教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2025年2月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「シメオンとアンナ」

 

 

幼子の誕生から四十日、若い両親は赤ん坊イエスを連れて、エルサレムの神殿へとやってきました。誕生四十日目のいわば宮参りです。神殿といっても厳粛というよりは、いろいろな用件で各地から来た人々でごったがえしていたのではないかと想像します。その時、一人の老人が両親と幼子のもとへ近づいてきています。「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた」老人シメオンです。彼は両親の手から幼子イエスを抱き取ると「私はこの目であなたの救いを見た。これは万民の前に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光」と神を賛美します(「シメオンの賛歌」)。それからマリアに向かって大変なことを言います。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」どんでもないお爺さんです。しかし、すごい預言です。キリストの生涯の出来事と意味を鋭く言い切っています。シメオンはまだほんの小さく無力に見える幼子のうちに神の救いの業の始まりを見抜くのです。

 

そこにまたアンナという女預言者が登場します。夫と死別して84歳になっていました。そして「神殿を離れず、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていた」女性でした。彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、人々に幼子のことを伝えます。預言者であり宣教者です。女預言者は旧約聖書にも見られます。出エジプトの後、アロンの姉ミリアムが女たちと共にタンバリンを手に踊りながら歌う賛歌が『出エジプト記』第15章にあります。「主に向かって歌え。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」(「ミリアムの歌」)。パワフルです。

 

降誕日から四十日目、「被献日」(2月2日)の出来事です。今年は2月2日が主日なので、教会全体でこの福音書(『ルカによる福音書』第2章)を読むことになります。幼子イエス、若い両親、そして相当高齢なシメオンとアンナ。世代を超えた出会いの場面です。

 

 

教会の高齢化を憂える声がときどき聞かれます。しかしシメオンとアンナの高齢者パワーはそんなことを吹き飛ばします。私たちの教会にもたくさんのシメオンとアンナがおられます。豊かな経験を持ち、信仰の厚い情熱を保ち続けてきた方々です。実際、身体的にも精神的にも昔とは十年二十年違うでしょう。今ある教会のエネルギーを十分に生かしたらよいのだと思います。もちろん、若者も中年も負けずに。

 

聖霊降臨日、ペトロはヨエル書を引いて語ります。「あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(『使徒言行録』第2章)。「老人は夢を見る」。ヴィジョンを持ち、夢を語るのです。

 

 

教会という共同体の特徴、強みは他の社会(学校や職場)以上に、赤ん坊から老人まで世代を超えた出会いと交わりがあることです。また現在の生活の状況や事情も人それぞれ異なるでしょう。それでも信仰によって結びついた共同体は、やはり不思議な、そして豊かな存在です。その豊かさを生かしつつ、喜びをもって歩む教会の、この一年でありますようにと祈ります。

 

 

元東北教区主教 主教 ヨハネ 加藤博道

 

 

 

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あけぼの2025年1月号

巻頭言 新年メッセージ 「主に受け入れられる年を告知する」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように

 

 

新年のお慶びを申し上げます。この一年も全能の神様に守られ導かれて、それぞれの信仰生活、教会生活が豊かにされますようにとお祈りいたします。

 

四半世紀前は、世界中の人々の間でミレニアム(千年紀)が話題になりましたが、1990年に「ジュビリー2000債務帳消し」運動が始まっていました。その目的は「21世紀をすべての人が人間らしく生きられる世界にするため」でした。途方もなく難解な理想ですが、そのためにまず20世紀が生み出した10億人超の貧困を根絶することと、貧困の最大原因の一つである途上国が抱えている巨額債務を帳消しにすることでした。

 

当時の最貧国では人々が飢餓や病気で亡くなり、子どもの3人に1人は栄養失調で死亡する一方で、債務返済のために医療や教育に十分なお金が使えません。アフリカの年間債務返済は国家予算の30%にも上り、医療予算の2倍に達していました。ですから、重債務貧困国の債務帳消しを実行してすべての人たちが生きられるようにしましょうと先進国に要望したのです。英国聖公会は中心的な存在でした。

 

このキャンペーンの根拠は聖書にあります。旧約聖書レビ記25章10節以下に「ヨベルの年」が記されています。50年目の聖なる年(ヨベル=ジュビリー)には奴隷は解放され、借金を帳消しにし、穀物を収穫しないで野に生えたものを食するようにと書かれています。
「50年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有の地に帰ることができる。」(レビ25:10)

 

当時、私は仙台基督教会副牧師で聖ペテロ伝道所に住んでおり、仙台市内のキリスト教会、特にカトリック教会の信徒たちと「ジュビリー2000債務帳消し」運動に関わりました。子どものいのちを代償として返済される債務は不公正であり人権の侵害です。貧困に喘ぐ人たちを解放することこそが、その時の時代の要請でした。

 

あれから25年です。重要な出来事から25年、50年、60年、75年経過した時に催される記念行事や祝祭も「ジュビリー」と言います。現在の世界では貧富格差が増し、人権侵害が絶えず、飢餓に苦しみ、日本の人口と同じ1億2千万人以上の難民が彷徨い、戦争では数えられない程のいのちと地球を破壊しています。現実にはヨベルの年は宣言されない世界です。

 

しかしながら、まことの光である主イエスは病み、破れ、傷つき泣いている世に来て、すべての人を照らします。そのお方がこの世に来られたのは、「主の恵みの年を告げるため」(ルカ4:18-21)です。「主の恵みの年」は直訳では「主に受け入れられる年」です。つまり虐げられている人が神様に受け入れられるようなことが起こる年が告げられます。イエスはその時を宣言します。「貧しい者たちに福音が伝えられ、囚われた者たちに解放を、叩き潰された者たちを解放して行かせる」と宣言します。

 

 

私たちも主の福音を宣べ伝えてましょう。主のおとずれの良き知らせを告知しましょう。あらゆる意味での解放を宣言し、解放の実現のための一年にしたいと願い祈りましょう。

 

 

教区主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

 

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あけぼの2024年12月号

巻頭言 クリスマスメッセージ 「この命は人の光であった」

 

 

クリスマスは光の祭典といわれていますように、あちこちでイルミネーションが美しく飾られ、冬の夜に輝く光は特に美しく見えます。暗く寒い夜に輝く光景は、周りが暗ければ暗いほど、明るく輝いて見えます。教会でもツリーを飾り、イルミネーションをつけ、キャンドルの火を灯し輝かせてクリスマスをお迎えします。このようにクリスマスがいつの間にか光の祭典のように祝われるようになったのには、深い訳があります。それは、新約聖書ヨハネによる福音書の最初に記されています。

 

「この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(中略)その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」(聖書協会共同訳ヨハネによる福音書1章4、5、9b節)

 

クリスマスが光の祭典になったのは、このようにイエス・キリストがすべての人の光として、世に来たという聖書の宣言によります。イエス・キリストはすべての人を照らすまことの光、そして、この光は闇の中に輝いていると宣言されています。

 

私たちは経験上、闇が深ければ深いほど、光は明るく強く輝くということを知っていますが、ヨハネの語る闇は人の心の闇をも指し、そして人は誰もが心に闇の部分を持っているとしています。その闇は、悲しみであったり、失望であったり、孤独であったり、はたまた、ねたみであったり、憎しみであったり、迷いであったり、疑いであったり、人生のありとあらゆる心の痛みと苦しみを、闇という言葉で表現できると思うのです。そしてそんな私たちの心の闇にもキリストが光をもたらしてくださるということは、私たちがこの人生を闇の力に支配されることなく、闇に打ち勝つ光が私たちの心を照らしてくださる。そして闇の中で悲観的になることもなく、どんなにこの世が右も左も真っ暗闇であったとしても、キリストと共に生きるなら、そこに「ポッ」と明りが灯っている人生を生きることができるという宣言に他なりません。そして、何よりもイエス・キリストとの決定的な出会いによって、自分の生きる意味を見つめ直し、そしてその道がはっきりと示されるというのが、クリスマスの出来事です。

 

 

「この命は人の光であった」という聖書の宣言は、すべての人々に与えられている神様からの贈り物です。そしてクリスマスは、神様からの最大の贈り物である神のみ子イエス・キリストが、私たちに与えられたという最高の良い知らせです。ユダヤのベツレヘムという村で、幼子イエスは宿にも泊まれず家畜小屋でお生まれになりました。そして、牛や羊の餌箱である飼葉おけの中に寝かされたと聖書に記録されています。そんなイエス・キリストは最後には、私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって、十字架につけられて殺されてしまいました。しかし、神はこのイエスを3日目に死からよみがえらされました。このキリストを信じる人々の中でキリストはよみがえり、宿られ、光となって救い主として導かれます。今年のクリスマス、多くの皆さんとご一緒に、み子イエス様をお迎えして、まことの光に照らされ、導かれて、希望を持って進んでまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

 

 

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