教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2020年7月号

「人間は退化したのか?」

 

 

新型コロナウイルスが広がる世界にあって、私の頭の中で繰り返し響いてくる聖書の言葉があります。それはヨハネ福音書3章1節以下にある、所謂「イエスとニコデモ」と題されている箇所で、中でも「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」というニコデモの言葉と、イエス様の「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という言葉に様々なことを考えさせられるのです。

 

このことのきっかけは、ある情報番組のコメンテーターの発言を思い出したからでした。それは現在の世界にはびこる「自己中心主義」「国家主義」過剰な「経済優先主義」を取り上げ、「人類は20世紀に入り、大戦や悲劇を体験しながらも、何とか生み出した自由や博愛、平等といった精神性、世界で一つになっていこうとする意識を獲得してきた、しかしせっかく獲得したその進歩が近年では失われつつある、人類は退化している。」といった主旨のものであったのです。

 

私は思いました。人類という一つの種は、その進化の限界に達してしまったのだろうかと。ほんの少し前までは、人類の進歩は誰も疑っていなかった。その科学技術も精神性も、これからどんどん進歩し良くなっていくと、世界が信じていたように思います。しかしながら今現在は急激にその展望は色褪せて、どこか閉塞感が漂い、これ以上先に進むことが出来ないのではないかという恐れが鎌首をもたげる世界になりつつあるように感じる。さらにコロナウイルス禍での為政者たちの姿、自己中心主義に陥ってしまっている個々の人々の姿を目の当たりするにつけ、それは確かなもののように感じてしまうのです。

 

そしてその様な今の人類の姿は、成長することも、進むことも出来なくなった「年をとった者」であるように思えてならないのです。その様はニコデモがイエス様に言ったように「どうして新しく生まれることが出来ようか」という姿であり、普通に考えるならば、年老いたものはこれ以上成長することはなく死にゆくものであるし、進化が止まった種はゆるやかに退化して滅びていくしかないという、どこか絶望的な姿です。

 

 

しかしながら聖書はそんな絶望に希望を与えてくださいます。それが冒頭でも上げたイエス様の「新しく生まれなければ、御国を見ることが出来ない」という一見不可能に思える言葉が、同時に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉により、信仰によって可能になると転換されていることからも分かります。

 

この希望は、この世界の常識であれば、もはや緩やかな衰退を待つだけに思える私たちにあっても、神様は今この状況をすらも「新しく」することがおできになる。それもイエス様を遣わされることで、信じる人を全て新しい創造でお救いくださるという希望です。

 

 

今の世界はどこに向かうのか全く分かりません。しかし私たちが信仰を持ち続ければ、必ず神様の新しい創造の下で「天の国」に近づいていくことが出来るのだと信じて、皆で共に進んで行ければと願っています。

 

司祭 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会・小名浜聖テモテ教会 牧師)

 

あけぼの2020年7月号全ページはこちら

あけぼの2022年5月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「あから働く、あるいは生きる」

 

 

以下は、ある単語を辞書で調べた際の説明です。ある単語とは何かおわかりでしょうか。

 

「立場上当然負わなければならない任務や義務」「自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと」「法律上の不利益または制裁を負わされること。特に違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担」。

 

そう、ある単語とは「責任」です。しかし、これでは今一つ腑に落ちないと考えるのは私だけでしょうか。そこでその理由を考えてみました。そして思い至った結論は…。

 

これらの説明はすべて「義務」という言葉の説明にも置き換えられそうだからです。しかし「責任」を「義務」とまったく同義語としてしまって果たしていいのだろうか。そう思います。なぜなら聖書に学ぶ「責任」は「義務」とは対極にある「自由」という概念から生じた言葉で、「人として支え合い活かし合いながら、共に豊かな生を生きることを求め続けるための俯瞰的な視点」をもつことだと思うからです。

 

 

ダビデ王の時代に、ダビデの息子ソロモンによって神殿建設が進められることになりました。そのためにダビデは莫大な量の金、銀、青銅、鉄、木材などを寄進し、また民にも寄進を呼びかけました。結果、おびただしい量の資材が献げられましたが、その際のダビデの言葉「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29章14)は、自らの行為を果たすべき義務としてではなく、神の恵みに対する自由意思の応答として捉えています。これこそが、「人として支え合い活かし合いながら、共に豊かな生を生きることを求め続ける俯瞰的な視点」をもった聖書の教える「責任」だと思うのです。

 

新約聖書の「タラントンのたとえ」(マタイによる福音書25:14~)では、「責任」についてのさらに明確な対比が示されています。旅に出る主人が僕たちそれぞれに5タラントン、2タラントン、1タラントン預けるこの譬え話において、自由意思の応答として自らの「責任」を考えたのは、商売をしてさらに5タラントン、2タラントンを儲けた僕たち、義務としてしか自らの「責任」を考えられなかったのは、1タラントン預かって穴の中にそれを隠した僕です。すなわち、義務としてのみ捉える「責任」は常に、「言われたからやった」「嫌々やった」「そうしなければならないからやった」などの言葉で装飾され、かつ自分の保身がその中心にあるのに対して、自由意思による応答として「責任」は、「こうしたら喜んでくれるだろうから」「こうするとみんなが便利だから、嬉しくなるだろうから」などそこに義務感はなく、他者の存在を視界に入れていなければ出てこない発想です。中心にあるのは他者の存在でありその幸せとであるとも言えるでしょうか。

 

私たちは、役割や機能や義務に偏らず、同じ星に棲む者同士、希望や夢を共有するために自分に何ができるのかを探し求め続けること、そこに招かれています。そうして働くこと、生きることこそが、キリストに倣う人間としての「責任」だと思うのですが如何でしょうか。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

あけぼの2022年5月号全ページはこちら

あけぼの2024年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「反転しない正義」

 

 

 

 

今も昔もテレビに登場する正義のヒーローは子どもたちに人気があります。私がチャプレンを務める幼稚園でも、行けば子どもたちはそれらのヒーローのことを話題にあげ、その強さやかっこよさを力説してくれます。そんな子どもたちの様子を微笑ましく思う一方で、これらの正義のヒーローが語る「正義」とは一体何なのだろうかと考えてしまいます。彼らは劇中でよく敵とお互いの意見を戦わせます。その時多くの場合はヒーロー側が正論を言い、悪役側がめちゃくちゃな主張をするので、それをヒーローがやっつけて、めでたしめでたしとなるのがお決まりです。

 

 

しかし時々不思議なことが起こります。ヒーロー側が主張する意見も正しく聞こえる、でも敵側が話すことも決して間違いではない、いわゆる「どちらも正義」に見える場面があるのです。そしてそんな場合に、最終的にどうなるのかと言えば、お互いに暴力をもってその主張をぶつけ合い、ヒーロー側が勝って終わる訳です。でもこの場合、暴力で決着がついた後も、戦いは続きます。ネットの掲示板ではどちらの主張が正しかったのか議論になりますし、どちらの勢力のファンになるのかも争いになったりするのです。極端な言い方をすれば、私はこの構造がまさに人間の戦争状態なのだろうと思うのです。お互いに信じる「正義」を持っていて、それを押し通すために最終的に暴力に訴える。そして敗れた側は「悪」になる。これは戦争の構造そのものですし、いかに人間が主張する「正義」というものが移ろいやすいものであるかを示していると思います。

 

 

そんな世に溢れる正義の論争に、一石を投じるヒーローがいます。それは皆大好き「アンパンマン」です。彼を知らない日本人はいないくらい有名なアンパンマンですが、彼の生みの親である、やなせたかし氏は著書中で彼を「最弱の正義のヒーローである」と称する一方で、自分の理想とする正義を体現していると語っています。やなせ氏はこう言います。「正義は立場によって反転する、昨日まで正しかったことが、次の日には悪になる。それを自分は戦争でいやというほど経験した。しかし決して反転しない正義がある。それはアンパンマンが体現している、献身と愛である。これは決して変わらない。」と言うのです。

 

 

アンパンマンはご存知の通り自分の顔をお腹がすいている人に躊躇無く与えます。そうしてしまうと自分のパワーが弱くなってしまうことが分かっていても、それをどんな場面でも迷わずに、時には敵である「ばいきんまん」にさえそうするのです。もちろん話をおもしろくする中で戦いはあるのですが、その本質はどこまでも自身を献げて周りの人のために働くアンパンマンの正義であると、やなせ氏は主張するのです。

 

 

これはキリストに生きる私たちにも響く主張であると思います。イエスさまが聖書の中で、ご自身の生涯を通して教える「隣人を愛しなさい」ということが、私たちの信じる正義であるなら、私たちが目指すべき正義がどこにあるのか、見えてくる気がします。

 

 

この8月という時は、私たちに戦争のこと、平和のこと、正義のこと、色々と問いかけてくることと思います。そんな時に、世に溢れる正義について、アンパンマンが語る正義について、聖書が語る正義について、考えてみてはいかがでしょうか?

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

 

 

あけぼの2024年8月号全ページはこちら