教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2021年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「将来の栄光を見てみましょう」

 

 

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、種と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 3:18)

 

 

神様が喜ばれる人は「信仰の人」です。神様の言葉を疑わず信じて従う人を喜ばれます。神様は私たちに向けた特別な計画を持っておられます。神様の計画は、私たちの考えと期待を超越します。神様は、神様を信じて信頼する人を特別な人、偉大な人、夜空に燦然と新星のように輝く人になるように、計画しておられます。もし私たちが信仰を持たず、過去に何のビジョンも持たず、何も成し遂げられない生活を送った場合、今もそうでしょう。

 

しかし、信仰の人は違います。神様のための神聖なビジョンを持って生活します。したがって、私たちは信仰によって、神様の力を頼りにして義の冠を示し、十字架の栄光を見て行動します。このために私たちがしなければならないことは、神様の意思に完全に服従することです。神の意志に服従する者に、神様は聖霊の力を注いでくださいます。

 

 

皆さんはどのような人生を生きていますか。神様を信じず、信頼しない人生を生きたいですか。イエスの中で皆さんの人生を新たに計画してください。日常生活の中で特別な生活に飛躍してください。イエスを私たちの救い主として受け入れれば、神様は私たちのすべての罪を許してくださいます。そして、神の聖霊をプレゼントとしてくださいます。

 

聖霊は、皆さんの人生を特別な人生、能力を行なう人生、偉大な未来が待っている希望の人生に変えてくれます。私たちは、み言葉と祈りを通して、より一層神様を深く知るようになるとき、神様は私たちに人生を理解する能力をさらに育ててくださいます。そして、私たちの人生の扉を開いてくれます。

 

今日、多くの人々は、イエスの前に来ることに消極的です。私たちは、神の仕事よりも世界の世転びと快適さがより好きです。そして主の前にくることを拒否します。

 

しかし、モーセはイエスが現れる1500年前に、イエスのために苦しむ道を選択しました。モーセは信仰によって犠牲制度を定めています。信仰で過越と血をまく儀式を定めました。これは、イエスがメシアとして来られ、十字架で贖いの儀式を捧げ、私たちを救ってくださることを示す象徴の意味を持ちます。イエスがいらっしゃる1500年前にすでにモーセは信仰によってイエスを信じました。彼は選択しました。イエスのために苦しむことが王宮の栄華を味わうことよりよいと思いました。

 

 

私たちは、イエスの恵みと復活の恵みと聖霊を通して、イエス様が私たちの中に永遠に一緒におられる恵美を享受しています。したがって、私たちもモーセのように、イエスのために、世界の楽しさを放棄し、首都一緒に苦しむ道を選択する必要があります。これが行動する信仰です。皆さんの行動する信仰を示してください。イエスを受け入れ、聖霊を受け、その聖霊が常に私たちの中に豊かに住むことによって、特別な人生、輝かしい未来の栄光を成就して生きていかれることを願います。

 

 

仙台聖フランシス教会 牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕

 

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あけぼの2023年9月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「今更ながら日本の教会とは」

 

 

今年の3月、秋田から福島への転任の準備でバタバタしている時に故郷(長野)に済む妹が急逝しました。いまだに合間を見て何度か往復していますが、様々な手続きのため町に出かけた時、中部教区の上田聖ミカエル教会及び諸天使教会の近くを通りかかりました。こちらは和風建築で知られる奈良基督教会を小さくしたような教会で、祭壇を仏像に変えたらすぐにでも仏寺として使えそうな建物です。奈良の場合は景観条例があったのでしょうが、ここの場合はどのような経緯で和風建築となったのか、今更ながら興味をそそられました。きっと何か深い理由があったのではないかと思います。「日本の教会なんだから和風で」という単純なものではないのでしょうが、「日本の教会」という視点はとても大事なことなのではないかと思うのです。それはもちろん福音の本質を変えても良いということではありません。神から受けたものをそのまま伝えていくのですが、日本という風土の中でそれをどのような器に入れたら良いのかということなのかな、などと考えますが、小さな私にはなかなか思い切った割くが思い浮かんできません。

 

最近ある方からいただいた文章に明治期に来日した英国聖公会の宣教師の中に、日本の教会に英国型、例えば教区制などのスタイルをそのまま持ち込むことに反対した司祭がいたということが記されていました。しかし結局そうはならず、伝えた側は様々な変革を遂げているにもかかわらず、多分現在に至るまで、私たちはその時に伝えられたものを守り続けていたのかもしれません。日本聖公会では教区制改革が進められていますが、それは単に11もの教区を維持できないことに対する対処ではなく、教会そのものの変革を視点に置いてのことであることを、私たち一人ひとりも心に留めていきたいと思います。私には何ができるのか、私はどう変わることができるのかが、すべての信徒・聖職の課題なのではないでしょうか。そう書くと何か思いものを背負うような感じになってしまいますが、そのほとんどを実は背負ってくださっているイエス様のことをしっかりと見つめることが一番大事ですよね。

 

 

わたしの家はクリスチャンホームではなかったので、洗礼を受けた時に周りからは「なんで西洋の神様を信じるのか」と何度も問われました。そうなんですよね。多くの日本人にとってキリスト教は西洋の宗教であり、イエス様は欧米人の神様なのですね。そういわれるたびに「そうじゃない。聖書の神様は世界の神様だ。イエス様だって西洋人ではない」と反論してきましたが、自覚はしていなかったのかもしれませんが、日本の教会は、そして私も、西洋的なものをアピールしてきたのかもしれません。

 

学校が夏休みに入ったこともあってか、このところ毎日教会見学の方が来られます。多くは旅行者の方で、いまだに朝ドラ(エール)の撮影地の教会を見てみたかったという方が多いです。地元の方も来られますが、キリスト教に関心がある、聖書のことを知りたいという方には、残念ながらまだお会いしていません。食事時にインターホンがピンポーン!と鳴ると、思わず「うわー、勘弁してよ」と本音が出てしまいますが、今日こそは良い出会いがありますようにと、あきらめずに、訪ねてくれることに感謝し、少しうどんが伸びてしまうことを残念に思いながらも、笑顔での対応を心掛けています。

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 涌井 康福

 

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「小名浜に遣わされて」2015年11月号

4月1日より越山健蔵司祭の指導の下、小名浜聖テモテ教会と聖テモテ支援センターの働きに従事して、半年が過ぎようとしています。これまでの多くのスタッフ・ボランティアによって培われた信頼関係を引き継ぎ、原発避難地域からいわき市の応急仮設住宅団地に住まわれている方々との交わりをいただいています。

 
富岡町からの泉玉露仮設・大熊町からの渡辺町昼野仮設の両集会所で、週に2回ずつ「ほっこりカフェ」(下写真)を開催しています。先日は、警察官がカフェに来訪し、大熊町をパトロールした際のビデオを上映してくれました。これは仮設在住の避難者の要望に応えて、未だ高線量で一時帰宅もままならない元の家がどんな風になっているか、画面からだけでも見てもらおうとの活動でした。

 
変わり果てた思い出の我が家を目の当たりにし、「帰りたい…!」と号泣される姿に、私も警察官も涙を禁じえませんでした。ところがレンズが振られたとき、驚きの光景が拡がりました。そこに映ったのは、通常の制服姿で何の放射線防護もしていない(花粉用マスクですら!)20歳代前半の警察官の姿でした。

 
我が家を一目見たいと依頼した方も、孫と同年代の若者が福島第一原発のそばで無防備で立ち歩いている姿に呆然としておられましたが、後悔の念が沸き起こったと後日伺いました。

 
私は脇へ警察官を連れて行き、風邪を引いた振りでもいいからパトロールの際は自分を守るべきだと言いましたが、言葉にしづらい事情があるのでしょう、黙って首を振るだけでした。このように、今も安全神話がはびこり、多くの人の身体と心を傷つけ続けている現実があります。

 
大震災から4年半を経た今、仮設団地は転出のピークを迎えています。いわき市内の造成地を買い求め、自宅を建てることが出来た方が、次々と仮設を後にしていきます。残されているのは、経済的・健康的・年齢的・家族的に余裕がなかったり事情が許さなかったりして、復興公営住宅が建設されるのを待っている方々です。工事は遅々として進まず、更に2年間はプレハブ暮らしを強いられると思います。気が滅入り、部屋に閉じこもってしまわないよう、近隣の気の合う仲間とコーヒーを飲んでほっこりしていただけるならば幸いです。私は時が経つにつれカフェのニーズは減っていくどころか、逆に増していくと考えています。復興公営住宅での孤立の問題も深刻です。

 

女性も男性も和気あいあい

女性も男性も和気あいあい

困難な状況に置かれた方々の背後に、いやその方々の姿に、十字架の主イエスが私には見えます。この困難と悲しみのただ中で既に働いておられる主イエスに従うことが、信仰者のありようだと考えています。福島県から遠くなるほど、生の声はますます届かなくなっているのではないでしょうか。国や原発でまだ儲けたい人たちは、もう終わったことにしたいのでしょうが、そうはいきません。私たち信仰者は、聖餐式に示されるように、繰り返し思い起こし連帯することが得意なはずです。皆様、ぜひ小名浜をお訪ねください。この地を共に巡りながら、私たちに先立って働かれる主といっしょに歩かせていただきたいと願っています。

 

執事 バルナバ 岸本 望

「タオ=道=ホドス」2017年11月号

還暦を迎える8月、中学同期会が催されて祝いました。成人式以来40年ぶりの再会で、何か気恥ずかしい心持ちも働いて、十分に会話を楽しむどころではなかった次第でした。

 

恩師は86歳の男先生一人だけの出席でしたが、先生は「長生久視」の文字を書にし、コピーして全員に配られました。祝辞の中で「今、社会で中心的に働いている皆さん、これからが長い人生です。80、100歳と長命で活躍してほしい」と驚きのお言葉が述べられました。

 

間もなく、高齢者の仲間入りをする私たちに向かって、長寿でいろよと、先生らしく発破を掛けて応援されたのだと、ここはお元気な見本的な方の温かなお気持ちを感謝して受け止めました。

 

「長生久視」は、老子の論語59章にある言葉です。老子はおよそ2500年前、中国古代を代表する偉大な思想家で「道(中国語でタオ)」を説かれた方です。老子「道徳経」(道=タオ、と徳=テーを説き、いわゆる「どうとく」ではない)の中にあるくだりを、加島祥造著「タオー老子」から現代語訳された、第50章の文章を引用します。人は生まれて、生き、死んで、去ってゆく。

 

30の年までは柔らかで若くて生命の仲間だといえる。60をすぎてからの30年は こわばって老いて 死に近づいてゆく。このふたつの30の間の壮年期の30年は、まあ、しきりに動きまわって、どんどん 固いものに近づいてゆく期間だよ。

どうしてこんなサイクルになるかって? それはね、ひとが 生きるための競争に こだわりすぎるからだよ。

 

私の残りこれからは、こわばって老いて死に近づいてゆく訳です。しかしです、私は何としてもこわばらずに老いたいのです。

 

その答はこう。

なにを失い、なにを亡くすかだって? 静けさと平和さ。このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。人になにかを求めないで、これでまあ充分だと思う人は、ゆったり世の中を眺めて、自分の人生を長く保ってゆけるのさ。(44章)

 

まあ充分かなの余裕、ゆったりの心境を保って人生を長く生きたいものです。

「わたしは道(ギリシャ語で『ホドス』)である」とご自身を証すイエスさま。道路である俺を踏みつけて歩け、ということではないでしょう。道はどこかへと通じており、その行き着く先が見据えられている筈です。それはパラダイスです。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ伝23章)と、イエスさまの十字架の左手に磔にされた犯罪人に語りかけられた言葉は、ほんとうの幸せを、私たちに強烈に教えてくれるものです。

 

イエスさまは、私たちが幸せに生きるにはどう歩んだらよいのかを分からせてくださる方です。幸せへの道しるべ、また幸せへの導き(=道引き)手です。幸せになるための要素は、すなわち、いのちを大事にすること、あなたを大事にすることです。それが自分のいのちも大事にされることにもなります。それ故、イエスさまには神の愛と慈しみ、恵みが満ちみちておられる方であると知るのです。

私は、何から何までも主にお任せした、おっとり老人にしぼんでいければなあ、と思う昨今なのです。

 

司祭 フランシス 長谷川 清純

あけぼの巻頭言11月号

 

 

あけぼの2019年10月号

巻頭言「敵意という隔ての壁を取り壊す方=イエス」

 

主の平和が皆さんと共にありますように。

 

 

近頃、私は耳が遠くなって不自由しています。「えっえっ」と聞き返す場面が多くなって迷惑な話です。という訳で、「障害」という言葉を調べますと、「障害」と書くようになったのは1947年制定の当用漢字表からでした。戦前は「障碍=障礙」と表記しました。「碍=礙」の意味は「さしつかえる」で、「何かことを行うときにさしつかえる」ということです。「碍」は「礙」の簡略形で、「人が顧みて立ち止まり、凝視する形」を意味します。人生や社会が進んで行こうとするとき「何か」があり災いをもたらしていますが、その何かの前で人は立ち止まり、じーっと凝視して見る、のが「障碍」の本来の意味です。従って「障碍」には深い考察が内在しており、人にとって大切なものを伝えている漢字なのです。

 

「害」とは、ものごとを傷つける漢字なので、他に対して危害を加えるとなり、「障害」には偏見の目が隠れています。役に立つ・立たない、優勢・劣勢等の見方を生じさせる訳です。簡単に二者に分ける、分裂・分断させるのです。旧優生保護法や、らい予防法は著しき人権侵害、人間の尊厳を踏みにじるもの、差別を助長するものでした。今日ではこれらの法律の誤りが正され、一応反省とお詫びがなされました。

 

私は、「ひかりおもちゃ図書館」でノーマライゼーションやスペシャルオリンピックスに接して喜びを覚えました。仙台基督教会2階で開く、みやぎ青少年トータルサポートセンター主催自己表現コンサートで、青年たちの活き活きした姿に励まされています。7月の参議院選挙で重度の障碍をお持ちの方2名が当選し、早速バリアフリー化が実行され国会に変化を起こしています。

 

 

私たちは、意図せず分断社会に組み込まれてしまっています。ですから、私たちは神の国実現に進もうとしているときに、「さしつかえているのは何か」をじっくりと黙想するのです。その際、わたしたちに与えられているのは「キリストの十字架」です。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊された(エフェソ2:14)」十字架のキリストが、わたしたちに今立ちはだかっている壁の正体を明らかにします。私たちが自身で作り上げてしまっているかもしれない壁の前で、作り上げていること自体の誤りの赦しを乞うとき、和解が始まるでしょう。和解は、十字架を通して確かになされるのですから、そこに私たちの希望もあります。和解の道は決して平坦ではありませんが、キリストによって一つの霊に結び合わされることにおいて、平和へと歩んでいけます(エフェソ2:15~18)。私はそう信じています。

 

 

イエスは、人々と共に食事を取ることにおいて繋がり→救いをもたらしました。あなたが食事に招く人たちは、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たち、弱っている人たち、傷ついている人たち」です。小さい行い、わずかな光かもしれませんが、そこに恵みが確かにあって、そこから分断を乗り越える和解が始まり、平和へ通じるものと信じています。

 

皆さんに神様の御祝福がありますように。アーメン

 

 

司祭 フランシス 長谷川 清純(仙台基督教会牧師)

 

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あけぼの2021年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「マグロの赤字」

 

 

endoそこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:29-30)

 

 

「損をして得取れ」ということわざがあります。一時的には損をしても、将来的に大きな利益となって返ってくるように考えなさい、という意味です。日本中、どこのお寿司屋さんに入っても、必ず置いてあるネタはマグロの赤身です。ネタ切れでない限り、食べられないということはないでしょう。実際に、他のネタが無い場合は仕方ないと受け入れられても、マグロのないお寿司屋さんはあまり想像できないものです。しかし、どのお寿司屋さんでも原価率を考えた場合、売れれば売れるほど赤字になることが多いのもこのマグロであると言われています。お店の顔でもあるマグロはケチな仕入れなどできず、また、多くのお客さんが食べることから、値段も上げにくいのです。結果、お寿司屋さんは赤字のマグロを出し続け、他のネタで利益を生み出していくのです。

 

 

イエスさまの生き方を見ますと、決して器用な生き方をされていないことがわかります。もっとわがままに、損得を意識されて、ご自分のことを優先されたらと思うのですが、むしろ、周りからの批判や迫害を一手に引き受け、挙げ句の果てには、十字架の死をすべての人々のために担われ、一番大きな「命」をも、失われます。しかし、その損失ばかりの地上での歩みには、神様の壮大なご計画である人類の救済という豊かで大きな恵みが結び付けられています。

 

教会にとって、損とはなんでしょうか。教会の財源が減ってしまうようなことを言うのでしょうか。得とはなんでしょうか。教会に人があふれるような事態を言うのでしょうか。損とか得などとそんな世俗的な考えはキリスト教の信仰にそもそもふさわしくないとお考えになられる方も少なくはないと思います。しかし、どこの教会も、教区も現実的な問題として、こうしたことは、無視できない状況にあることは確かです。ただ、損なことにしても得なことにしても、大切なのは、それが神様の御心にかなっているかどうかということなのです。もう少し具体的に言いますと、目先の得に捉われて、10年、20年先の教会の維持を見られていますか、ということです。

 

 

現在、東北教区は十和田湖畔の国立公園にあるヴァイアル山荘の建て替えという大きなプロジェクトを進めています。今、この財政難で先行きの見えない大変な時期に、これは、傍目から見ると、無理をしているとしか思えないようなプロジェクトです。しかし、東北教区は、一見赤字を抱えそうなこのプロジェクトに豊かな、恵みと希望であふれている未来を見ています。

 

時間と力と知恵を注ぎ、常に神様の御心を求め、100年以上も紡がれてきたこの歴史的財産の中に、神様の栄光が現されることを信じて疑わないのです。

 

苦しい今この時だからこそ悲観せず、前向きに将来に目を向け、苦しい逆境の中で10年先とは言わず、100年先のための宣教の種を今、一緒に蒔いてまいりたいと思います。

 

 

八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介

 

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あけぼの2023年10月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「安心しなさい。わたしだ。~主を見つめて」

 

 

この世の組織やご家庭、個人の人生はしばしば船や船旅にたとえられます。船は力を合わせ、同じ方を向いて漕ぐと前へ前へと進みます。そうしないと船はやがて沈んでしまいます。教会もまぎれもなくこの世をひたすら進む救いの箱舟です。目的地は「天の国」に他なりません。そして今その船に「漕ぎ悩む」という状況が起こっています。教役者と信徒、そして教会に連なる全ての人々がともに「今できることをしましょう」と力を合わせ、一生懸に命漕ぎ続けていますが中々進みません。教会はいつの時代も思い悩んで進み、それが教会の宿命なのかとさえ感じるのですが、この状況は主イエスと実際に歩んだ弟子たちも経験したことだと気づきます。それはマタイによる福音書の14章22節以下の「湖の上を歩く」主イエスの話に見られます。

 

この話は当時の教会の姿が重ねられていると解釈されています。ガリラヤ湖に漕ぎ出した舟は、誕生したての教会を表し、主は「強いて」弟子たちを舟に乗せ、自分は舟に乗らず彼らを先に行かせました。このことは、弟子たちがそれまで主とずっと一緒だったのに、主は、あれよあれよという間に、十字架につけられてしまい目に見える主がおられなくなったことを示していると解釈されます。弟子たちは復活の主との出会いがあったとはいえ、大きな恐れと不安を抱えました。主の姿の見えない中、教会という船を漕ぎ出したのですが、なかなか前へ進みません。逆風が吹き、波が行く手をさえぎります。この様子は、当時の教会に対する迫害や内部の問題と捉えられます。そこに湖上を歩いて主が船に近づかれ、弟子たちは恐れおののきますが、主は「安心しなさい。私だ。」と言われます。ペトロは自分も主に近づこうとして湖上を歩き始めますが、周りの状況に心が奪われ主から目をそらした瞬間溺れそうになります。主はペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」わたしは共にいるではないかと叱咤し、主は一緒に舟に乗り込むと、風も波も静まり舟はまた進み始めたという話です。ここに普遍的な真理と私たちの教会に対するメッセージがあります。

 

私たちも使命を果たすために、一生懸命に舟を漕ぐ中、目に見える姿の主イエスはおられません。この世の荒波がもろに教会に吹き付けます。教会の中にも科学万能、合理主義、経済優先の考えが求められることもしばしばですが、舟の前に立っておられる主イエスから決して目を逸らさぬようにしなければなりません
とはいえ私たちは、どうしようもない弱さを持っていて、神さまを試みてしまったり、疑ってしまうことさえあります。頭で理解しつつも、決断を迫られる時ほど、不安や新しいことへの恐怖からか、心配を先取りし、神さまへの信頼を見失ってしまいがちになってしまいます。主は、そのような私たちに「信仰の薄い者よ」と言いながらも、溺れそうになる私たちを、捕まえてくださいます。私たちにできることは、まず今こそ「ほんとうに、あなたこそ神の子です」という信仰を確かめ、心から礼拝を懸命に捧げることだと思うのです。主イエスから目を逸らさずに、開き、ささげ、勇気と希望をいだき前に進んでまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会 牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

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「競争」2015年12月号

10月某日、晴れ渡る秋空の下で、私は聖クリストファ幼稚園の運動会にお手伝いとして参加させて頂きました。かわいらしいダンスや、玉転がしや玉入れ、そして駆けっこやリレー、その他様々な「競争」がそこでは行われました。それら全てに小さな子どもたちが、本当に一生懸命に取り組んでいて、見ているこちらが元気づけられる思いでした。そして運動会は、そんな子どもたちの姿や笑顔があふれながら進んで行ったのですが、その内のある「競争」の中で、私は子どもたちの中に神様からのメッセージを見ることが出来たのです。

 

 

その競技は、二つのチームで、荷物を引きながら競争をするというものだったのでした。そしてその競技中に、片方のチームの子どもが荷物を落としてしまう出来事があったのです。普通ならこれは、もう片方のチームにとって、相手を大きくリードするチャンスです。相手チームが手間取っている間にどんどん進むべきですし、それが常識です。
しかしそのときに、リードできるチャンスのチームの子どもは、全く前に進もうとはしませんでした。周りからも「先に行っていいんだよ~」「進んで進んで~」と声が上がります。私も思わず「はやく行けば良いのに!」と思ってしまいました。しかしその子どもは、相手の子が自分と同じ所にくるまで待っていました。そして同じ所にやって来た瞬間に、自分も全力で一緒に走り出したのです。私はこの光景を目にしたときに、これこそが聖書において言われる「競争」のあるべき姿なのだと思ったのです。

 

 

聖書において出てくる「競争」という言葉、例えばヘブライ人への手紙12章1節に登場するこの言葉は、中々理解が出来ない言葉として私は認識していました。「何故聖書において、人と競い合うようなことを言うのだろう、単純に走ると言えばいいじゃないか」そう思っていました。しかし運動会での出来事を受けて、改めて「競争」という言葉を辞書で引くと。そこには一般的に認識されている、「他者と競い合い、様々な手段を使い、その人よりも上に行くように行動すること」といった意味の他に、「同じ目的・目標に向かい、互いに高めあいながらその目的・目標に進んで行くこと」というものがありました。そしてその注釈には、「現代の競争という言葉のイメージは、経済発展や近代化、学歴競争などに伴い闘争と似たような概念になってしまっている」とも書かれていたのです。

 

 

私はなるほどと思いました。今現在の私たちを取り巻く世界は、国も個人もあるいは教会すら、「闘争」ばかりをしているのだと。本当は同じ目標に向かっているはずなのに、自分たちだけが少しでも上に・前に行こうとして「闘争」を起こしている。それが「普通」になってしまっているのだと。

 

クリストファKG運動会

だからこそ私たちには、運動会で相手の子を待ってあげていた子どもが示した「競争」こそが、大切なのです。私たちは同じ目標である「神の国と復活」を目指し、自分だけではなく、相手も一緒にその目標へと至れるように「競争」をしていくことが必要なのです。そして教会は世界に「闘争」ではなく、「競争」をしてもらうために働くべきなのだ。運動会での子どもたちの姿を通して、そう強く感じました。

 

聖職候補生 パウロ 渡部 拓

「わたしの反省 ―新主教と東北教区の皆様へ―」  2017年12月号

 

「わたしの反省」等と書きだすと小学生の反省文のようです。「わたしの反省」、それは〈もっと遊べばよかった〉ということです。何を不真面目なことをと思われるでしょうか。しかし実は意外と真面目な反省なのです。

 

 

東日本大震災の発生に際して、わたしは本当にしまったと思いました。わたしはその時までほとんどの太平洋岸の被災地に行ったことがなかったのです。仙台近郊の閖上も荒浜も。志津川も、気仙沼や石巻さえ。

教会がないからです。わたしは大震災までの7、8年間、教会とホテルと執務室、主教館の間だけを飛び回わり、それ以外の土地を訪ねる〈遊びに行く〉余裕をもっていなかったということになります。時間的にというよりは心のゆとりの無さでしょう。南三陸の美味しい魚を食べに行きたいねと家族で話しても、実際に行くことはありませんでした。釜石はもちろん度々行きましたが、それでも教会と園を訪ねるだけで、その近くの土地、激甚な被災地となった鵜住居や大槌を訪ねたことはなかったのです。

そのことが被災者支援の働きにどう影響したか、やはり土地勘がない、その地域の震災前の生き生きとした姿を知らない。その点では他教区から来られた支援の方たちと同じでした。案内なんか出来るわけがありません。その反省から、わたしは他教区から主教として来られる方には、まずよく遊んで、その土地の景色を眺め、美味しい物を召し上がってくださいと申し上げようと思っていました。

 

 

自分の奉職する教区を好きになること、それはやはり大切で良いことだと思います。「好き・嫌い」というよりも、やはり様々な面での風土・気候の違い、地域ごとに異なる多彩なお人柄。

教区主教就任当初は、管区の仕事等、東京に行く時は嬉々として行っていたわたしが、むしろ帰りの新幹線で白河を超え、東北の地に戻ってくるとホッとするようになり、都会の夜のネオンの方が似合うと思っていた自分が、車窓から見える景色、山々や広がる田園風景を美しいと思うようになったのは、自分でも意外なことでした。

もちろん厳しい季節もあり、また過酷な歴史や経験を重ねてきた地でもあることを含めてのことですが。

 

 

主教被選者となられた吉田雅人師は、ウイリアムス神学館館長として神学教育を担われ、また礼拝委員長、祈祷書改正委員長という、日本聖公会の要職を担ってこられました。そういう方を主教として選び出した東北教区には責任があります。

今後、新主教がどのようなお働き方をされるかはわたしが言及すべき事柄ではありません。しかし普通に考えれば、大変お忙しくなることが想像されます。

だからこそ気をつけて遊んでくださいと。

周囲の皆様も、新主教がゆとりをもって東北を楽しみ、愛情を深めていって下さるように、何よりご健康を保たれるようにご配慮くださいねと、多少無理を承知で申し上げたいと思います。

 

 

新主教と東北教区のすべての皆様が、共に祈り、共に働き、共に語り合い、神様の恵みをますます豊かに分かち合ってくださいますように、心からお祈りいたします。

 

主教 ヨハネ 加藤博道

 

 

 

 

あけぼの2019年11月号

巻頭言「365日が祭り」

 

少し季節外れの話題なのですが、先日あるインターネット番組を視聴していた時に、ある社会学者の方が、日本の「お祭り」について面白いことを述べていました。そこでは「日本のお祭りとは、元来自然信仰から始まっている訳ですが、何故そのようなお祭りが連綿と続いているのかというと、お祭りという行為によって人間が正気を保つためであるから。」とし、人間は古代から現代に至るまで、常に神の領域(自然)を侵し続け、破壊し続けている、自然と神としつつもそれを壊している現実がある。そんな自分たちの現実を一度意識してしまうと、その罪悪感と葛藤から人間は正気を保てなくなり、ついには刹那的に「自分さえ(人間さえ)良ければ」という志向に囚われ暴走を始めてしまう。そこにストップを掛けるために年に一度祭りを行い、自分たちのすべてを献げる気持ちで神々を祀る、その瞬間だけはすべてを神に委ねてその裁きすら受け入れる覚悟をもってお祭りをする。そうすることで自分たちの罪悪や葛藤と折り合いをつけて、正気を保って生活を続けることが出来るようになるという考察でした。

 

 

なかなか面白い考察だなと思う一方、その「お祭り」の性質は、私たちとは正反対でもあるとも感じました。私たちキリスト者がいう所の「祭り」とは、祈祷書の聖餐式中で「み子が再び来られるまでこの祭りを行います。」とあるように、聖餐式を代表とする日々の祈りであり、神の国を実現するための献身、宣教そのものであると私は思います。それは日曜日だけでも52(53)回あり、さらに日々の祈りや聖書を開く時、宣教者として生きる生活を考えれば、それは一年365日の時を占めるものである。そしてその「祭り」は、むしろ自分たちの罪深さを「忘れるため」ではなく、「記憶し続けること」、そして自身を神の国のために「献げ出し続けること」を私たちに求めます。また「折が良くても悪くても励みなさい」(テモテⅡ 4:2)と教えられている通り、私たちの「祭り」という名の祈りと宣教は、自分の都合で止めるものでも、止めていいものではなく、まさに「年に一度」ではなく「常に」であり、そこにある働きも正反対であるのです。

 

 

しかしそうなると、ただでさえ弱い私たち人間はその突きつけられる罪、担わされた任務、献げることへの躊躇で潰れてしまいそうになる。でもそこに私たちの「祭り」と日本の「お祭り」の決定的な違いとして、ともに歩くイエス様がいることが見えてくるのです。人間では耐えられない罪も、不可能な献身も任務も、共にイエス様が担ってくださると知るときに、私たちが続ける「祭り」は一時の贖罪でも重荷でもなく、喜びを伴う救いと希望の発露であることが分かります。

 

あるいはそれは、分かりやすく「楽になる」といった救いとは違うかもしれません。しかしこの「祭り」を献げ続けることは、真の救いになる、人にとっても世界にとってもその場しのぎではない救いであり、前進となるでしょう。現在のw足したいを取り巻く状況は決して易しいものではありませんが、この「祭り」を一人一人が「献げ続ける」ことで、イエス様と共にある私たちの道は開けていくと信じています。

 

司祭 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会副牧師)

 

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あけぼの2021年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「祈り続ける教会」

 

 

今現在、私は「朝の礼拝」「昼の祈り」「夕の礼拝」を、毎日献げる恵みと幸いと喜びを享受しています。

 

祈祷書の「朝の礼拝」冒頭に次のような言葉が記されています。“毎日聖書を朗読し、詩編を歌って神をほめたたえ、祈りをささげて日々の生活を神と人とのために清めることは、初代教会からの営みであった。わたしたちも「朝の礼拝」「夕の礼拝」によってこの営みに加わるのである。”とあります。

 

“毎日聖書を朗読する”ということは、ただ沈黙で聖書を黙読するのとは違って、様々なことに気づかせてくれます。例えば、誰に向かって朗読するのか?その方に声は届いているのだろうか?そのためにどのような朗読の仕方がふさわしいのだろうか?等々……。そしてそのような営みを通して、だんだん聖パウロの言う〈キリストを着る〉(ガラテヤ3:27)とか〈キリストがあなたの心の内に住む〉(エフェソ3:17)ということが体感できるような気がしてくるのです。

 

“詩編を歌う”ということについて、私が通っている聖グレゴリオの家で学んだ言葉があります。それは『詩編は、すべてキリストの言葉であり、詩編から我々はキリストの声、キリストについての声、キリストへの声、教会の声、教会についての声を聞くことが出来る。』と。そう教えられて、心を込めて味わいながら詩編を唱える(実際には歌わないが、自然にリズムが整えられる。)と今まで持っていた“詩編理解”から何か新たな目覚めを感じています。

 

さらに、某修道・神父が「詩編を祈る」という本の冒頭で次のようなことを書いていらっしゃいます。『詩編は実際、二千数百年以上もの昔から〈神の民の祈り〉として集められ、伝えられ、そして文字通りに一日もやむことなく歌われていた。――パレスチナの寒村や豪華な得るセムの神殿の中で、さすらいのバビロニアの花の都で、さらにキリスト教の時代になってからは、ローマのカタコンブの地下聖堂や大都会のカテドラル、そして、最後に、喧噪に満ちた大東京の団地や、最果ての北海道の山奥の静かな修道院で――あらゆる種類の男女、〈神の民〉となったひとりひとりの心と口から、一日も絶えることなく歌われて続けてきた。』と。私は二千数百年前から一日もやむことなく絶えることなく歌われ続けてきたなんて、今さらながら“詩編の歴史”はすごい!と思いました。この歴史の流れに実を任せる信仰を教会は主なる神からのご恩寵として受け取り実践してきたのです。

 

言うまでもなく、私たちの信仰は”教会の信仰”です。〈キリストの神秘的なからだである教会の私たちはその肢体である〉という信仰です。この教会で毎日「公祷」として捧げられる神への賛美と感謝、祈り続けられている教会の姿は、初代教会からの尽きること・絶えることのない素晴らしい伝統・歴史です。

 

そのような伝統・歴史を踏まえて、教会共同体〈神の民〉のメンバーとして、私たちは自覚をもって教会生活を送りたいものだと思います。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託司祭 司祭 パウロ 松本正俊

 

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あけぼの2023年11月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「目標を目指して競争する」

 

 

私はこの原稿を9月に執筆しているのですが、この時期になるとチャプレンとして携わる幼稚園で、次々と運動会が開催されます。そしてこの時期になると私はいつも「競走」ということについて思いを巡らせてしまいます。今回はそんな「競走」ということについて考えてみたいと思います。

 

さて競走という言葉は、言うまでも無く足の速さを比べて優劣や序列を付けていくことが原意としてあります。それは当然なのですが、実は聖書において登場するこの「競走」という言葉を、ギリシャ語から見てみますと、前述の意味だけではないことが分かってくるのです。中でもヘブライ人への手紙12章1節の「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と訳されているところの「競走」という言葉は、実はテモテへの手紙Ⅰ6章12節において「信仰の戦いを立派に闘い抜いて……」という箇所の「闘い抜く」という言葉と同じものであるのです。

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つまり聖書における「競走」というものは、単純な順位付けや走るという意味にとどまらずに、目標に向かって「闘う」ことを要求される教えであると言えるのです。そしてこの「闘う」と訳された言葉もとても大切です。何故ならこの言葉、「戦う」ではないのです。今度はこの「闘う」という言葉を日本語の辞典で調べてみますと、もちろん「自分と意見や思想の違う相手と闘う」という意味も出てくるのですが、その他に「自分に課されている苦難や障害を乗り越えようとすること」という意味も出てくるのです。
 

何やらギリシャ語やら日本語やら行ったり来たりと、無理矢理にも思えてきますが、しかしこれらのことをまとめると、聖書が私たちに求める「競走」の意味、その一つが見えてきます。それは「競走」とは誰かと争うことではなく、ひたすらに目標に向かって自分に課せられた苦難や障害を乗り越えていくことである」ということです。また同時にこれらの「競走」という言葉が、聖書という教会共同体に、いや人類に向けて書かれている書物にある言葉と捉えるならば、聖書を読んで信じる全ての人が同じ目標に向かって「競走し、闘う」ことを求められているものであると考えることが出来るでしょう。

 

最後に、それではここで言うところの競走とその目標とは何かといえば、それは当然「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙12章2節)走るということであり、その私たちが見つめるイエスさまが目指している「全人類が愛され、大切にされる神の国」を完成させるという大事業が目標であるのです。その目標のために、私たちはそれぞれに定められている競走を走り、時に訪れる困難や障害をお互いに協力し合いながら「闘い」進んで行く教会共同体であるということを、「競走」というみ言葉は教えてくれているのです。

 

この原稿が世に出る頃には、教区としても教区会を迎え、教会や個人としても新しい年の始まりを意識しだす時期であると思います。そのような時期だからこそ、それぞれの場所で今定められている競走は何か、目標は何かを見つめ直し、どうすればそこに向かって走ることが出来るのか、闘うことが出来るのかを、改めて皆で一緒に祈り求めていきましょう。

 

私たちも使命を果たすために、一生懸命に舟を漕ぐ中、目に見える姿の主イエスはおられません。この世の荒波がもろに教会に吹き付けます。教会の中にも科学万能、合理主義、経済優先の考えが求められることもしばしばですが、舟の前に立っておられる主イエスから決して目を逸らさぬようにしなければなりません
とはいえ私たちは、どうしようもない弱さを持っていて、神さまを試みてしまったり、疑ってしまうことさえあります。頭で理解しつつも、決断を迫られる時ほど、不安や新しいことへの恐怖からか、心配を先取りし、神さまへの信頼を見失ってしまいがちになってしまいます。主は、そのような私たちに「信仰の薄い者よ」と言いながらも、溺れそうになる私たちを、捕まえてくださいます。私たちにできることは、まず今こそ「ほんとうに、あなたこそ神の子です」という信仰を確かめ、心から礼拝を懸命に捧げることだと思うのです。主イエスから目を逸らさずに、開き、ささげ、勇気と希望をいだき前に進んでまいりましょう。

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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