教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

「競争」2015年12月号

10月某日、晴れ渡る秋空の下で、私は聖クリストファ幼稚園の運動会にお手伝いとして参加させて頂きました。かわいらしいダンスや、玉転がしや玉入れ、そして駆けっこやリレー、その他様々な「競争」がそこでは行われました。それら全てに小さな子どもたちが、本当に一生懸命に取り組んでいて、見ているこちらが元気づけられる思いでした。そして運動会は、そんな子どもたちの姿や笑顔があふれながら進んで行ったのですが、その内のある「競争」の中で、私は子どもたちの中に神様からのメッセージを見ることが出来たのです。

 

 

その競技は、二つのチームで、荷物を引きながら競争をするというものだったのでした。そしてその競技中に、片方のチームの子どもが荷物を落としてしまう出来事があったのです。普通ならこれは、もう片方のチームにとって、相手を大きくリードするチャンスです。相手チームが手間取っている間にどんどん進むべきですし、それが常識です。
しかしそのときに、リードできるチャンスのチームの子どもは、全く前に進もうとはしませんでした。周りからも「先に行っていいんだよ~」「進んで進んで~」と声が上がります。私も思わず「はやく行けば良いのに!」と思ってしまいました。しかしその子どもは、相手の子が自分と同じ所にくるまで待っていました。そして同じ所にやって来た瞬間に、自分も全力で一緒に走り出したのです。私はこの光景を目にしたときに、これこそが聖書において言われる「競争」のあるべき姿なのだと思ったのです。

 

 

聖書において出てくる「競争」という言葉、例えばヘブライ人への手紙12章1節に登場するこの言葉は、中々理解が出来ない言葉として私は認識していました。「何故聖書において、人と競い合うようなことを言うのだろう、単純に走ると言えばいいじゃないか」そう思っていました。しかし運動会での出来事を受けて、改めて「競争」という言葉を辞書で引くと。そこには一般的に認識されている、「他者と競い合い、様々な手段を使い、その人よりも上に行くように行動すること」といった意味の他に、「同じ目的・目標に向かい、互いに高めあいながらその目的・目標に進んで行くこと」というものがありました。そしてその注釈には、「現代の競争という言葉のイメージは、経済発展や近代化、学歴競争などに伴い闘争と似たような概念になってしまっている」とも書かれていたのです。

 

 

私はなるほどと思いました。今現在の私たちを取り巻く世界は、国も個人もあるいは教会すら、「闘争」ばかりをしているのだと。本当は同じ目標に向かっているはずなのに、自分たちだけが少しでも上に・前に行こうとして「闘争」を起こしている。それが「普通」になってしまっているのだと。

 

クリストファKG運動会

だからこそ私たちには、運動会で相手の子を待ってあげていた子どもが示した「競争」こそが、大切なのです。私たちは同じ目標である「神の国と復活」を目指し、自分だけではなく、相手も一緒にその目標へと至れるように「競争」をしていくことが必要なのです。そして教会は世界に「闘争」ではなく、「競争」をしてもらうために働くべきなのだ。運動会での子どもたちの姿を通して、そう強く感じました。

 

聖職候補生 パウロ 渡部 拓

「小名浜に遣わされて」2015年11月号

4月1日より越山健蔵司祭の指導の下、小名浜聖テモテ教会と聖テモテ支援センターの働きに従事して、半年が過ぎようとしています。これまでの多くのスタッフ・ボランティアによって培われた信頼関係を引き継ぎ、原発避難地域からいわき市の応急仮設住宅団地に住まわれている方々との交わりをいただいています。

 
富岡町からの泉玉露仮設・大熊町からの渡辺町昼野仮設の両集会所で、週に2回ずつ「ほっこりカフェ」(下写真)を開催しています。先日は、警察官がカフェに来訪し、大熊町をパトロールした際のビデオを上映してくれました。これは仮設在住の避難者の要望に応えて、未だ高線量で一時帰宅もままならない元の家がどんな風になっているか、画面からだけでも見てもらおうとの活動でした。

 
変わり果てた思い出の我が家を目の当たりにし、「帰りたい…!」と号泣される姿に、私も警察官も涙を禁じえませんでした。ところがレンズが振られたとき、驚きの光景が拡がりました。そこに映ったのは、通常の制服姿で何の放射線防護もしていない(花粉用マスクですら!)20歳代前半の警察官の姿でした。

 
我が家を一目見たいと依頼した方も、孫と同年代の若者が福島第一原発のそばで無防備で立ち歩いている姿に呆然としておられましたが、後悔の念が沸き起こったと後日伺いました。

 
私は脇へ警察官を連れて行き、風邪を引いた振りでもいいからパトロールの際は自分を守るべきだと言いましたが、言葉にしづらい事情があるのでしょう、黙って首を振るだけでした。このように、今も安全神話がはびこり、多くの人の身体と心を傷つけ続けている現実があります。

 
大震災から4年半を経た今、仮設団地は転出のピークを迎えています。いわき市内の造成地を買い求め、自宅を建てることが出来た方が、次々と仮設を後にしていきます。残されているのは、経済的・健康的・年齢的・家族的に余裕がなかったり事情が許さなかったりして、復興公営住宅が建設されるのを待っている方々です。工事は遅々として進まず、更に2年間はプレハブ暮らしを強いられると思います。気が滅入り、部屋に閉じこもってしまわないよう、近隣の気の合う仲間とコーヒーを飲んでほっこりしていただけるならば幸いです。私は時が経つにつれカフェのニーズは減っていくどころか、逆に増していくと考えています。復興公営住宅での孤立の問題も深刻です。

 

女性も男性も和気あいあい

女性も男性も和気あいあい

困難な状況に置かれた方々の背後に、いやその方々の姿に、十字架の主イエスが私には見えます。この困難と悲しみのただ中で既に働いておられる主イエスに従うことが、信仰者のありようだと考えています。福島県から遠くなるほど、生の声はますます届かなくなっているのではないでしょうか。国や原発でまだ儲けたい人たちは、もう終わったことにしたいのでしょうが、そうはいきません。私たち信仰者は、聖餐式に示されるように、繰り返し思い起こし連帯することが得意なはずです。皆様、ぜひ小名浜をお訪ねください。この地を共に巡りながら、私たちに先立って働かれる主といっしょに歩かせていただきたいと願っています。

 

執事 バルナバ 岸本 望

「忍耐と希望」2015年10月号

1面イラスト九州生まれで関東育ちの私が初めて東北の地を訪れたのは、今から41年前の中学2年生(14歳)の夏のことでした。当時会社に勤めていた父が仙台で単身赴任をしており、初めての一人旅でその父を訪ねたのでした。まだ東北新幹線もありませんでしたので、上野駅から特急ひばり号に乗って4時間近くも電車に揺られておしりが痛くなる中、ようやく仙台駅に降り立つと、父が家では見せたことのないような笑顔で出迎えてくれたことを鮮明に覚えています。その後父に連れられ、松島や平泉を観光し、また仙台基督教会も訪ねて、大変暖かくお迎えいただいたことが今でも思い起こされます。その時初めて味わった東北の海山の景色や透き通った空の美しさへの感動、また、人の暖かさとの出会いが、自分の将来を大きく動かすことになったと思っています。その後、23歳の時に自分の強い思いがあって東北教区の聖職候補生として認可をいただき、東北教区の聖職の一員としての道を歩み始めることができました。長い道の途中、やはり東北とは別物であることに悩み、また、自分自身の失態から多くの皆さまに多大なご迷惑、ご心配をかけながらも、皆さんの深い愛情と神様のみ許しをいただき、何とかここまで歩みを進め今日に至ることができたと思っております。心より感謝申し上げます。さらに仙台出身の妻と出会い、釜石勤務中には2人の子どもにも恵まれ、東北出身でないのは私だけという家族になりました。それだけが原因かどうかわかりませんが、しばしば家族の中でも完全アウェイ状態になることがあり「そういうところがいけないんだよね」などと叱られ、忍耐することも学ばされたように思っています。

 
「東北の皆さんの忍耐強さに心から敬服いたします」。これは東日本大震災でボランティアの方々がやって来た時によく耳にした感想の言葉です。この言葉には、復興が遅々として進まぬ中、暑苦しい体育館や避難所にあっても苦言・不平を漏らさず、ひたすら耐えておられる皆さんの姿を見て、純粋に感動を表した言葉として受け止められる一方で、遠慮せずにもっと大きな声を出して、早期復興・生活改善の要望を心の内をさらけ出し訴えるべきだという思いも含まれていたように感じました。しかし、現在も変わりない状況の中ではありますが、それでも、忍耐し続けるしかなかったのだと思うのです。私たちには、苦難にあうとき、忍耐は練達を、練達は希望を生むという確信が与えられていますが、希望のない忍耐ほど辛く無意味なことはないのではないかと考えさせられます。

 
2年前に終了となりました「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動の中にあって被災地に出向いた時、「本当に、あんたたちは神様を信じている人たちなんだね」「イエス様を信じている人たちは違うね」という、教会の活動に対するこの上ない賛辞の言葉を頂戴したことが忘れられません。「いっしょに歩こう!プロジェクト」や教会の働きはイエス様の働きそのものであったと思うのと同時に、その働きは主にある交わりから湧き出る希望を、僅かばかりではあったと思いますが忍耐している皆さんに一縷の希望の光として届けることができ、神様の働きの一助として祝福されたと思っています。恵みに満ち溢れた私たちの神様こそが真の希望を私たちに与えてくださることをさらにこの世で証し、何を信じるべきかを信心深い人々へ伝えることが私たちの役割であることを再確認したいと思います。

 

 

 

司祭 ヤコブ 林 国秀

「聖ヨハネ祭のこと」2015年9月号

昼間の時間が一番長い夏至の日付は年によって違いますが、今年は6月22日でした。この夏至に近い24日に洗礼者聖ヨハネ誕生日を迎えます。バプテスマのヨハネがイエス様よりも6カ月前に生まれたというのでこの日が祝われるようになりました。

 
ヨーロッパではミッドサマー(Midsummer)と呼ばれ夏至祭が祝われます。北欧では葉っぱや花の飾りをつけた柱(ドイツ他の五月柱〈メイポール〉が伝わったもの)が広場に立てられ一晩中踊り明かして、たき火を焚いて祝うそうです。

 
ところが日本はちょうど梅雨のときと重なり、曇り空で太陽が見えないので、うっかりすると夏至を忘れて過ごしています。

 
さて今年は雨がさっぱり降らなくて、6月26日(金)にようやく「東北南部が梅雨入りしたと見られる」と発表があり、土曜日に青森も恵みの雨となりました。夕方から嵐になり、少々降りすぎましたが、まとまった雨はこのときだけで、南の地域には申し訳ないのですが、青森は、晴れの日が続いています。(※1)
朝3時半というともうすっかり明るくて、夕方7時半になってもまだ日差しが残っています。晴天続きの今年、しみじみ夏至を肌で感じることが出来ました。
聖ヨハネ日前夜に摘む薬草は特別な効果があると言われています。切り傷や神経症に薬効があると言われる西洋弟切草はSt. John’s wortと呼ばれていますが、採れる真っ赤な浸出油が聖ヨハネの最期を連想させるのでこの名前が付いたようです。

 
このオトギリ草を摘んでお母さんの病気を治すステキな童話があります。

 
Google画像やYouTubeで「聖ヨハネ祭」と検索するとおびただしい数のスカイランタンが夜空を舞う美しい素敵な光景を見ることが出来ます。2010年に公開されたディズニー映画「塔の上のラプンツェル」の中にランタンが飛ぶシーンがありますが、聖ヨハネ祭からヒントを得ているようです。真似したいのですが、火事の心配があるので出来そうにありませんが、こんな祭があったらなと思います。

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夏至の頃に電気を消してスローな夜を過ごしませんか、と環境問題に熱心な方々が発起人となって「100万人のキャンドルナイト」の運動が呼びかけられ10年間続けられ2012年に一区切りとなりました。今は各地で自主的に開催されているようです。

 
東日本大震災による福島第一原子力発電所事故以来「電気に頼る暮らしがいかがなものか」と問わない訳にはいきません。

 
脚本家の倉本聰さんがTVドラマ『北の国から』を始めたのは「電気がなければ暮らせないのか?」という問いかけからだったそうです。富良野の大自然の中で、聰さんが私財を投じて開かれていた俳優養成のための富良野塾(今は閉塾)には「あなたは文明に麻痺していませんか 石油と水はどっちが大切ですか ‥‥‥あなたは感動を忘れていませんか‥‥‥」と書かれていました。

 
考えてみれば電気も石油も車もない時代にイエス様のいろいろな出来事があったのです。

 
青森には六ヶ所村とか大間とか原子力発電関連施設があり、ことに大間に行きますと晴れた日に対岸に函館が見えるのです。「後戻りはできないのですか」と問わないでいられない毎日です。私たちにも覚悟がいるのではないでしょうか。

 

 

 

 

司祭 フランシス 中山 茂

※1 統計開始以来、東北南部は1967年に並んで最も遅く、記録的に遅い梅雨入りでした。東北北部は一番遅い梅雨入りは同年7月3日とのこと。昨年より3週間遅い梅雨入りでした。青森は、梅雨のない北海道の影響を受けるようです。

「自分の中の風化」2015年8月号

去る5月30、31の両日に、秋田市で「東北六魂祭」が開かれ、県内外から20数万人の方が秋田を訪れました。予想以上の人出だったようです。東北六魂祭は東日本大震災の犠牲者の鎮魂と被災地の復興を願って、震災発生の年2011年に仙台で1回目が開催されて以来、盛岡、福島、山形と回り、この度の秋田での開催で5回目を迎えました。第1回目の開催の時は仙台におりましたが、翌日の主日礼拝準備が進んでいなかったのでテレビで見ていました。第2~4回もそうでしたが、この度の秋田市開催は会場へ足を運んで見てきました。

 

大震災以来開催されている東北六魂祭。私も大震災以来続けていることが2つあります。その1つは、毎月11日午後2時46分に東北六魂祭同様、犠牲者の鎮魂と被災地復興を願って教会の鐘を1分間鳴らし、そして主教会作成の「東日本大震災のための祈り」、2014年2月以降から「東日本大震災を覚えて」の祈りをお献げしています。これには北海道在住の親友がその時間帯に共に祈ってくれていることが大きな励ましになっています。彼には大船渡で家業を継ぐ大学時代の友人がおり、その友人の方は直接的な被害はなかったものの、震災以降それまでの生活がガラッと変わり、苦しい状況の中にいるそうで、その方の復興をも願いながら付き合ってくれています。毎月11日の前日または当日に「鐘に合わせて祈るよ」とメールを送ってくれます。彼の後押しが打鐘と祈りを私に続けさせているのだと思います。

 

もう1つは、20数年続けている私的な「日誌」の当該日の日付の上に、その日が大震災から何日目であるかを記しています。震災発生から4年3カ月を迎えた去る6月11日は1,553日目に当たる日でした。時々震災発生の日に書いたことを読み返すことがあります。読み返しながら当日以降を思い出してみたりしますが、記憶があやふやなことも多々あります。書いてあることが思い出せないのです。これは風化でしょうか。

 

毎月11日に打鐘と祈りを献げている、と先ほど書きましたが、実を言うと忘れてしまったこともしばしばありました。外出していた時もありました。その日の昼頃までは覚えていても、別なことをしているうちに忘れてしまったことも少なからずありました。ド忘れなのか、それとも「風化」なのかわかりませんが、記憶がだんだん薄れてきていることは確かかもしれません。

 

あけぼの8月号1ページ写真

松丘聖ミカエル教会

そんな中で、先日あるテレビ番組を見ました。ハンセン病問題を特集していた番組で、進行役が実際に「多磨全生園」を訪ね、そこに70年暮らしている方のお話しも放送されました。全国のハンセン病元患者の皆様の願いは「自分たちの存在を知って欲しい」、ということです。この言葉を聞き、私たちの東北教区にもハンセン病で苦しんでこられた方々がいらっしゃることを「改めて」思い起こされました。ここにも私の中に風化が進行していることを認めざるを得ない事実があったことを告白致します。

 

「霊性」ということの1つの表れとして、祈りの項目(代祷項目)をどれだけ挙げられるかだ、と学んだことを思い出しています。祈りを通して霊性を深め風化を防ぎたいと思います。教区の皆様も祈りのうちに覚えてくださいますようお願い致します。

 

司祭 アントニオ 影山 博美

「今、ここで、主と共に生きる」2015年7月号

八木司祭イラスト北海道、岩手に次いで、全国で3番目に面積の広い福島県。その広さがもたらしてくれる楽しみの一つに、桜の満開を長く楽しめることがあります。面積の広さに加えて、盆地である福島市は同じ市内でも土地の高低差があり、場所によって桜の満開時季も異なり、したがって、市街地では散り始めていても、少し車を山間部に走らせると、まだまだ満開ということがあるのです。もう桜の季節は終わったと思っていたのに、この辺りの桜は今が見頃なんだ!などという発見があると、うれしい気分になります。今年は、行く先々で満開の桜を見つけるのが楽しみになっていました。

 

ある日、この日もお訪ねした信徒宅の近くの土手で満開の桜を見つけてしばし鑑賞した後、帰路につくと、今度は、風に煽られて勢いよく散っていく桜の木に出会いました。文字通りの桜吹雪です。みるみるうちに近くの川面が桜色に染まっていきます。それはそれは美しい光景でした。そしてあらためて思わされたのです。私たちは桜を、花が咲き誇っているときだけ愛でてきたのではないことを。

 

私たちは古来、花びらの舞う光景を“桜吹雪”と呼び、その散った花びらが水面に浮かび流れるのを筏に見立て“花筏”と呼びました。さらに花が散ってしまった桜の木を“葉桜”と呼び、新緑の香りと美しさを愛でました。散りゆく花びらをいつまでも惜しむのではなく、その移ろいを受け入れ、その一瞬一瞬に楽しみを見出してきたのです。それを仮に「受容力」と名付けるなら、桜の木の移ろいのみならず、どんな状況にあっても、それを包み込み、受け入れ、幸せを見出してきた私たちは、そもそも「受容力」の備わった生き物なのかも知れない、そんなことを思いました。

 

しかし、いつの頃からか、社会には「善悪」「損得」「幸、不幸」「勝ち組、負け組」など多くの二元論が溢れるようになり、今や現代人は相対評価で物事を判断することに慣らされてしまったといえるかも知れません。でも、この世の中が本当に二元論で割り切れるなら、桜の木の折々の状況を受け容れ、愛でることなどできないはず…そう思うのですが如何でしょうか。

 

弟子たちの主イエスとの一度目の別れ、すなわち受難の前、彼らは、十字架に架けられることなどあってはならないと師をいさめ、さらには師を知らないと拒み、家の戸に鍵をかけていました。そんな弱々しい弟子たちが、二度目の別れ、すなわち主の昇天の際には、「大喜びでエルサレムに帰った」とルカ福音書は記しています(24:52)。弱かった弟子たちが、今度は主との別れを悲しむのではなく喜び、その後も幾多の困難を乗り越えていく力強い宣教者に変えられたのです。この間にあった出来事は主の復活です。彼らは主の復活によって、人間が本来備え持つ「受容力」を呼び覚まされ、強められたのではないでしょうか。

 

今に生きる私たちも、同じ主の復活を信じて生きる者です。そして、桜の移ろいをどんな時季にも楽しめる「受容力」も与えられています。そうであるならば、課題を数え上げ、自らを取り巻く困難さを声高に主張して、それらすべてを解決しなければ幸せにはなれないと思い込んでうずくまるよりも、今、ここで、主が共におられることに幸せを感じられる一人ひとりでありたいと思います。

 

被災地にある教区、教会として、聖霊の導きを祈り求めつつ。

 

司祭 ヨハネ 八木  正言

「神のデクノボー」2015年6月号

2011年3月11日東日本大震災が発生。電気が丸2日点かない中で何が起こっているのか、携帯ラジオに噛り付いていたことを思い出します。2日後、居ても立ってもいられずに、動き出したバスで山形から仙台に向かいました。その時仙台では「東日本大震災日本聖公会東北教区対策本部」が立ち上げられようとしていました。多くの交通手段が麻痺しており、燃料の確保も難しい状態でした。そんな中で動くことのできる数少ない教役者として、その働きにわたしも加わることになりました。5月から支援の働きは管区の「いっしょに歩こう! プロジェクト」と協働となり、全国のみならず世界からの祈りと支援を受けて2年間の働きを終え、その後を引き継いだ東北教区主体の「だいじに・東北」も予定された2年間の働きを終えます。しかし東北教区の支援の働きはこれからも継続されていきます。私自身もこの4年間どれだけお役に立てたかは別としてですが、支援の働きと無縁であった時はありませんでした。

 

現在被災地に赴いた多くの支援団体、グループがその働きを終えています。思いは残るでしょうが、人的にも資金的にも恒久的に継続することは難しいことです。わたしたちもこれまでのような働きを継続していくことは難しいでしょう。でも終わりではありません。これからのことを考えると、被災された方々と関わり続けるということは、もうわたしたち東北教区の宣教の働きのひとつとなっているのだと思います。つまり教会の日々の働きのひとつということです。そう捉えれば「いつまで続ければ良いのか」とか「どれだけやったら十分といえるのか」というどちらかといえば外側からの視点で見た悩みはなくなるでしょう。ほかの地方の人たちにはそれぞれの課題があります。とことん向き合えるのは東北に住むわたしたちです。そして目前の課題に取り組むということは、していることは違っても、それぞれの課題に取り組んでいる人たちとも繋がっているということではないでしょうか。そしてその繋がりによって時には励まし合い、支え合うことも出来るのです。

 

2011年「いっしょに歩こう!プロジェクト」オフィス開所

2011年「いっしょに歩こう!プロジェクト」オフィス開所にて

被災地の復興は進みつつある。しかしそこに新たな悩みや課題が起こっていることにも、わたしたちは敏感になっていきたいと思います。それを知っても「何もすることが出来ない」と戸惑い、悩むことも向き合う姿のひとつです。それは忘れていない姿でもあるからです。私たちもわが身の困難や悲しみを覚えて心配してくれている人がいる、何かできることはないかと心を砕いてくれている人の「存在」にどれだけ励まされ、勇気付けられていることでしょうか。祈りの中で覚え続けることも共にある姿です。継続された祈りから、いつか目に見える、あるいは心に感じることの出来る結果が与えられます。

 

宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の一節「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」皆からデクノボーと呼ばれる人の姿を思います。賢治さんはいいます。「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と。一説によるとこの「デクノボー」は斉藤宗次郎という花巻出身のクリスチャンがモデルだといわれています。「ヤソ」と侮蔑されても、ただおろおろ歩くしかなくても人々に寄り添おうとした。そんな聖霊の力に支えられた「デクノボー」に私もなりたいものです。

 

                                       司祭 ステパノ 涌井康福