教区報
教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事
「覚え続けること」2016年9月号
教会や近所のご婦人方と話をしていると、NHKの「朝ドラ」の話題で盛り上がることがあります。私は最近では聖公会と所縁のあるニッカウヰスキー創業者、アブラハム竹鶴政孝・リタ夫妻がモデルとなった「マッサン」は夜の再放送でよく視聴しましたが、最近の話題にはついていけません。そんな話の中で気が付いたのは、現在放送中のものの前々回のものくらいまではみなの記憶にあるのに、それより前のものになると「あれ?何だっけ」となることが多いことです。これに限らず「流行り」というものはそういうものであるのかもしれません。
世の中の動きを「流行り」と同等に捉えてはなりませんが、やはり現在進行形の事柄にみなの関心が向くのは否めないことです。九州で大きな地震の被害があり、各地で自然災害があり、自分たちとはまだ直接かかわりのないことのように捉えていた「テロ」が身近に忍び寄ってきている不気味さなど、数え上げたらきりがありません。
東日本大震災も「あれから5年」というニュースを聞いて「そうか。5年になるのか」と、思い起こした人が多かったのだろうと思います。しかし、どんな出来事でもその当事者にとっては「現在進行形」なのです。たとえ復興計画が完了したとしても、決して過去にはならないのでしょう。
多くの人が忘れるのは仕方がないし、私たちも遠くであった出来事に対して同様です。マスコミでも特別な時にしか取り上げられなくなっていくのでしょう。でも、東北にある私たちは「あの日」をまだまだ歴史にしてはいけないと感じています。この地に住む者だけは決して忘れてはいけないと心に誓います。
しかしどのように寄り添い続けていけば良いのか、忘れていないと言うだけで良いのかと戸惑うことがあるかもしれません。様々なかかわり方があると思いますが、私たちに、そして教会にできることの一つに祈りの中に覚え続けるということがあります。実際に毎月11日には被災された方と被災地を覚え祈り続けている教会があり、主日の代祷の中で覚え続けている教会もあります。これから10年、20年、30年と続けていくことで、それは生きた記憶、未来への警鐘となっていくのだと思っています。教会が大震災の出来事を伝える、生きた「石碑」になることも、とても大事なことだと思いますし、これまでかかわってきた者の責任でもあると思います。
祈りの中で覚え続けていると、その人の顔が見たくなったり、その場所に行ってみたくなったり、何かできることはないかと思ったりします。教区では被災者支援の働きが継続されており、宣教部主催の「被災地に立つ」が今年も行われます。山形の教会では年に数回被災地を訪ねることを続けています。何ができるわけでもない、行って、見て、帰ってくることの繰り返しです。不思議と毎回素敵な出会いがあることが感謝です。これからいろいろな働きが見た目には小さくなり、その形も変わっていくのかもしれません。それでも「覚え続ける」ことが、教会の自然な姿であり続けたいと思います。広報委員会ではできるだけ「今」の被災地の様子を伝え続けたいと思っています。教区の皆様も夏休み、秋の行楽シーズンなどに被災地を訪問される機会がありましたら、その地の様子をご一報いただけましたら幸いです。
司祭 ステパノ 涌井 康福
写真:磯山聖ヨハネ教会礼拝堂跡地訪問
「なぜこの道を?」 2018年9月号
「進学希望校先を宮城教育大学から東北学院大学のキリスト教学科に変更をしたいのだけど、いいかな?」
1994年のある日、私は両親に相談をしました。今から24年前、私が18歳の時の話です。
私は中学生時代に不登校になり、ほとんど中学校に行きませんでした。
そんな私を3年間担任してくださった先生がいます。今ではなかなか連絡を取れていないのですが、心から尊敬している方です。昼夜を問わないでいつでも私のこと、家族のことを気にかけてくださり、先生と出会っていなければ今の私がなかったのではと思うほど大切な恩師です。私自身、子どもが大好きで将来は先生のような子どもたちに関わる仕事がしたいと漠然とではありますが思うようになっていました。そして高校生になって、将来は小学校の先生になりたいと思い、進学先は宮城教育大学を考えていました。私は、中学校はほとんど行くことが出来ませんでしたが、恩師の担任の先生、両親、弟、教父母、教会の信徒の皆さん、友人の支えにより3年生の2学期から登校出来るようになり、高校受験をすることが出来ました。第一志望校には合格することが出来ませんでしたが、徒歩通学可能な距離にある仙台の県立高校に合格できました。高校生活は充実していました。吹奏楽部に入り、ほとんど休みなく部活動に明け暮れる日々でした。そのような日々の中で将来の進路を考えていたときに中学時代のこと、そして教会を通して感じてきたことを振り返っていました。
そして聖職の道を志すことと小学校の先生の道を目指す道と2つの選択肢が出てきたのです。そして、当時の心境を振り返ってみると、私の心は「聖職」への道へと傾いていたと思います。
両親も進学希望先変更の了承と聖職を志す道も応援してくれました。
進学希望先を変更し、東北学院大学への入学が決まっていた1995年1月に阪神・淡路大震災が発生し、中山司祭に誘って頂き、神戸にボランティアに行かせて頂きました。神戸の街の惨状にただただ驚きつつも、その現場で懸命に助け合いながら生きる方々やボランティアの方々との出会いがありました。
大学に入り、新しい仲間が出来、たくさんの影響を受けました。また神戸で開催された日本聖公会全国青年大会にも、最初は遠慮して参加を渋っていたのですが、実行委員長からの直々のお誘いを受け、参加させて頂き、大会にかけるスタッフの皆さんの熱い思いと参加者との出会いを通して私の目が開かれました。そして東北教区でも青年の交わりがしたいと当時の教会の仲間に声をかけて青年活動を行ったことを、まるで昨日のように覚えています。充実していた大学生活、教会生活でしたが、大学4年の時に弟が自ら命を絶ちました。どん底に突き落とされた経験でした。この道を歩むことを躊躇する本当に苦しい時でした。
しかし、私は翌年の春にウイリアムス神学館に入学をしました。振り返ってみると私の人生の節目で見えざる神さまの導きがあったことを感じざるを得ません。神さまからの形を変えた様々な呼びかけに迷いながらも、手を伸ばし続けてきたことが、今の私を支えてくれていると信じながら、これからも聖職の道を歩みたいと思います。
司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会牧師)
写真:十和田湖畔鉛山聖救主礼拝堂の祭壇の前に掲げられているイエス様
あけぼの2020年9月号
「口より行動する信仰生活」
「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(コリントの信徒への手紙二1:12)
コロナウイルス感染症拡大の中で信仰生活を過ごしている東北教区各教会や信徒皆さん、また地域の皆様の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。
人々は一般的に行動より先に口を出します。また、言うのは簡単ですが行動が従わなくて失敗したり、信用を失ってしまう場合が沢山あります。
成功というものは、口ではなく、行に現れます。そのためには行動する生活を守らなければならないということを覚えておいてください。
まず、宣言は口がしますが、占領は足ですることになります。
足が先に行かなければならない理由があります。宣戦布告をして遠くから攻撃しても、実際にその地に旗を立てなければ占領された土地とすることができないのです。占領は、ただ、その地を足で踏むその瞬間からのものです。皆さんの成功が永遠に皆さんのものになることができるのは、行動をする場合のみ可能になります。
それだけでなく、口で宣言した者の責任は、行動することで責任を果たさなければなりません。皆さんが成功のために人々に話をしたとき、その宣言と行動に責任を伴っていなければ、皆さんは、多くの人々から非難を受けることになります。
したがって、口で述べたことの責任は行動で実践しなければならないという原理を思い出してください。成功とは、行動する者だけが味わう栄光であることを深く心に留めてください。
第二:行動は練習を介してのみ可能である。
言うことは簡単ですが行動は難しいものです。しかし、言葉より行動が自然に先立つには、瞬発力を育てる訓練が必要です。瞬発力は頭ではなく、感覚によって可能であり、感覚は繰り返されたトレーニングで可能となります。
足とは、足音を出すことだけではなく行動することで、普段繰り返された行動の習慣が自然に足を動かしています。足の動きは、皆さんが目指した成功の高みを占領するようにします。
第三:理由は行動を止める。
皆さんの行動を停止させ、妨害するものは理由です。いくつかの出来事が皆さんに行動してくれることを要求したとき、同時にあるものが理由です。理由はなぜ?という疑問を要求します。それで、皆さんの頭は、計算に着手し、それによって行動は、瞬発力を失い、最終的に行動にブレーキがかかってしまいます。
今、私たち東北教区に必要なのは、相手の声をしっかり聞くこと、神様が与えてくださった世の中を信仰の目で見ることです。神様の声を聞こうと努力し、神様の力を経験しなければなりません。また、神様の愛を感じる信仰生活が必要です。私たち東北教区のビジョンというものは、いろんな言葉と会議による計画ではなく、神様の前で静かにお祈りをしながら、人間の声ではなくて神様の声を聞くこと、人間の計画ではなくて神様の導きを受け止める謙虚な信仰が必要です。
司祭 ドミニコ 李 贊煕(仙台聖フランシス教会 牧師)
あけぼの2022年7月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「新しく創造される」
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤの信徒への手紙6章15節)。このみ言葉は2000年前のイエス様の復活と聖霊降臨から始まった教会が、その最初期の宣教の現場にあって、過去のユダヤの伝統や決まり事(律法)の間で四苦八苦しているのに対して、パウロが送っている言葉です。これは同じ教会の中にあってもいまだ古い伝統(割礼)に拘り、新しい一歩を踏み出せずにいる人々がいることに対して、本当に大切なことは主イエスの十字架の他に誇るものが無い、新しい道へと創造されていくことこそが大切であるとの教えであると思います。
それはまさに古いものが一度壊されて、新しいものが創造され始まっていく。そんな最初期の教会が歩んだ道を示唆するものであり、現在の私たちもまた、その新しい創造されたものとして同じ道に入っているのでしょう。しかしここでふと思うことがあります。それはこの聖書の中で起こっている「新しく創造されること」とは、実は今も起こり続けていることであり、起こり続けていなければならないことではないかということです。
料理人や伝統芸能・工業などの世界に「守破離」という言葉があるそうです。これは人が修行して行く過程を示すもので。「守」はひたすら伝統を守りその教えを吸収すること。「破」はその伝統や教えを一度壊すこと、そこに拘らないで取り組むことを意味し、「離」で自分自身という「個」を完成するということだそうです。
ここで面白いのは、こういった伝統あるものについて。外から見る私たちにとってのそれは、実はあまり変わっているようには見えないことが多いという点です。それは長い伝統があるものほどそう見えます。でも実際にはその伝統の中では、脈々と「守破離」が繰り返されて、新しい破壊と創造が行われている。目にはみえにくい部分で確かに「変わり続けている」からそこ、それらのものは、現実を生きる私たちにも受け入れられ「良いもの」とされているということです。
これは私たちもそうなのではないでしょうか。私たちの教会・教区あるいは故人の信仰にはそれぞれ歴史があり、そこには伝統と呼べるものがたくさんあることでしょう。でもそれは決して「不変」のものでも「不壊」のものでもなく、「変わり続けていく」「新しく創造され続けていく」ことが大切なのだと思います。
またもう一つ大切なことは、この「守破離」をなしていく上で大切なのは「確かな芯」がなければならないということです。どんな伝統あるものでも、そこに確たる「芯が」なけえれば、「守破離」の課程でそれは全く別のものに変質してしまうことでしょう。でもそうはならなかったから、それらは今も存在し続けている。
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そしてそれは私たちの教会にあっては、最も確かな「主イエスという芯」があることも示しています。どんなに私たちが、それぞれ「守破離」をしても、そこに主イエスという「芯」があり続ける限り、それは「良いもの」であり続けることでしょう。
今私たちは色々な意味で過渡期を迎えているように思います。そんな時代の中で私たちが「イエスの弟子」として立ち続けるためにも、一度それぞれの「守破離」と「新しく創造されること」に思いを寄せてみては如何でしょうか?
福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓
あけぼの2024年10月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「イエスの深い憐れみ」
「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えを始められた。」(マルコ6:34)
今年8月の主日はすべてヨハネによる福音書6章が選ばれ少しずつ読み進めてまいりました。ヨハネ福音書6章の冒頭には有名な「五千人の給食」が記されています。この記事は4つの福音書すべてに記されています。今年は7月21日(特定11)にマルコによる福音書の記事が選ばれていました。冒頭の聖句はその一部ですが、イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ」ました。
6章を読んでいくと興味深い事実が記されています。
お腹を空かせていた多くの人々が奇跡を目の当たりにして主を自分たちの王にしようとします。その人々の様子が次第に変化していきます。「わたしは天から降ってきたパンである」「わたしは命のパンである」という主の教えの真意を理解できず、弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやき、ついには離れ去り、共に歩まなくなったのです。ヨハネ6章の最初と最後では人々の様子がまるで違うのです。
私はこれが人間の姿だと思います。主のもとに集まってきた人々は「空腹」でした。そして生きる希望を見いだせない「限界」にあったのだと思います。私たちが生きていくためには目に見える食べ物が必要です。人はパンだけで生きるのではないと聖書は語りますが、実際に限界に追い込まれた人にとっては今日を生きていくための食べ物、そして目に見える希望が必要なのです。
盛岡聖公会では地域の課題に寄り添っていくためのきっかけとなればという思いから「フードドライブ(食料支援・回収)」を実施しました。フードバンク岩手によると「想像できないかもしれませんが、学校の給食が頼りの子どもたちにとって夏休みはとても辛い期間なのです。そのため、夏休み中の食料支援の要請は通常の倍以上にもなります。」と報告されています。夏・冬休み前のフードバンク岩手への緊急支援要請は2021年で924世帯、2023年で1,004世帯と年々増加しています。子どもたちの食への貧困問題は深刻で、体の健康はもちろん、心の健康にも大きく影響を及ぼしています。
「実にひどい話だ」と言って主のもとを離れていった人々を、なんて符深厚な人なのだとは決して言えないと思います。なぜなら、人々の置かれていた現状は大変厳しかったのだと想像するからです。満たされない時、人は絶望し自己中心的な行動、言動をしてしまうのです。ですからイエス様の言葉も彼らには届かなかったのです。そんな人間への思いが「深い憐れみ」という言葉に込められています。
飼い主のいない「限界」に追い込まれた人々への深い深い思い、まなざしが向けられています。そして、私たち一人ひとりが日々しんどさを抱えながら生きていることも主は知っておられます。「私たちの日ごとの糧」が与えられ、お腹を空かせている人がいなくなる社会の実現こそが紙の国のしるしです。「わたしは命のパンである」と言われた主のみ言葉が私たちの心に留まるためにも、「神の国」の完成のためにあなたの存在を必要としてくださっている主からの招きに応えてまいりましょう。
盛岡聖公会牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也
「寄り添う心」2016年11月号
先日、ある教会の信徒の方から電話がかかってきた時のことです。私はあいにく留守にしておりましたので妻が電話に出て「今、司祭は刑務所に行っています」と答えますと「どうなさったのですか?、いつ出てくるのですか?」と大変驚かれ、心配をおかけしたという出来事がありました。我が家や盛岡聖公会では「刑務所に行ってきます」という会話が、日常の中に違和感なく存在しており、実はその時、私は宗教教誨師の務めを行なうため盛岡少年刑務所に出かけていたのでした。
宗教教誨師とは、「全国の刑務所、拘置所、少年院等の被収容者に対し、各宗教宗派の教義に基づいて、徳性や社会性の涵養を図り、健全な人格の形成に寄与するため、行政・矯正施設からの要請を受け、民間のボランティアとして活動する宗教家」と定義されています。
盛岡聖公会への赴任と同時に前任者の後を継ぐ形で、教区主教の推薦をいただき、全国教誨師連盟から認証を受け宗教教誨師の働きを行うこととなりました。具体的には私の場合、月に1度ないしは2度、地域の矯正施設(盛岡少年刑務所、盛岡少年院、盛岡少年鑑別所)に出向き、教室のような場所で、希望者に対し聖書の講読・勉強を1時間ほど授業形式で行なうことが主な活動となっています。宗教教誨を希望する被収容者は、キリスト教の他、仏教、神道、天理教等様々な宗教から選ぶことができ、受講者は、キリスト教の場合多い時で10名ほど、普段は5名ほどとなっています。熱心な方が多く、主の祈りをもって始め、最後に感想を語り合い、また、質疑応答も活発で、聖歌を歌うこともあります。さらに希望によって個人面談が設けられます。先日は少年鑑別所の担当者から収容中の少年による面会希望の連絡を受け、急遽、ギデオン協会の聖書を携えて少年鑑別所に出向くというようなこともありました。
盛岡聖公会の宗教教誨活動の歴史は長く、基本的には歴代の教役者がこの務めを受け継いで今日に至っています。昔は青年会や婦人会が慰問に訪れたり、クリスマスには女性の青年たちが訪問してクリスマスキャロルを歌ったという話を聞きますが、セキュリティーの面から現在ではなかなか難しくなりつつあるようです。また、盛岡聖公会では主日礼拝の代祷で教誨活動のためにお祈りいただき、さらに公益財団法人全国教誨師連盟・仙台矯正管区教誨師連盟岩手県教誨師会の後援会に教会と婦人会がそれぞれ団体会員となって加入し、毎年後援会々費という形で支援を続けています。このように教誨活動は教役者一人による働きではなく、教会の業として長きに亘り行われてまいりました。
盛岡少年刑務所の運動場に「心はいつもあたらしく」という言葉の刻まれた立派な記念碑が建てられています。この言葉の贈り主は高村光太郎で、太平洋戦争の最中、宮沢賢治の実弟の援助を受けて花巻に疎開し、暫く滞在しました。その際、盛岡の刑務所を訪ねて受刑者に寄り添って励まし、愛情をもって受刑者と向き合われたということです。「実際の罪」を犯した人々は矯正施設に収容され刑として、償ってまいりますが、私たちも「内心の罪」に日々苦しむ罪人です。自分に寄り添う人が必要なように、だれにも寄り添う人が必要だと改めて思い、導きを祈るものです。主イエスの働きの一つである教誨活動のためにもお祈りいただければ幸いです。
司祭 ヤコブ 林 国秀
「『はだしのゲン』に思う癒しの原点」2018年11月号
大館へ出張する際、途中で時間があれば道の駅で昼食を食べ、そこにあるマンガ本を読むことが楽しみになっています。ここ数回は中沢啓治作『はだしのゲン』を読んでいます。
この話の舞台は原爆投下前後の広島。その広島で生きる中岡元(ゲン)という少年が主人公。父親は戦争反対者で、官憲や周りの人々から「非国民」として目をつけられ、拷問も受けています。それでも考えは変わりませんでした。そして原爆投下―。広島の街は焼け野原になり、まるで地獄の様相と化しました。火の海となり、原爆の熱線で全身を焼かれ、皮膚が垂れ下がっている人、ガラスが体中に突き刺さっている人、手足がちぎれ、目玉が飛び出し…そのような人が水を求めて歩いていました。ゲンの家族も父親・姉・弟が犠牲になりました。そして敗戦。戦争は終わりましたが、同時に人々の生きる闘いが始まっていきます。ゲンは母親と新たに生まれた弟とその闘いに立ち向かっていきます。この作品は、その闘いの中で逞しく生きるゲンの物語です。
つい先日も大館へ出向く途中、昼を食べながら前回の続きを読みました。ゲンはある時、かつての仲間に出会います。その仲間はヤクザの組に拾われ使いっ走りをしていました。組に頼らず自分たちの力で生きて行こうと呼びかけますが、混乱した時代、自分たちのような子どもは何かに頼らざるを得ないと突っぱねられます。しかしゲンはあきらめずに働きかけていきます。その仲間に勝子という少女がいました。勝子は原爆で家族を失い、おまけに顔や体中がケロイドに覆われていました。周りの人たちも気持ち悪がって勝子を避けていました。勝子の心は荒んでいました。ゲンはそんな勝子の心を汲み取り突然、勝子の腕の袖をまくり上げケロイドを舐め回しました。舐めて舐めて舐め回しました。それがきっかけとなって勝子の心は少しずつ和らいでいきました。
「ゲン、わたし、嬉しかったんだよ」
今年の聖餐式聖書日課はB年。その特定8の福音書は、キリストが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという物語です。キリストはヤイロの娘の手を取って「タリタ、クムー少女よ、起きなさい」と言うと、少女は起き上がって歩き出しました。特定18の福音書では、キリストが自分の指を相手の両耳に差し入れ、さらに指に唾をつけて相手の舌に触れることで耳が聞こえるように、口が利けるようにされたという物語でした。この二つの癒しの物語で共通していることはキリストが相手に触れているということです。ゲンも勝子の腕に触れ、そして舐めるという行動に出ました。キリストの癒しの行動、そしてゲンの行動が私の中で重なり、何かに感じ入り、珍しく食が進まなくなってしまいました。勝子は自分に降りかかった苦しみ・悲しみに苛まれ心が荒んでいました。しかしその心はゲンがケロイドを舐めることで氷解していきます。心が起き上がりました。勝子は生き返ったということが出来るでしょう。
人に寄り添うことは並大抵のことではありません。苦労知らずの私には不可能かもしれません。私にできること、それは人の苦しみ・悲しみをキリストに委ねる、祈ることかもしれません。だからこそ祈りはわたしたちの務めなのだと思います。
司祭 アントニオ 影山 博美(秋田聖救主教会牧師)
あけぼの2020年10月号
巻頭言「ハレルヤ、主とともに行きましょう」
近頃はメールや携帯電話などで連絡を取り合うことが多くなり、教会の電話、家の電話共に鳴ることが少なくなりました。そんな中で、明らかに何かの勧誘(0120から始まる番号など)以外の、未登録の番号からの電話は「教会への問い合わせかも」と勇んで出るようになっています。
8月7日にそんな電話がかかってきました。夕の礼拝間近かの時間でしたが受話器を取ると、高齢の男の方で、しかも少し酔っているのか、かなり聞き取りにくい声が聞こえてきます。
「俺の○○(お袋?)がクリスチャンでよお。一所懸命教会に通ってたんだ。だから俺もキリスト教は好きなんだけどな。」(私)「そうなんですか。ありがとうございます。」「それでな、夕べNHKで原爆の特集やってたんだけどな、原爆積んだB29が飛ぶ前に何で牧師が祈ってるんだ。これから原爆落としに行くっていう飛行機のためにキリスト教は祈るのか!」と、急に語調が変わり、こんな思いをぶつけられました。そんなこと言われてもなぁ、という思いと、礼拝前に長くなりそうだなという思いが交差しましたが、昔のこととはいえ、好感を持っていたキリスト教の牧師が広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」出発に際して祈っていたということは、かなりショックだったのでしょう。しかも話を続けるうちにわかったのですが、その方は核兵器反対の運動をされている方の様でした。
電話の向こうからは「何でだ!どうしてだ!」という声が響きます。大した知識もないことで困りましたが、「旧日本軍にも従軍僧がいたように、キリスト教国の軍隊には従軍牧師という人たちがいるのです。その牧師は原爆のことは知らなかったんじゃないかな。これから大事な作戦に出るから、乗員と作戦成功のために祈ってくれと言われたら、祈るのは当たり前だったのだと思いますよ。」と答えましたが、納得してもらえません。引き続き「それにな、俺は反対運動一所懸命やってるけど、キリスト教なんかどこも出てきたことねーじゃねーか。平和、平和とか言っても何にもやってねーだろ」とまくし立てられ、「いや、教会だってやってますよ。核兵器の問題だって世の中に、世界に向けて反対を表明してます。」このあたりから私も少し熱くなってしまい、しばらく不毛な議論が続いてしまいました。最後には「バカヤロー!死ね!」と電話を切られ、「平和運動をやってる人が、初めて話した相手に死ねとは何事か」と怒りながら礼拝堂に向かいました。落ち着かない心で礼拝することになりましたが、ふと会話の中で「(教会の)中だけでやってちゃだめなんだよ。」といわれたことを思い出しました。彼が教会のことをどれだけ知っているのかはわかりませんが、確かに教会の中だけで盛り上がって、何かを達成したかのように思ってしまっている部分がないわけではないな。と気が付かされました。
聖餐式の最後に私たちは、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」と唱えます。これは教会が目指す場所、またそれぞれが遣わされる場所に「主のみ名によって」出て行くということだと思います。それは日々の、何気ない日常の中にもあるのです。それぞれが「主のみ名によって」「私が」出て行くのはどこなのかということを念頭に置きながら「ハレルヤ!」と唱えたいものです。そしてそれが「教会を開いていく」ことにもつながっていくことを信じたいと思います。
司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)
あけぼの2022年8月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「青なのに止まる 赤なのに進む」
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)
赤信号は止まる。青信号なら進んでもよい。小学校に上がる前の子どもでも知っている交通ルールです。しかしもしもあなたが横断歩道を渡っている途中で信号が赤に変わったらどうするでしょうか。ルールに従ってその場に止まらず、渡り切ってしまうのではないでしょうか。
逆に、目の前の信号が青になったとしても、車が通りそうなら進むのではなく立ち止まり、安全を確保して進むと思います。この交通ルールの本質は「赤だから止まる、青だから進むを絶対に守る」ことではなく「命を守る」ことが大前提なのです。
この世にはたくさんのルールが存在します。法律や条例は、逮捕されるから守るのではなく、他者に迷惑をかけてしまうから守ることが本質です。例えば廊下を走ってはいけないのは先生に怒られるからではなく、危険だからです。
イエス様が地上で活動されていた周りにはファリサイ派や律法学者などがよく登場するとおり、ユダヤ教が中心で、イエス様も弟子の多くもユダヤ教徒として生活していました。ユダヤ教の律法は有名な十戒を除いても600以上のルールがありました。この律法遵守に対して厳格な人たちは、律法違反者に対して罰を与えたり、ひどく責めていました。イエスさまは律法のために人がいるのではなく、人のために律法があるのだと教えられています。人を守るために神さまが作られたルールがいつしか人を裁くためのものになってしまったのです。
ある冬の寒い日、僧侶のいる寺に一人の旅人が訪ねてきました。送料は宿で貸せるような寺ではないから、今晩だけにしてほしいと言って、その旅人を本堂に泊めました。夜中に、僧侶は何かが焼ける匂いで起きました。本堂に行くとその旅人は本堂の中でたき火をして暖をとっていたのです。僧侶はすぐに止めに行きましたが、その旅人はあまりの寒さに死にそうになり、耐えられなかったと説明しました。僧侶がふと周りを見渡すといつも置いてある木で彫られた仏像がないことに気付きました。旅人に尋ねると、なんと薪の代わりに、たき火の中に入れて燃やしたというのです。僧侶は激怒し、旅人を追い出しました。夜が明けるころ、大僧侶にそのことを報告しに行くと大僧侶は言いました。「悪いのはあなたのほうだ。あなたは凍え死にそうな生きている旅人ではなく、すでに入滅しておられる仏像を大切にしたからだ。」
確かにこの旅人のとった行動は非常識で正しい行動ではありませんでした。しかし、命を優先できなかった僧侶もまた、正しい選択をできなかったのです。
決まりを守ることに固執しすぎると本質を見失うことがあります。教会の中でも伝統的なルールや暗黙の了解のような文化は度々見られます。それら一つ一つは大切にするべきことですが、一番は私たちの信仰が守られること、神さまとの関係が守られることです。「これは絶対にこうでなくてはいけない」ではなく、神さまの愛のように寛容で柔和で人に優しい心を意識したいものです。
八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介
あけぼの2024年11月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「あなたがたは世に属していない(ヨハネ15章19節)」
多くの方が愛誦聖句を持っておられると思います。それぞれの心に響いた聖書の言葉、それは素晴らしい神の言葉の贈り物です。
一方で気を付けなければいけないのは、私たちは神の言葉を都合よく切り取って自分の思いの証明に使ってしまう誘惑に駆られることです。表題の聖句を「そうだ。私たちは天に属しているのだから、罪と汚れにまみれたこの世とはできるだけかかわってはいけないのだ」などと受け取ってしまうと、イエス様の思いを無にしてしまうことになります。確かに主に寄って私たちは天に属する者としていただいた、そしてその上で私たちは「わたしはあなたがたを遣わす」(マタイ10:16)とイエスのみ名によって世に遣わされているのです。世に属さない者として世に遣わされるということはとても怖いことです。事実この言葉は迫害の予告の冒頭に用いられているものです。イエス様ご自身がその姿勢を貫き「世に抗う者」として十字架に上げられました。キリストの体である教会は、弟子である私たちは、「世に属していない」という姿勢をどのように現してきたのでしょうか。もちろん私たちはイエス様と同じにはなれません。そのことはイエス様もご承知で「弟子は師にまさるものではなく、……弟子は師のように……なれば、それで十分である。」(マタイ10:24)と言ってくださってはいます。要は私たちがどれだけ主に近づこうとしているのかが大事だということでしょう。
幸いなことに、私は4つの教区の教会の皆さんとかかわる機会がありました。信徒の皆さんといろいろな話をさせていただきました。ご高齢の先輩方からは昔の教会の様子、楽しかったこと、宣教師の思い出、大変だったことなどを聞かせていただきましたが、どこの教会でも時折、人権問題になりそうな話が飛び出してきました。
過去の日本において、現代よりもさらに性差やハンディキャップを抱える人々の人権が軽視されてしまうことや、「職業に貴賎なし」との言葉が生まれるほどに職業差別や出自に対する差別が大きかった時代がありました。「そういう時代だったから仕方がない」ということもできるのでしょう。いや、仕方がないというよりもそれが「世の常識」であり、それに異を唱えることの方が奇異なことだったのかもしれません。しかし「お和えたちはそういう存在なのだ」と決めつけられた人たちが、仕方がないことだと納得していたわけではないのです。それが自然な心の動きだと思います。
「そういう時代だった」とはしばしば用いられる言い訳ですが、「世に属していない」はずの教会もそれでよいのでしょうか。もちろん人も行政も目を向けなった小さくされた人、病者、社会から邪魔者扱いされた人たちに寄り添い支えた先人たちはたくさんいました。戦時中でさえも声を挙げるのをあきらめなかったひとたちもいたのです。しかし多くの人が「世のあたりまえ」に従ってしまったか、疑問を抱くこともなかったのではないでしょうか。
今私は現在の視点から過去を眺めて書いていますが、自分がその時代に生きていたら「世に属していない者」として生きられたのだろうかと思います。それは自分も現在の「世の常識・価値観」を第一にしてしまっているのではという恐れを感じたからです。「世に属さない者」としての視点はいつの時代の教会にも大切なものなのです。
主よ、どうかみ名のみを崇めさせてください。
福島聖ステパノ教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福
「常識に囚われずに・・・」2016年12月号
聖公会神学院の神学生3年次、夏季実習で3週間、韓国ソウルを訪れることになりました。しかし、出国直前になっても、3週間の実習がどんなプログラムで進行するのか、先方からの連絡はありません。それどころか、そもそも私たち神学生4人が金浦空港に到着したとき、誰かが迎えに来てくれるのかさえわかりません。若干の(かなりの?)不安を抱えつつ成田を飛び立ち、金浦空港に降り立ったとき、迎えに来てくれた方がいたことがどれだけ嬉しかったことか!後日「韓国では親しい友を迎えるとき、前もって予定を伝えるなんてことはしないのさ。なぜって、親が死んだとき以外はどんな予定が入っていても相手につきあうのが親愛の情の証だからね」と教わりました。
それだけではありません。食事の時、日本では大皿や鍋から自らの皿に取り分けるのが礼儀ですが、韓国ではそれは「あなたと同じ皿(鍋)からは食べられない」という意思表示なるとのこと。日本ではご飯茶碗は手に持つのが行儀のいい食べ方ですが、韓国ではテーブルに置いたままが普通(持とうと思っても金属製の茶碗は熱くて持てません!)など、日本での常識が韓国ではそうでない経験を幾つもしました。
実は、国や文化が変われば常識が非常識になる例は、他にもあることに気づかされます。日本では何かをもらったら「ありがとう」というのが常識ですが、中国では仲が良ければよいほどお礼は言わないのだそうです。お礼を言われたらよそよそしい、自分たちは仲がいいはずじゃなかったのかと。日本人の親は「人に迷惑をかけないように」と教えますが、インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。
さて、福音記者ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、神という存在を「言」として表現していますが、これは私たちにとっての常識です。神という存在を「言」としたのは、言葉は一旦人の口から離れると受け手次第、発話者の思い通りに相手に届くとは限らず、自らの思いとは真逆に受けとめられることさえある。すなわち言葉には言霊とも言われるように霊が宿っているのだという当時のギリシアの価値観に着目した福音記者が、神の超越性を伝えるには、神を「言」と表現するのが相応しいと考えたという説を読んだことがあります。しかし、この箇所のごく初期に翻訳された日本語訳は、「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」(ギュツラフ訳)となっています。日本人に神の存在の偉大さを伝えるためには、「カシコイモノ」「ゴクラク」が相応しいのだという発想をそこに見てとることができます。そこには常識には囚われない、しかし神という存在を伝えたい!という情熱を感じられるのではないでしょうか。
彼の有名なアインシュタインも「常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである」と言ったそうですが、確かに常識が壁となってヤル気を挫かれたり、容易に諦めたりすることにつながることを思うとき、アインシュタインの言葉は的を射た表現なのかも知れません。
神という根っこにしっかりとつながりつつ、しかしだからこそ、枝は、葉は、大胆に空に向かって伸ばしていける一人ひとりでありたい、そう思います。
司祭 ヨハネ 八木 正言
「祈りによる証と喜びに満たされて」2018年10月号
「初めから立派な司祭などおりません。どれだけ祈り、主により頼んで、日々歩んでいくことができるか、それが大切なことです。」
これは私の司祭按手に際して先輩聖職からいただいた励ましの言葉です。それから30年程経ち、その間大きな挫折もありながら、それでも何とか神様の御用を続けることができたのは、ひとえに神様の憐れみと皆さまからのお支えとお祈りによるものと心から感謝しております。
司祭、牧師の務めは、礼拝の司式・説教を行なうことや牧会、病床訪問、冠婚葬祭を執り行なうこと、教区・教会の運営に関する責任、関連施設との関係など多々ありますが、皆さんからの「わたしの家族が大変重い病気で入院しています。どうかお祈りしてください。」というお願いや、「今度旅行に出かけるので、お祈りしてください。」という様々なお願いをお受けして、お祈りを捧げるということも大切な務めだと思っています。「家族が重篤です。今すぐお祈りをお願いします。」という知らせが届けば、夜中でも病院に駆けつけるということもありました。
また、東日本大震災時における原発事故が起きる前のことですが、原発での危険な作業に従事しておられた信徒の方からの「毎日仕事につく前にお祈りをしていますが、司祭さんもお祈りしてください。」というお願いもありました。その施設は、震災時も大きな事故が起きず、守られたのだと思っています。さらに「お子さんの命は五分五分です」と医師から宣告されたお父さんからのお祈りのお願いもありました。残りの五分を神様にかけ、一緒に必死に祈りました。その後お子さんは元気になって成人となり命を繋いでおられます。
今まで経験したお祈りのお願いは枚挙にいとまがありませんが、最後に、大きな港街の教会に勤務していたときの、幼稚園児のS君とお母さんからのお祈りのお願いを紹介したいと思います。
S君は幼稚園のお帰りの時間になるとお母さんと一緒に礼拝堂にやって来ては、何やら短いお祈りをしていました。そして丁度、顔を合わせた時「お父さんのために神様にお祈りしているんだ。」とS君が教えてくれました。よくよく話を聞くと、お父さんはイカ釣りの漁師さんですが、近年、日本の近海でイカが獲れなくなり、ニュージーランドやアルゼンチン沖が主たる漁場となったので、漁に出るとノルマを達成するまで、8~10カ月も帰ってこないというのです。勿論、私も命の危険にさらされながら漁に励むお父さんのためにお祈りすることを約束しました。その後S君のお父さんが無事に戻られお会いしたとき、S君のお祈りのことを伝えると、様々なことがあったのでしょう「本当に神様が守ってくださっていました。」と証され、自分が嵐をも静められる神様に祈られていたことを心から喜ばれました。
それから15年程の月日が経ちましたが、毎年7月第2主日の「海の主日」を迎えるごとに、立派になったであろうS君のことを思い起こします。同時にこの世に祈る対象が数多ある中、主イエス・キリストのとりなしと聖霊の導きによって捧げる「天地の造り主、全能の父なる神」への祈りこそが、私たちの魂を平安へと、また、真の救いへと導き、恵みをお与えくださることを心から感謝し、喜びにあふれた教会を皆さんとご一緒にこの世に益々証することができればと願っています。
司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会牧師)