教区報
教区報「あけぼの」
あけぼの2023年11月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「目標を目指して競争する」
私はこの原稿を9月に執筆しているのですが、この時期になるとチャプレンとして携わる幼稚園で、次々と運動会が開催されます。そしてこの時期になると私はいつも「競走」ということについて思いを巡らせてしまいます。今回はそんな「競走」ということについて考えてみたいと思います。
さて競走という言葉は、言うまでも無く足の速さを比べて優劣や序列を付けていくことが原意としてあります。それは当然なのですが、実は聖書において登場するこの「競走」という言葉を、ギリシャ語から見てみますと、前述の意味だけではないことが分かってくるのです。中でもヘブライ人への手紙12章1節の「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と訳されているところの「競走」という言葉は、実はテモテへの手紙Ⅰ6章12節において「信仰の戦いを立派に闘い抜いて……」という箇所の「闘い抜く」という言葉と同じものであるのです。
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つまり聖書における「競走」というものは、単純な順位付けや走るという意味にとどまらずに、目標に向かって「闘う」ことを要求される教えであると言えるのです。そしてこの「闘う」と訳された言葉もとても大切です。何故ならこの言葉、「戦う」ではないのです。今度はこの「闘う」という言葉を日本語の辞典で調べてみますと、もちろん「自分と意見や思想の違う相手と闘う」という意味も出てくるのですが、その他に「自分に課されている苦難や障害を乗り越えようとすること」という意味も出てくるのです。
何やらギリシャ語やら日本語やら行ったり来たりと、無理矢理にも思えてきますが、しかしこれらのことをまとめると、聖書が私たちに求める「競走」の意味、その一つが見えてきます。それは「競走」とは誰かと争うことではなく、ひたすらに目標に向かって自分に課せられた苦難や障害を乗り越えていくことである」ということです。また同時にこれらの「競走」という言葉が、聖書という教会共同体に、いや人類に向けて書かれている書物にある言葉と捉えるならば、聖書を読んで信じる全ての人が同じ目標に向かって「競走し、闘う」ことを求められているものであると考えることが出来るでしょう。
最後に、それではここで言うところの競走とその目標とは何かといえば、それは当然「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙12章2節)走るということであり、その私たちが見つめるイエスさまが目指している「全人類が愛され、大切にされる神の国」を完成させるという大事業が目標であるのです。その目標のために、私たちはそれぞれに定められている競走を走り、時に訪れる困難や障害をお互いに協力し合いながら「闘い」進んで行く教会共同体であるということを、「競走」というみ言葉は教えてくれているのです。
この原稿が世に出る頃には、教区としても教区会を迎え、教会や個人としても新しい年の始まりを意識しだす時期であると思います。そのような時期だからこそ、それぞれの場所で今定められている競走は何か、目標は何かを見つめ直し、どうすればそこに向かって走ることが出来るのか、闘うことが出来るのかを、改めて皆で一緒に祈り求めていきましょう。
私たちも使命を果たすために、一生懸命に舟を漕ぐ中、目に見える姿の主イエスはおられません。この世の荒波がもろに教会に吹き付けます。教会の中にも科学万能、合理主義、経済優先の考えが求められることもしばしばですが、舟の前に立っておられる主イエスから決して目を逸らさぬようにしなければなりません
とはいえ私たちは、どうしようもない弱さを持っていて、神さまを試みてしまったり、疑ってしまうことさえあります。頭で理解しつつも、決断を迫られる時ほど、不安や新しいことへの恐怖からか、心配を先取りし、神さまへの信頼を見失ってしまいがちになってしまいます。主は、そのような私たちに「信仰の薄い者よ」と言いながらも、溺れそうになる私たちを、捕まえてくださいます。私たちにできることは、まず今こそ「ほんとうに、あなたこそ神の子です」という信仰を確かめ、心から礼拝を懸命に捧げることだと思うのです。主イエスから目を逸らさずに、開き、ささげ、勇気と希望をいだき前に進んでまいりましょう。
秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓