教区報
教区報「あけぼの」
あけぼの2022年8月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「青なのに止まる 赤なのに進む」
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)
赤信号は止まる。青信号なら進んでもよい。小学校に上がる前の子どもでも知っている交通ルールです。しかしもしもあなたが横断歩道を渡っている途中で信号が赤に変わったらどうするでしょうか。ルールに従ってその場に止まらず、渡り切ってしまうのではないでしょうか。
逆に、目の前の信号が青になったとしても、車が通りそうなら進むのではなく立ち止まり、安全を確保して進むと思います。この交通ルールの本質は「赤だから止まる、青だから進むを絶対に守る」ことではなく「命を守る」ことが大前提なのです。
この世にはたくさんのルールが存在します。法律や条例は、逮捕されるから守るのではなく、他者に迷惑をかけてしまうから守ることが本質です。例えば廊下を走ってはいけないのは先生に怒られるからではなく、危険だからです。
イエス様が地上で活動されていた周りにはファリサイ派や律法学者などがよく登場するとおり、ユダヤ教が中心で、イエス様も弟子の多くもユダヤ教徒として生活していました。ユダヤ教の律法は有名な十戒を除いても600以上のルールがありました。この律法遵守に対して厳格な人たちは、律法違反者に対して罰を与えたり、ひどく責めていました。イエスさまは律法のために人がいるのではなく、人のために律法があるのだと教えられています。人を守るために神さまが作られたルールがいつしか人を裁くためのものになってしまったのです。
ある冬の寒い日、僧侶のいる寺に一人の旅人が訪ねてきました。送料は宿で貸せるような寺ではないから、今晩だけにしてほしいと言って、その旅人を本堂に泊めました。夜中に、僧侶は何かが焼ける匂いで起きました。本堂に行くとその旅人は本堂の中でたき火をして暖をとっていたのです。僧侶はすぐに止めに行きましたが、その旅人はあまりの寒さに死にそうになり、耐えられなかったと説明しました。僧侶がふと周りを見渡すといつも置いてある木で彫られた仏像がないことに気付きました。旅人に尋ねると、なんと薪の代わりに、たき火の中に入れて燃やしたというのです。僧侶は激怒し、旅人を追い出しました。夜が明けるころ、大僧侶にそのことを報告しに行くと大僧侶は言いました。「悪いのはあなたのほうだ。あなたは凍え死にそうな生きている旅人ではなく、すでに入滅しておられる仏像を大切にしたからだ。」
確かにこの旅人のとった行動は非常識で正しい行動ではありませんでした。しかし、命を優先できなかった僧侶もまた、正しい選択をできなかったのです。
決まりを守ることに固執しすぎると本質を見失うことがあります。教会の中でも伝統的なルールや暗黙の了解のような文化は度々見られます。それら一つ一つは大切にするべきことですが、一番は私たちの信仰が守られること、神さまとの関係が守られることです。「これは絶対にこうでなくてはいけない」ではなく、神さまの愛のように寛容で柔和で人に優しい心を意識したいものです。
八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介