教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

「教会 ー 一歩踏み出す拠点」 あけぼの2019年4月号

若松諸聖徒教会は、震災後、園舎建替に伴って旧聖堂を取り壊して以降、聖堂をもたず幼稚園ホールにて礼拝を守っています。ホール舞台上には祭壇も常設されており、小さいながらベストリーに利用できる部屋もあります。礼拝を行う度に会衆席用の椅子を並べたり片付けたりする労はあるものの、取り立てて「不便」を感じてはいません。それでも今、私たちの教会は教会建設を祈り求めています。

 

 

毎主日の礼拝では10人程の出席者数の小さな群れに、教会建設などという大事業に着手する「体力」はあるのか?仮に新聖堂が与えられたとして、潤沢な資金があるわけではない現状、後代に借金を残すだけになるのではないか?正直に告白すると、そうした負の心情だけが管理牧師時代からの偽らざる思いでした。

 

そんなとき思い出したのは村上達夫主教の「私たちはこの礼拝堂がなぜ今ここに建っているのかという本来の目的をもう一度深く考えてみることが大切」との言葉が記されていた『若松諸聖徒教会小史』です。1986年、今は取り壊された聖堂建設60年を迎えた年に刊行された本書をあらためて読み返すと、興味深い記事が目に留まりました。

 

 

教会創立10年を経た頃、若松諸聖徒教会は南会津への「特別伝道行脚」を始めています。先書にはそのいきさつについてこう記されています。「南会津巡回という特別伝道行脚について一言すべきであろう。そもそも南会津郡および大沼郡の二郡は本県中最も不便な山奥で、人口も疎らで、しかも広範に亘っている。このような地方を巡回しなければならなくなったのは、次のような理由による。明治の中葉、只見川沿岸一帯に甚だしい凶作飢饉があり、その惨状は深刻を極めた。岡山孤児院の石井十次氏はこの東北の悲報に接し、孤児救済のために郡山へ来た」(同書5頁)。しかしこの子どもたち30名は、石井十次氏の施設が定員に達したこともあり、結果としては岡山にではなく大阪の博愛社で引き受けられることになります。数十年後、成人したこの子どもたちは故郷に戻りますが、博愛社での生活で受洗、信仰者となっての帰郷でした。当時、若松諸聖徒教会の長老であったメードレー長老はこのいきさつを知り、30名の信仰者がいる場所への牧会を思い立たれたのだと言います。そして「一巡七十里、その経費と20日の日数もさることながら、天下有数の嶮所難所を越え、旅館の設備もないところを、時には令夫人をも伴って巡回され、牧者としての任務を遂行された」(同書6頁)そうです。南会津巡回を継承したマキム長老に至っては「駒止峠から沢に落ちて命拾いしたこと、旅館(マキム長老時代にできた模様)にマキム長老に合う衣類や夜具がなく大騒ぎしたこと等々」も記されており、同師が南会津の「多くの人々に慕われた師」(同書7頁)であったことも記されています。

 

 

私たちの教会の信仰の先達が南会津へと一歩踏み出したように、祈りによって励まし合いつつ、キリストの派遣に応えて地域社会に一歩踏み出す「拠点」としての教会が与えられるなら…それが「今」の私たちの願いです。私たちの会津若松での歩みを覚えて、みなさまにもご加祷いただければ幸いです。

 

 

若松諸聖徒教会牧師

司祭 ヨハネ 八木 正言

あけぼの2021年1月号

巻頭言「サイレントナイト」

 

 

「今年のクリスマスはやめにしませんか」そんな提案を教会役員会にぶつけたのは、私が聖ペテロ伝道所に勤務していた時、近くのプロテスタント教会に勤務していた若い牧師さんでした。当然の如くに「何をいっているのだ」と役員さんたちは反発します。この牧師さん、少し言葉が足りなかったようで、いいたかったのは降誕日の礼拝をしないということではなく「例年のように派手な飾りつけや、ご馳走を囲んだパーティーをやめましょう」ということだったようです。

 

イエス様は、身重のマリアさんとヨセフさんが住民登録をするためにナザレからベツレヘムに向かう途中で、宿も取れない中で、貧しい家畜小屋でお生まれになりました。まさに「人みな眠りて、知らぬまにぞ」(聖歌第85番2節)と歌われている通りの状況でした。

 

最近知って驚いたのですが、イスラエルにも雪の積もる山があり、スキー場もあるのだとか。イエス様のご降誕が本当に12月なのかは定かではありませんが、平地でも夜は冷えた ことでしょう。暗くて寒くて静まり返った闇の中、落ち着いて赤子を寝かせることもかなわず、両親とてもゆっくりと横たわることができなかったことでしょう。想像するだけで寂しさがこみ上げてきます。

 

多くの人たちが「クリスマス」と聞いて思い浮かべる光景とは、まったく違ったみ子のご降誕の姿がそこにはありました。わたしたちは降誕日前夕の礼拝(イヴ)の中で、その時の場面を垣間見ているのかもしれません。必要最低限の光しか用いられないのは、雰囲気作りなどではなく、きっと2千年前の「その場」にわたしたちも繋がれるためではないでしょうか。神の示された「時」に確かに私たちもみ子と共に存在しているのです。クリスマスには毎年繰り返す「祭り」としての意味もあるでしょう。何度となく繰り返してきたクリスマスですが、同時に毎年私たちはみ子イエスの誕生の瞬間に招かれているということも、信仰の真実ではないかと思うのです。

 

そう考えると、礼拝が終わり「さー、次行ってみよう!」とパーティーに切り替えるのは、なんだか惜しい気がしてしまいます。もちろんそこには宣教的な意味もあるわけですから、単純には否定できないことですが、たまにはみ子のご降誕の場に居合わせた余韻を静かに感じる時があっても良いのではと思います。冒頭で紹介した牧師さんにも、そんな思いがあったのかもしれません。

 

そういう意味で今年のクリスマスは千載一遇の時です。

 

祝会をどうするかと意見を交わすまでもなく、結果は見えてしまっています。残念といえばその通りなのですが、礼拝が終わって「残念だね」とか「さみしいね」といって感染症を呪って帰るのではなく、まさに今年の降誕節は「静かな夜・サイレントナイト」に思いを寄せてみなさいという、神様からの恵みの時なのだと捉えられないでしょうか。どんな時でも、み子のご降誕は救いの時、恵みの時であることに変わりはないのです。

 

そして今年は聖家族がヘロデからの迫害を逃れたエジプト逃避行、み子のための幼き殉教者、東方からの訪問者などにも思いを馳せ、降誕の出来事を黙想する中で、豊かな恵みが与えられそうです。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2022年12月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「神は人を自分のかたちに創造された。(創世記より)」

 

 

10月に人生初の入院をしました。左掌に瘤状のものができ、関節や腱を滑らかに動かすための滑油が溜まる「ガングリオン」という腫瘤だろうと思いしばらく放置していましたら、人差し指と中指にしびれや痛みがおこりだしました。右手は使えるのですが仕事や生活に支障をきたすようになり受診したところ、「血管腫」という腫瘍であることがわかりました。良性腫瘍でしたが、痛みなどは神経が圧迫されているからということで、手術を受けることになりました。手術は約2時間ほどでしたが総延長(?)約10センチほどメスが入ったので、家に帰ってから大量の出血があってはまずいからと1泊入院となりました。いつ退院できるのかわからないということではないので、入院とはいってもそれほど緊張することはなかったのですが、これまで入院されている方をお見舞いした時とは反対の視点で、病室の天井を見つめることになりました。しかも腕には点滴の管が刺さっていますので不自由な状態です。入院されていた方たちはこういう視点で訪れた私たちを見ておられたのだなと、少しだけですがその気持ちがわかった気がしました。

 

わたしは元来暢気すぎる傾向があり、不調を覚えてもすぐに受診することはありませんでした。しかし気が付けばもう高齢者の域に達しており、今回も術後に運転ができずに多くの方にご迷惑をおかけしてしまいました。改めて自分のためばかりではなく、体は大事にしなければいけないと思わされた経験でした。

 

話は過去に飛びますが、牧師になる前に働いていたところは教会関係の保育園で、保育士の約8割が信徒という職場でした。様々な教派の方が在職していましたが、その中には福音派の方もいて、職員旅行などでアルコールが出てきても口にすることはありませんでした。聖公会では牧師もお酒を飲んだり、タバコを吸う人がいることに驚いていましたが、ことあるごとに「神様から与えられた体を傷つけたり、汚したりしてはいけないと教えられている」と話していました。聖公会の面々は「ずいぶん厳しいね」とか「イエス様だってのんでたんだよね?」とかささやいていましたが、食物規程のようなものは別として「神様から与えられた体・命」ということは教派ごとの考えに関係なく、心に留めておかなければいけないことだと思います。もしかしたら健康に少し無頓着な私からは、いつの間にか「神から与えられた」という大事なことが抜け落ちていたのかもしれません。私ばかりではない。周りの人たちもすべて神から命を与えられた存在として見つめることができたなら、世の中はもう少し平和になるのかもしれませんね。命も体も私のものであるようで私のものではない。そのことを忘れたり、知ろうとしないのはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。

 

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」という少年からの疑問に対して、答えに窮した大人がいたという話を聞いたことがあります。「法律で決まっているから」だけでは愛がありません。「神様がお与えくださった命だから」という答えも、すぐには受け入れられないでしょう。それでもあきらめることなく、主の平和のために伝え続けることが信仰であり、宣教なのだと思います。

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

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あけぼの2025年4月号

巻頭言 イースターメッセージ「復活の朝」

 

 

イースターおめでとうございます。ご復活の主の祝福が皆様にありますように!

 

 

金曜日に十字架に掛けられて息を引き取られたイエス様は、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモがユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んで、その日のうちに慌ただしく墓に葬られました。何故ならユダヤ人の安息日、つまり土曜の前日であり、11人の弟子たちはユダヤ人を恐れ隠れてしまったからです。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、一緒にいた他の女たちは、ご遺体に丁寧に接し、手厚く葬りの用意をしたかったけれども叶いませんでした。

 

2日を過ごし、週の初めの明け方早くになりました。安息日が明けるのを待ちかねて早々に、朝まだ早くに墓に出向いて、せめて香料をお塗りしよう、せめて亡骸を目にして触り、お別れをしたいという気持ちでいっぱいでした。ところが、ご遺体を目にすることができない戸惑いと、打ちのめされた感じで途方に暮れました。

 

その時、神さまからのお声が聞こえてきました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 

これは、最も重要なメッセージであり、またイエス様の生前のお言葉です。彼女らはイエス様の言葉を思い出しました。人はそのお方が語られた数々の言葉を思い出します。その中でも一番強く深く残っている言葉があり、それが宝物です。

 

 

14年前の東日本大震災巨大津波によって大勢の方が流されて行方不明になりました。突然、何の前触れもなく身内の身体が取り去られたのです。目の前から消されたのです。愛する人を失った方々は、深い、大きな嘆きを経験しました。時間が空しく過ぎることも経験しました。今日まで、愛する人の魂の平安を祈ることしかできなくそれは、それは長い、長い時間を過ごしておられます。大震災後1ヵ月、2ヵ月、3ヵ月、半年、1年、そして14年が経ちました。

 

やがて被災者の中には、あの人を決して忘れないこと、世を去られた人のいのちを忘れないこと、そのいのちの分まで大事に生きること、それが遺された者がなすべきことだと考え、自分を納得させる方もおられます。山元町にある、震災で園児と職員を失ったふじ幼稚園園長先生はそう考えて、嘆きを生きる力に変え、回復して前を向いて園を再開し、保育を進めています。

 

 

復活とは「そこにとどまらない、そこに縛られない、キリスト・イエスの言葉を思い起こす」ことです。かつてイエス様が約束されたように、復活の主はあなたがたの現実生活の中に必ずや共にいてくださいます。ご復活の主は、いつも共にそして永遠にいてくださいます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」

 

主イエス様のみ言葉を胸に抱き、ここから歩み出して行きましょう。主にある皆さんとともに新しい朝、復活の朝に目覚めてまいりましょう。栄光に輝くイエスさまの光に照らされて、光を見つめながら導かれてまいりましょう。
 

 

教区主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

 

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