教区報
教区報「あけぼの」
あけぼの2024年1月号
巻頭言 クリスマスメッセージ 「静寂の中に響く声」
決して専門家ではありませんが、先ずは俳句の句から。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句。ここで味わうべきは、「水の音」と表現されているものの、実は無音、静寂、沈黙と言っても過言ではありません。水の音によって響いた沈黙の世界の余韻、これがこの句の本来の味わいだと言われます。
あるいは、「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」に至っては、もっと鮮明に音の背後にある沈黙の世界を浮かび上がらせています。蝉の声は静けさどころではありません。しかし「静けさ」ではなく「閑けさ」と呼んで深閑と静まりかえる寺のその閑けさを、岩にしみ入る蝉の声から聴いた、というのがこの句のもつ趣なのでしょう。つまり、強音の背後に隠れた負の世界を感じる芭蕉の感性がそこにあると言えます。
こうした俳句の世界にも見られる「負」に対する感性が薄れてきて、結果、現代人が無音に弱くなってきた、現代は無音や沈黙の世界が失われつつある、そう評するあるオーディオ評論家のコメントに、だから大きく頷きました。同時に、そのような音に関する現状が、音の世界だけではなく、強音に引きずられて弱音を聞き取れないという「精神構造」をも生み出しているのかもしれない、そんなことも思わされます。声なき声を聞き取ることができない、強い主張をする人に押し切られてしまう会議などです。
さて、この「深い沈黙」「無音の静寂」の世界の大切さを心に留めながら、思い出したい場面、それが最初のクリスマスの夜です。私たちはこの場面を、クリスマス・クリブや聖画を通して、映像的には案外容易に思い巡らすことができるのかもしれません。しかし「劇/絵/画像」でなく、これを音の世界でイメージしてみるとどうでしょうか?
そこにはやはり、「深い沈黙」「無音の静寂」の世界があったのだと思うのです。馬小屋のみならず、クリスマスに纏わる様々なシーン、すなわち聖母マリアが天使からみ告げを受けたときも、羊飼いたちがみ告げを受けたときも、クリスマスに纏わる場面はどれも、深い静寂の世界があり、だからこそ天使の声が響いたのだと。詩編に「語ることもなく、言葉もなく その声は聞こえない。その声は全地に その言葉は世界の果てにまで及んだ」(詩編19:4-5)とある通りで、まさにそれが世界で最初のクリスマスだったと思うのです。星が昼間の明るさの中で見えないように、希望と言う名の光、あるいは音は、暗闇や静寂があってこそ心に響いてくるのだと。
クリスマス、私たちは目に見える明るさや心を躍らせる音にばかり心を奪われていないでしょうか。政治家は信用ならない、経済の先行きは不透明、戦争は起こる、私生活においても悩みや不安が残念ながらある…確かに今世界はそんな状態です。しかしこういうときこそ、実はキリストの光の眩しさが、静寂に染み通るキリストの声が、私たちの心に力をもって届くときでもあることを信じていたい、そう思います。
すると必ずや、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の声が聞こえてくるのだと思います。今年のクリスマス、その声をご一緒に聴くことができますようにと祈りつつ。
仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言