこかにこのような十字架の道があったらいいのにと思います。

 

さて、聖金曜日は断食日ですから空腹に耐えながら、イエス様の苦しみとはまるで違うけれど、わずかばかり体でも十字架の苦しみに思いを寄せることができ感謝です。

 

英語で朝食をbreakfastと言い、その語源は「断食(fast)を破る(break)」というのです。断食明けの朝に胃の負担を考えて、お粥をいただくとき、何千年も続く諸先達の慣れ親しんだこの習慣に、私もつながっていることをしみじみ思います。

 

何の道具もいらない場所も選ばない、こんな簡単な方法の効果が絶大であることを、先人は身を持って体験したのでしょう。断食の時を過ごす度に、私たちが何のために生きているのかを考えさせられ、大事なものを見失わないように教えてくれます。

 

日本ではまだあまり知られていませんが、断食の健康への効果もいろいろな場面で語られています。絶食療法を科学的に検証した「絶食療法の科学」というフランスで製作された番組が、日本でもテレビで紹介されました。医師の指導の下でこの療法を用いることにより、実際に効果がある症例もあるようです。

 

司祭 フランシス 中山 茂

「安心しなさい」2017年5月号

マタイによる福音書14章24節に「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」と書かれています。しかし、弟子たちは、このような苦難の中から再び主の新しい姿を眺めることができる栄光に与るようになります。その栄光とは、苦難の中で主に出会うことです。

 

私たちの人生の道には苦難があります。たとえその道が、主が喜ばれる道であり、主が命じられた道であっても苦難が伴います。それゆえに、イエスは、「あなたは、世界の中で苦難にあっても勇気を出しなさい」と言われたのです。しかし、主は、私たちの苦難を無視していないし、苦難の中で、私たちと一緒におられます。その苦難の中で、私たちを救ってくださいます。

 

パン5つと魚2匹の奇跡が起きると、多くの群衆は確かにこの人こそ、自分たちが望むメシアと言いました。そして、彼らはイエスを自分たちのそばに置いて無理にでも彼らの王にしようしたのです。イエスは、このような彼らの行動から逃れようと、弟子たちに船に乗って、自分よりも先に、湖の向こう側に行くように命じられました。

 

主はどのような場合にも、栄光を取られませんでした。その方は、徹底的に自分を低くし、父を高くしました。イエスは、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:53)としながらも、自ら苦難の杯を飲みました。

 

 
イエスは、問題があるたびに祈りました。主はサタンの誘惑に勝つために祈りました。主は明らかに神でしたが、しかし、人の姿でこの世に来られたので、サタンの誘惑に勝つためには祈りが必要でした。主の命令によって船に乗った、弟子たちは、すでに陸地から遠く離れた湖の中にいました。ところが、突然風が吹き始めました。彼らは風によって多くの苦しみを受けていました。真っ暗な夜中です。夜は霊的な闇の状況を意味します。

 

私たちは、このような霊的な暗闇の力にとらわれないために、主の光を私たちの人生の道に照らす必要があります。「あなたのみ言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩篇119:105)風が吹いてきて、波がおこった。これは、苦難にあう人生を語っています。湖の真ん中で暗に会ったのです。

 

人間の力ではどうしようもない状況に陥り必死な彼らに近づいて主は「安心しなさい」と言われまし。私たちは、どのような苦難にも「安心しなさい」という主の声を聞いて、あわてず、心の平安を求めなければなりません。安心という言葉は、「勇気」を持てという意味です。次に、「恐れることはない」と言われました。この言葉は、「どのような場合にも、主があなたと一緒におられる、勇気を出しなさい 」ということです。

 

今、私たちの教区に最も必要な言葉は、「安心しなさい、私はあなたと一緒にいる」という主の声を聞いて、主と共に行動することです。どんな困難があっても、主は、東北教区と一緒にいらっしゃいます。

 

東北教区の皆さん、主と共に行きましょう!!!

司祭 ドミニコ 李 贊熙

「常識に囚われずに・・・」2016年12月号

聖公会神学院の神学生3年次、夏季実習で3週間、韓国ソウルを訪れることになりました。しかし、出国直前になっても、3週間の実習がどんなプログラムで進行するのか、先方からの連絡はありません。それどころか、そもそも私たち神学生4人が金浦空港に到着したとき、誰かが迎えに来てくれるのかさえわかりません。若干の(かなりの?)不安を抱えつつ成田を飛び立ち、金浦空港に降り立ったとき、迎えに来てくれた方がいたことがどれだけ嬉しかったことか!後日「韓国では親しい友を迎えるとき、前もって予定を伝えるなんてことはしないのさ。なぜって、親が死んだとき以外はどんな予定が入っていても相手につきあうのが親愛の情の証だからね」と教わりました。

 
それだけではありません。食事の時、日本では大皿や鍋から自らの皿に取り分けるのが礼儀ですが、韓国ではそれは「あなたと同じ皿(鍋)からは食べられない」という意思表示なるとのこと。日本ではご飯茶碗は手に持つのが行儀のいい食べ方ですが、韓国ではテーブルに置いたままが普通(持とうと思っても金属製の茶碗は熱くて持てません!)など、日本での常識が韓国ではそうでない経験を幾つもしました。

 
実は、国や文化が変われば常識が非常識になる例は、他にもあることに気づかされます。日本では何かをもらったら「ありがとう」というのが常識ですが、中国では仲が良ければよいほどお礼は言わないのだそうです。お礼を言われたらよそよそしい、自分たちは仲がいいはずじゃなかったのかと。日本人の親は「人に迷惑をかけないように」と教えますが、インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。

 
さて、福音記者ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、神という存在を「言」として表現していますが、これは私たちにとっての常識です。神という存在を「言」としたのは、言葉は一旦人の口から離れると受け手次第、発話者の思い通りに相手に届くとは限らず、自らの思いとは真逆に受けとめられることさえある。すなわち言葉には言霊とも言われるように霊が宿っているのだという当時のギリシアの価値観に着目した福音記者が、神の超越性を伝えるには、神を「言」と表現するのが相応しいと考えたという説を読んだことがあります。しかし、この箇所のごく初期に翻訳された日本語訳は、「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」(ギュツラフ訳)となっています。日本人に神の存在の偉大さを伝えるためには、「カシコイモノ」「ゴクラク」が相応しいのだという発想をそこに見てとることができます。そこには常識には囚われない、しかし神という存在を伝えたい!という情熱を感じられるのではないでしょうか。

 
彼の有名なアインシュタインも「常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである」と言ったそうですが、確かに常識が壁となってヤル気を挫かれたり、容易に諦めたりすることにつながることを思うとき、アインシュタインの言葉は的を射た表現なのかも知れません。%e3%81%82%e3%81%91%e3%81%bc%e3%81%ae%ef%bc%91%ef%bc%92%e6%9c%88%e5%8f%b7%ef%bc%91%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%88

神という根っこにしっかりとつながりつつ、しかしだからこそ、枝は、葉は、大胆に空に向かって伸ばしていける一人ひとりでありたい、そう思います。

 

司祭 ヨハネ 八木 正言

 

「寄り添う心」2016年11月号

先日、ある教会の信徒の方から電話がかかってきた時のことです。私はあいにく留守にしておりましたので妻が電話に出て「今、司祭は刑務所に行っています」と答えますと「どうなさったのですか?、いつ出てくるのですか?」と大変驚かれ、心配をおかけしたという出来事がありました。我が家や盛岡聖公会では「刑務所に行ってきます」という会話が、日常の中に違和感なく存在しており、実はその時、私は宗教教誨師の務めを行なうため盛岡少年刑務所に出かけていたのでした。

 

宗教教誨師とは、「全国の刑務所、拘置所、少年院等の被収容者に対し、各宗教宗派の教義に基づいて、徳性や社会性の涵養を図り、健全な人格の形成に寄与するため、行政・矯正施設からの要請を受け、民間のボランティアとして活動する宗教家」と定義されています。

 

盛岡聖公会への赴任と同時に前任者の後を継ぐ形で、教区主教の推薦をいただき、全国教誨師連盟から認証を受け宗教教誨師の働きを行うこととなりました。具体的には私の場合、月に1度ないしは2度、地域の矯正施設(盛岡少年刑務所、盛岡少年院、盛岡少年鑑別所)に出向き、教室のような場所で、希望者に対し聖書の講読・勉強を1時間ほど授業形式で行なうことが主な活動となっています。宗教教誨を希望する被収容者は、キリスト教の他、仏教、神道、天理教等様々な宗教から選ぶことができ、受講者は、キリスト教の場合多い時で10名ほど、普段は5名ほどとなっています。熱心な方が多く、主の祈りをもって始め、最後に感想を語り合い、また、質疑応答も活発で、聖歌を歌うこともあります。さらに希望によって個人面談が設けられます。先日は少年鑑別所の担当者から収容中の少年による面会希望の連絡を受け、急遽、ギデオン協会の聖書を携えて少年鑑別所に出向くというようなこともありました。

 

盛岡聖公会の宗教教誨活動の歴史は長く、基本的には歴代の教役者がこの務めを受け継いで今日に至っています。昔は青年会や婦人会が慰問に訪れたり、クリスマスには女性の青年たちが訪問してクリスマスキャロルを歌ったという話を聞きますが、セキュリティーの面から現在ではなかなか難しくなりつつあるようです。また、盛岡聖公会では主日礼拝の代祷で教誨活動のためにお祈りいただき、さらに公益財団法人全国教誨師連盟・仙台矯正管区教誨師連盟岩手県教誨師会の後援会に教会と婦人会がそれぞれ団体会員となって加入し、毎年後援会々費という形で支援を続けています。このように教誨活動は教役者一人による働きではなく、教会の業として長きに亘り行われてまいりました。
%ef%bc%91%ef%bc%91%e6%9c%88%e5%8f%b7%ef%bc%91%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%88

 

 

盛岡少年刑務所の運動場に「心はいつもあたらしく」という言葉の刻まれた立派な記念碑が建てられています。この言葉の贈り主は高村光太郎で、太平洋戦争の最中、宮沢賢治の実弟の援助を受けて花巻に疎開し、暫く滞在しました。その際、盛岡の刑務所を訪ねて受刑者に寄り添って励まし、愛情をもって受刑者と向き合われたということです。「実際の罪」を犯した人々は矯正施設に収容され刑として、償ってまいりますが、私たちも「内心の罪」に日々苦しむ罪人です。自分に寄り添う人が必要なように、だれにも寄り添う人が必要だと改めて思い、導きを祈るものです。主イエスの働きの一つである教誨活動のためにもお祈りいただければ幸いです。

 

司祭 ヤコブ 林 国秀