教区報
教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事
あけぼの2023年5月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「さあ、行こう~わたしたちのミッション 主から遣わされている一人として~」
野球の世界一を決める国別対抗試合WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に夢中になった方も多いと思います。私も無類の野球好きでありまして、WBC開催中は毎日夢中になっていました。試合前に日本代表の選手の一人が声出しをする場面があり、私は試合の内容もさることながら声出しの内容にも夢中になって聴いていました。決勝戦の日、声出しを務めたのは大谷翔平選手でした。第一声は「僕から一個だけ。憧れるのをやめましょう」でした。
その真意は、「決勝の対戦相手であるアメリカの選手は、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるようなスーパースターばかりだと思う。僕らは今日超えるために、トップになるために来たので、今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。」というものでした。
そして決意を込めた表情で「さ、行こう!」と選手全員を鼓舞し、この場に拍手が響きました。大谷選手の言葉によって最高のムードができました。私は大変印象的な場面として心に残りました。そして、選手たちに声出しの最後に決まっていう言葉があることに気付きました。それは「さあ、行こう」です。選手を自らも含めて送り出す最大の力強い励ましの派遣の言葉だと思いました。
教会を意味する「エクレシア」は「主によって集められた民の群れ」という意味があります。そして、宣教とは、主語は「わたし」ではなく神様であって神様が神の国の完成、つまりすべての被造物が真の平和の状態の内に生きることが出来る世界の完成のために働かれている「神の国運動」(ジーザスムーヴメント)に私たちは招かれている。そして神の国は教会という建物の中にあるのではなくこの世界にあるということを主イエスは私たちを「派遣」することで示されました。福音書でも主によって集められた弟子たちを派遣する箇所がいくつも出てきます。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタイ10:16)
これからあなたがたの人生には苦難が待ち構えているだろう。でも恐れてはいけない。私が必ずあなたと共にいると弟子たちを励まし彼らを送り出しました。その派遣の言葉はご自身にも向けられていたのだと思います。ご自身も幾度となく十字架の苦難の道を歩むことを躊躇され、苦難されている様子が福音書に記されています。
礼拝も主からの招きによってはじまり、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」という派遣の言葉によって終わります。
エクレシアは主によって「集められ」、そして「派遣される」民の群れであることを私たちは忘れてはいけないと思います。私たちは新主教を迎えて新たな歩みを始めようとしています。私はワクワクしています。同時に、私たちがそれぞれ置かれている現実の課題や困難にしっかりと向き合い、恵みを発見していきたいと思います。私たちは神の国運動に主から招かれ、そして遣わされているのです。「さあ、行きましょう!!」
主とともに。
盛岡聖公会牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也
あけぼの2025年7月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「一歩69cmの繰り返し」
伊野忠敬。江戸時代に徒歩で日本レットを縦断し、日本で最初に実測地図を作った人物です。忠敬は、下総の国(千葉県)佐原にある造り酒屋、伊能家に17歳の時に婿養子に入ります。以来、酒屋の仕事に精を出してきました。婿入り当時、伊能家の家業は危機的な状態にありましたが、忠敬は約10年をかけて経営を立て直し、さらに家業の拡大にも成功しました。当時、忠敬は50歳。
人生50年と言われていた江戸時代。しかし忠敬は何と50歳になってから、小さい頃の夢、天体観測にチャレンジを始めるのです。長男に家督を譲り隠居、天文学を本格的に勉強するために江戸へ出て、浅草にあった星を観測して暦を作る天文方暦局を訪ね、当時の天文学者の第一人者・高橋至時に弟子入りします。このとき師匠の高橋至時は31歳、忠敬は50歳です。当初、高橋至時は、忠敬の入門を”年寄りの道楽”だと思っていましたが、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、いつしか至時は弟子の忠敬を「推歩(=星の動きを測ること)先生」と呼ぶようになります。こうして歳の離れた師弟は深い絆で結ばれるようになりました。
忠敬はなぜ地図を作ろうと思ったのでしょうか。それは、地球の大きさを知りたかったからだと言われています。この初心をもって55歳の時、すなわち1800年4月19日、忠敬は測量の旅に出ます。測量といってもこの時代に機械はありません。人の足と方位磁石を頼りに綿密な海岸線を描いていくという、気の遠くなるような作業が続けられました。3年をかけて北海道、東北、中部地方の測量を終え、江戸に戻った忠敬は、本来の目的であった地球の大きさ計算に取りかかりました。その結果を、後に師匠の至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、二人は手を取り合って歓喜したといいます。しかもこの時、忠敬が導き出した地球の外周と、現在のGPSとスーパーコンピューターで計算した外周の誤差は、0.1%以下という驚異の精度でした。
50歳になっても夢をあきらめなかった伊能忠敬。55歳から17年間、一歩一歩踏み出し続け、地球一周分を歩き抜いた伊能忠敬。考えてみると、彼の人生は、夢に向かって一直線に突き進んだわけではありませんでした。それどころか夢とは何の関係もない、婿入りした先の酒屋の仕事に精を出した人生でした。自分を取り巻く環境を受け入れ、その時にできることを精一杯やり続けたのでした。家族を大切にし、承認として客を大切にしました。彼は直接に売り上げに関係なくても、客のためにできることがあればしてあげたと言います。私財ををなげうって地域の人々を助けたこともありました。そんな彼だったからこそ、夢であった天体観測を超えて、最終的に、夢にすら描いていなかった『大日本沿海輿地全図』の完成という歴史的大偉業へ運ばれたのかもしれません。
忠敬の一歩は69cmであったと言われています。忠敬は計測のため、日本全国を完璧に同じ歩幅で歩き通しました。つまり、右足、左足で足してぴったり138cmで歩く訓練をしたそうです。その執念が正確な地図として実を結んだのでした。
夢に生きるとは、やりたいことだけをやることでも、好きなことだけをやることでもないようです。目の前のことすべてを受け入れ、そのときにできるわずか69cmの一歩を踏み出し続けること…。「神の目は人の道に注がれ/その歩みのすべてをみておられる」(ヨブ記34:21)のです。
仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言
「自分の中の風化」2015年8月号
去る5月30、31の両日に、秋田市で「東北六魂祭」が開かれ、県内外から20数万人の方が秋田を訪れました。予想以上の人出だったようです。東北六魂祭は東日本大震災の犠牲者の鎮魂と被災地の復興を願って、震災発生の年2011年に仙台で1回目が開催されて以来、盛岡、福島、山形と回り、この度の秋田での開催で5回目を迎えました。第1回目の開催の時は仙台におりましたが、翌日の主日礼拝準備が進んでいなかったのでテレビで見ていました。第2~4回もそうでしたが、この度の秋田市開催は会場へ足を運んで見てきました。
大震災以来開催されている東北六魂祭。私も大震災以来続けていることが2つあります。その1つは、毎月11日午後2時46分に東北六魂祭同様、犠牲者の鎮魂と被災地復興を願って教会の鐘を1分間鳴らし、そして主教会作成の「東日本大震災のための祈り」、2014年2月以降から「東日本大震災を覚えて」の祈りをお献げしています。これには北海道在住の親友がその時間帯に共に祈ってくれていることが大きな励ましになっています。彼には大船渡で家業を継ぐ大学時代の友人がおり、その友人の方は直接的な被害はなかったものの、震災以降それまでの生活がガラッと変わり、苦しい状況の中にいるそうで、その方の復興をも願いながら付き合ってくれています。毎月11日の前日または当日に「鐘に合わせて祈るよ」とメールを送ってくれます。彼の後押しが打鐘と祈りを私に続けさせているのだと思います。
もう1つは、20数年続けている私的な「日誌」の当該日の日付の上に、その日が大震災から何日目であるかを記しています。震災発生から4年3カ月を迎えた去る6月11日は1,553日目に当たる日でした。時々震災発生の日に書いたことを読み返すことがあります。読み返しながら当日以降を思い出してみたりしますが、記憶があやふやなことも多々あります。書いてあることが思い出せないのです。これは風化でしょうか。
毎月11日に打鐘と祈りを献げている、と先ほど書きましたが、実を言うと忘れてしまったこともしばしばありました。外出していた時もありました。その日の昼頃までは覚えていても、別なことをしているうちに忘れてしまったことも少なからずありました。ド忘れなのか、それとも「風化」なのかわかりませんが、記憶がだんだん薄れてきていることは確かかもしれません。
そんな中で、先日あるテレビ番組を見ました。ハンセン病問題を特集していた番組で、進行役が実際に「多磨全生園」を訪ね、そこに70年暮らしている方のお話しも放送されました。全国のハンセン病元患者の皆様の願いは「自分たちの存在を知って欲しい」、ということです。この言葉を聞き、私たちの東北教区にもハンセン病で苦しんでこられた方々がいらっしゃることを「改めて」思い起こされました。ここにも私の中に風化が進行していることを認めざるを得ない事実があったことを告白致します。
「霊性」ということの1つの表れとして、祈りの項目(代祷項目)をどれだけ挙げられるかだ、と学んだことを思い出しています。祈りを通して霊性を深め風化を防ぎたいと思います。教区の皆様も祈りのうちに覚えてくださいますようお願い致します。
司祭 アントニオ 影山 博美
「祝福されている私たち」2017年8月号
「主教は次の言葉を用いて会衆を祝福する。」と、聖餐式の最後の祝福の祈りの前に小さく記されているのを皆さんは意識されたことがあるでしょうか。
昨年2016年10月に東北教区と親しき交わりにあります米国聖公会ルイジアナ教区主教モーリス・K・トンプソンJr.師父が東北教区を訪問されました。トンプソン主教は限られた滞在期間の中でありながらも仙台基督教会でのメッセージ、講演、そして東日本大震災の被災地も訪問されました。そして10月16日の主日は、八戸聖ルカ教秋宣教120周年記念礼拝にご臨席頂きました。トンプソン主教は、聖餐式の陪餐の時に未信徒の方やまだ堅信を受けていない信徒一人一人の頭に手を置いて祝福をしてくださいました。記念礼拝の後の祝賀会のご挨拶で「今日の礼拝では主教職にとって最も大切なご奉仕をさせて頂く恵みが与えられ感謝します」と述べられました。私は大変印象的なお言葉として心に残りました。また、今年6月11日には加藤博道主教が八戸聖ルカ教会を教区主教として最後の巡回で、聖餐式の司式と説教をしてくださいました。
そして加藤主教も陪餐の時に子どもたちや未信徒の方々に祝福をしてくださいました。
私は両主教が「祝福」をしているお姿にとても感激をしました。礼拝の中における「祝福」という行為は、イエス様からの私たちへの大きな恵みであると心から実感いたしました。皆さんも思い浮かべてください。礼拝や諸行事、会議等で教区主教が臨席されている時は会の最後は主教様の祝福の祈りによって終わることが多いと思います。
主教の祝福に関してのエピソードをいくつか紹介します。
ある主教様は息子さんからの電話があると必ず電話の最後に祝福をしてくださったそうです。またある主教様はご高齢で体のお具合が悪く療養されながら礼拝に出席をされていましたが、祝福の祈りをされる時は、大変力強く張りのあるお声で会衆を祝福されました。またある主教様は病床にあっても看病する家族にベッドから祝福をして下さったというお話しも伺ったことがあります。
主イエス様は復活された後、天に昇られる時に手を上げて祝福されました。そしてこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)
祝福の祈りを頂くごとに私たちは主の祝福の内に生かされていることを思い出したいと思うのです。喜びの時や嬉しい時だけではなく、むしろ悲しみや辛いとき助けて欲しいときこそ「大丈夫、私があなたと共にいる」という確信を私たちは祝福を頂く事によって得ることが出来るのです。
東北教区が抱える様々な課題、そして皆さんお一人お一人の思いは様々だと思います。しかし、どんな状況であったとしても私たちは祝福され続けていることを覚えましょう。
そして、わたしたちに主の祝福を祈り、私たちの教区を導いてご一緒に共働してくださる次期東北教区主教を選出することが出来ますように、祈り行動して参りましょう。
司祭 ステパノ 越山 哲也
「『平和の祈り』を巡って」あけぼの2019年7月号
驚かれるかもしれませんが、「ああ主よ、われをして御身の平和の道具とならしめたまえ」と祈る有名な「平和の祈り」は、聖フランシスの祈った祈りではありません。
800年前に活躍した聖フランシスの文体や言葉遣いとは違っていて、フランシスの書いた文献のどこにも、この祈りが見つからないのです。実際、彼の祈りをまとめた『聖フランシスコの祈り』(ドン・ボスコ社)や文章や祈りをまとめた『アシジの聖フランシスコの小品集』(聖母の騎士社)には掲載されていません。
『祈りの花束』(ヴェロニカ・ズンデル編、中村妙子訳、新教出版社)には「次の祈りはフランチェスコの名と結び付けられ、彼の精神を反映しています」と注が記されています。他の書籍にも、この頃は現代の研究を踏まえて同様の注が付けられるようになりました。
研究者によると、1912年に発行されたフランスのノルマンディー地方の小さな町にあった信心会が巡礼者のために発行した一冊の「Le Clochette(鈴・小さなベル)」という雑誌の中に、最初の祈りを発見できるとのこと。この月刊誌をを発行したブークェレル神父によって掲載されたのですが、説明がなく、詳しい経緯がわかっていません。祈りが他に紹介される度に手が加えられ、様々なバリエーションが作られ、日本語訳に様々なパターンが生じる一つの原因となっています。
1914年の第一次世界大戦が始まる少し前、フランシスコ会第三会の会員のために配布された御絵に聖フランシスが描かれ、その裏にこの祈りが印刷されて、多くの人々に配布されるうちに、聖フランシス作と誤解されるようになったようです。
この祈りが広く知られるようになった背景には、二つの世界大戦がありました。文字通り平和を願う人々の思いがこの祈りを広げることとなっていったのです。
この原稿を書いている6月6日は奇しくもD-day(ノルマンディー上陸作戦開始日)から75年目の日でした。英BBC放送でノルマンディーのBayeux cathedralにおいて、戦死したたくさんの人々を覚えて行なわれた記念礼拝の様子が放映され、メイ首相やチャールズ皇太子の姿が見えました。続いてたくさんの白い十字架が並ぶ戦死者墓地の前で式典が行われ、マクロン大統領やトランプ大統領がスピーチをしていました。
この祈りを調べると観念的にではなく、文字通り平和を願う祈りであったことを知らされました。
実は、私はこの祈りが苦手です。とても平和の道具になりえない者ですから、この祈りや聖歌が出てくると沈黙してしまいます。これは一つの決意の言葉です。聖フランシスの生涯がこの祈りのようでした。知れば知るほど、とてもこの方のように生きることはできないと知らされます。
どういう訳か、「私を」が「私たちを」に変えられ、どこかの企業で朝礼に「一つ○○……」とスローガンを唱えるような印象がぬぐい切れず戸惑います。用いるなら原点の「私」のままがいいと思います。
堀田雄康神父が講演で、翻訳の難しさにも触れておられます。2つ目の多く「争い」と訳される節の言語は「罪」と「赦し」が対照的に用いられているものです。
青森聖アンデレ教会 牧師 司祭 中山 茂
[参考]論文『アシジの聖フランシスコの「平和の祈り」の由来』木村晶子
講演『「平和の祈り」―その由来と翻訳-』堀田雄康
あけぼの2021年5月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「人生という山」
人生の歩みはよく山登りにたとえられます。
人生がさまざまな経験をしながら一歩ずつ歩むものであるのと同様、登山も一歩ずつ頂上に向かって歩みます。人生はいつも自分の進みたいように進めるわけではなく、入学や就職と言った岐路に立ったときに別の道を進まざるを得ない場合はありますが、山に登るときにも、進みたい道が樹木などで進めず、意に反して回り道を余儀なくされる場合があります。そして、そんな自分の意志に反した道を行ったからこそ生涯の伴侶に出会うことができたり、思いがけない絶景に出逢えたりするのも、人生の歩みと山登りは一緒です。繰り返される日常に埋没して下ばかり向いていると周囲の人の優しさや笑顔に気づけないのと同様、登ることだけに必死になって自分の足下と地面ばかりを見ていると、雄大な景色を見逃すことになりかねません。人生においては、勇気をもって降っていくことや立ち止まることを選択しなければならないことがありますが、登山の場合もいつも上り道とは限らず、頂上に向かうためには下りルートを辿らなければならないことがあります。細く険しい道を通らなければならなかったり、立ちはだかるハードルにゆっくりと歩まねばならない時が人生にはありますが、道の細さや先を歩く人に行く手を阻まれ、思うようにスピードを上げられないことが登山にもあります。
思いつくままに挙げただけでも、人生の歩みと山登りが似ているのは間違いなさそうです。
しかし登山と、ことに現代人の人生の歩みには相違点もあります。それは登山に際してはこれから登る山そのものについて知ろうとするのに比して、現代人は人生そのものについては深く知ろうとしていないのではという点です。
私は登山の専門家ではありませんが、おそらく登山に際しては、その山がどこに位置していて、そんな気象条件下にあるのか(天候の変化がおきやすいかどうか)など、ルートや登る手段のみならず、山そのものを深く知らなければなりません。ところが現代人は、自らの人生そのものについて深く掘り下げることにはあまり関心がないのでは、そう思います。自らの人生が、歴史や社会とどのようにつながっているのか、あるいはつながろうとしているのか、人生には悪天候の日もあって当然なのですが、そのための備えとして何をしておく必要があるのか、などといったことにはあまり関心がないように思えるのです。むしろそれよりも、そのコースを選択するのか、それによって見える景色にはどんな違いがあるのかばかりを気にしていると。だからそれを解説した指南本、すなわり「勝ち組になるためには」とか「失敗しない方法」といった類の書を手に取ることに躍起になっているのが現実なのではないでしょうか。
人生という山には入学、就職、結婚、親しい友との別れなどたくさんの岐路があります。それら一つ一つは真剣に向き合い決断をしなければならない大切な分岐点ですから必死になって既述の指南本を手に入れることや、その努力をムダだと言うつもりはありません。しかし人生という山そのものを見ずにコースやそこで見える景色ばかりに気をとられていると、希望通りの結果を得られなかったときに、あたかもそれが致命傷であるかの如く意気消沈してしまいます。結果、別の選択や別のルートに用意されている希望までを手放してしまうことになります。依然人生という山に立っていて、山から放り出されたわけではないのにもかかわらず……。
マニュアルや手段ではなく、人生という山そのものについて共に考えること、そんな役割も、この時代の宗教=基督の教会にはあるのではないでしょうか。
仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言
あけぼの2023年7月号
巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「『信じる』ということ」
去る2006年4月6日、米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフィック協会」が、1700年前の幻の福音書と呼ばれる「ユダの福音書」の写本を解読したと発表しました。これは2世紀に異端の禁書とされた写本で、3~4世紀に書かれたといわれ、1970年代にエジプトで発見、現在はスイスの古美術財団で管理されているものです。
この解読によると、イエスの十字架の出来事の前にあったとされるイスカリオテのユダの裏切り、すなわち彼がイエスをローマの官憲に引き渡したのは、実は裏切りではなく、イエスの言いつけに従った結果であると記されています。イエスは、他の弟子とは違い、唯一、教えを正しく理解していたユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自ら官憲に引き渡すよう指示したというのです。
これが史実なら、聖書の記述を覆す歴史的な大発見ともいえそうですが、イエスが捉えられたのはユダの裏切り行為なのか、あるいはイエスの指示なのかによって、私たちの神への信仰は変わってしまうでしょうか。
1998年、エルサレムに行く機会を得ました。エジプトからカナンへ、そしてガリラヤからエルサレムへという聖書の歴史に触れる旅です。その途中、エジプトの考古学博物館を訪問しました。
そこには出エジプトの際のエジプト王ファラオの像があり、出エジプトの出来事についての彼の言葉が綴られています。それは「奴隷状態にあった民の数が増え、これ以上放置しておくと暴動を起こしかねないから、彼らをエジプトから解放した」という主旨でした。
出エジプトの出来事は神とその使者モーセの導きによるのだという聖書の記述と、考古学博物館にあるファラオについての既述、どちらが「正しい」のでしょうか。
同じ聖地旅行でエルサレムにあるイエスの墓も訪ねました。一般には、現在、ローマ・カトリック教会や正教会が管理する、旧市街区の聖墳墓教会がそれだといわれています。しかし実はもう一つ、英国教会が管理し、プロテスタント諸教会がイエスの墓だと“主張”している「園の墓」があります。今後、どちらが「本当の」イエスの墓であるかが解明されたとして、その結果によって、私たちの信仰は由来でしまうのでしょうか。
信じようとする対象に、信じるに値する保証、根拠があるかどうかを見定めてから信じるのは、どこまでもその行為の中心に「私」があるとき。対して、たとえ保証や根拠がなくても、さらに言えば可能性が限りなくゼロに近くても、信じるという行為そのものに希望を見出すことこそが、「信じる」ということの内実だと思うのですが如何でしょうか。
ユダの行為が裏切りでなかったにせよ、出エジプトの出来事が聖書通りでなかったにせよ、イエスの墓がどこであるにせよ、死さえもがあなたにとっての致命傷でないのだというご復活の種の声に希望を見出し、信じる者でありたい、そう思います。
仙台基督教会 牧師 司祭 八木正言
あけぼの2025年6月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「希望の中で喜びを感じる信仰人」
まず、5ヵ月間の休職から戻って皆さんと一緒に信仰生活ができるようになったことを神様に感謝します。皆さんのお祈りの力で母も元気になり、家族みんなが良い時間を持つことができました。もう一度、東北教区教役者、信徒皆さんに心から感謝します。
ローマの信徒への手紙12章12節に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」と記されています。この言葉を単に見てみると、ああ~願いについてのみ言葉、または苦難に関するみ言葉なんだと思いますが、詳しく見ると、このみ言葉も愛の実践について説明していることが分かります。
愛を説明しているコリントの信徒への手紙一13章7節で、愛は「すべてを望み」と言われています。希望とコリントの信徒への手紙一13章の願いは同じ言葉です。「希望の中で楽しく」という言葉を別の言葉で表現すれば、「私たちが希望を持っている限り楽しくしよう」と表現できるはずです。
私たちには希望があるということです。その希望がある限り楽しさの他はないということです。その希望を眺める喜びで兄弟姉妹を愛するように、ということです。希望は、神様が私たちの人生に与えられた最も偉大な約束からきたのです。この希望は、将来的にもう少し良いことがあるような希望をいうことではありません。この希望は、永遠の国に対する希望を語ることです。
使徒パウロはこの希望について、コリントの信徒への手紙一15章51節~52節であまりにも詳細に説明しています。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」
使徒パウロは復活したイエスに会った人です。使徒パウロは、復活されたイエス様がおられる天国に行って、その世界を見てきた人です。そのパウロが聖霊の感動を受けたことと合わせて、聖書を通してこのように伝えています。「私たちがすべて死ぬわけではありませんでした。永遠の世界があった。イエス様を信じて従う私たちは死んだ後もまた生きることになりました。それもそのような身体で再び生きるのではなく、永遠に病気でも、死ぬこともないそのような体で永遠に生きることになる…。」
そのような希望が私たちにあるということです。その希望がある限り、私たちは喜んで楽しくなるしかないということです。このような大きな希望を私たちに与えられた神様の恵みに感謝し、その恵みを与えられた神様を愛し、その恵みの中で一緒に生きていく兄弟姉妹を愛さなければなりません。
この世には、神様を知らずに人生を送る多くの人々がいおます。彼らはいつも不安の中で人生を生きているのです。彼らは明日が保証されていないので、今日を生きるために努力しています。一日でももっと楽に暮らすために、一にでももっとよく食べて幸せになるために身をかがめることが、神様を知らない人々の人生です。
愛する東北教区信徒の皆さん!希望の中で楽しんでください。苦難の中でも我慢してください。愛のためにいつも祈ってください。
弘前昇天教会牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕
「聖ヨハネ祭のこと」2015年9月号
昼間の時間が一番長い夏至の日付は年によって違いますが、今年は6月22日でした。この夏至に近い24日に洗礼者聖ヨハネ誕生日を迎えます。バプテスマのヨハネがイエス様よりも6カ月前に生まれたというのでこの日が祝われるようになりました。
ヨーロッパではミッドサマー(Midsummer)と呼ばれ夏至祭が祝われます。北欧では葉っぱや花の飾りをつけた柱(ドイツ他の五月柱〈メイポール〉が伝わったもの)が広場に立てられ一晩中踊り明かして、たき火を焚いて祝うそうです。
ところが日本はちょうど梅雨のときと重なり、曇り空で太陽が見えないので、うっかりすると夏至を忘れて過ごしています。
さて今年は雨がさっぱり降らなくて、6月26日(金)にようやく「東北南部が梅雨入りしたと見られる」と発表があり、土曜日に青森も恵みの雨となりました。夕方から嵐になり、少々降りすぎましたが、まとまった雨はこのときだけで、南の地域には申し訳ないのですが、青森は、晴れの日が続いています。(※1)
朝3時半というともうすっかり明るくて、夕方7時半になってもまだ日差しが残っています。晴天続きの今年、しみじみ夏至を肌で感じることが出来ました。
聖ヨハネ日前夜に摘む薬草は特別な効果があると言われています。切り傷や神経症に薬効があると言われる西洋弟切草はSt. John’s wortと呼ばれていますが、採れる真っ赤な浸出油が聖ヨハネの最期を連想させるのでこの名前が付いたようです。
このオトギリ草を摘んでお母さんの病気を治すステキな童話があります。
Google画像やYouTubeで「聖ヨハネ祭」と検索するとおびただしい数のスカイランタンが夜空を舞う美しい素敵な光景を見ることが出来ます。2010年に公開されたディズニー映画「塔の上のラプンツェル」の中にランタンが飛ぶシーンがありますが、聖ヨハネ祭からヒントを得ているようです。真似したいのですが、火事の心配があるので出来そうにありませんが、こんな祭があったらなと思います。
夏至の頃に電気を消してスローな夜を過ごしませんか、と環境問題に熱心な方々が発起人となって「100万人のキャンドルナイト」の運動が呼びかけられ10年間続けられ2012年に一区切りとなりました。今は各地で自主的に開催されているようです。
東日本大震災による福島第一原子力発電所事故以来「電気に頼る暮らしがいかがなものか」と問わない訳にはいきません。
脚本家の倉本聰さんがTVドラマ『北の国から』を始めたのは「電気がなければ暮らせないのか?」という問いかけからだったそうです。富良野の大自然の中で、聰さんが私財を投じて開かれていた俳優養成のための富良野塾(今は閉塾)には「あなたは文明に麻痺していませんか 石油と水はどっちが大切ですか ‥‥‥あなたは感動を忘れていませんか‥‥‥」と書かれていました。
考えてみれば電気も石油も車もない時代にイエス様のいろいろな出来事があったのです。
青森には六ヶ所村とか大間とか原子力発電関連施設があり、ことに大間に行きますと晴れた日に対岸に函館が見えるのです。「後戻りはできないのですか」と問わないでいられない毎日です。私たちにも覚悟がいるのではないでしょうか。
司祭 フランシス 中山 茂
※1 統計開始以来、東北南部は1967年に並んで最も遅く、記録的に遅い梅雨入りでした。東北北部は一番遅い梅雨入りは同年7月3日とのこと。昨年より3週間遅い梅雨入りでした。青森は、梅雨のない北海道の影響を受けるようです。
「東北教区管理主教として」2017年9月号
東北教区の聖職・信徒の皆さまに主の平和がありますように。
ここ数年、よく同じような夢を見ます。もう礼拝が始まる時間なのに、いくら探しても式服が見つからない! 礼拝堂ではもう聖歌が始まっているのに・・・。説教壇の前に立つと、その日必要な大事な原稿がどうしても見当たらない・・・などと。何かに追いたてられて自分ではどうしようもない状況に立たされている場面。妻に助けを求めるのに、それが全く通じなくてさらに苛立ちを覚えている・・・、そんな中で汗ばみながら目が覚めるのです。あぁ、夢で良かった・・・。
忙しいという字は心を亡ぼすという意味があるそうですが、確かに平安とは程遠い状況に自分を追い込んでしまっていることに気が付くことがあります。自分の計画通りに人生は進みません。どんなに緻密に計画を立て、余裕をもっていても、思いもよらぬことが起きます。その中で私たちはジタバタしながら、それでも、ある時は回りの人に助けられ、ある時はどん底に落ちながらも這い上がり、様々な経験を経てまたなんとか起き上がって歩みを続けるのです。
加藤博道主教さまの14年間にわたるお働きの中、東日本大震災という想定外の大惨事に遭われて、聖職・信徒の方たちと共に、どれほど大きな苦しみを負いながら、この6年間を復興に費やされたことでしょうか。被災地である東北教区の主教としての重責は計り知れないものがあったと想像します。私たちは隣りの北海道教区にありながら何もできませんが、この6月末まで、いくつかの教会では聖餐式の代祷の中で主教のために祈る際、「主教ヨハネ加藤博道」のお名前も挙げてずっと祈り続けてきました。
今回、加藤主教さまの教区主教退任に際し、東北教区の管理主教としての任を仰せつかり、私にとっても予期せぬ状況に置かれましたが、東北教区が新たな教区主教を戴いて出発をするまでのつなぎの役として、忙しさを理由に心を亡ぼすことなく、神様からの力と聖職・信徒の皆さまからのお祈りとお助けをいただきながら、誠実に務め上げたいと願っております。
東北教区というお隣りの教区に伺うことによって、私自身にも違う視点が与えられ、別の面から北海道教区を見直す機会となることも期待しています。先日、北海道教区の函館聖ヨハネ教会と今金インマヌエル教会との合同礼拝に、東北教区の信徒さんが2名お見えになり、楽しい交わりをさらに豊かにしてくださいました。教区を超えて交わりがあることは大へん喜ばしいことです。新しい発見があり、自分自身の信仰に違う風が吹き込みます。
どのような状況にあっても、私たちは決して神様から見捨てられることはありません。ゆえに、今まで信じて続けてきたことを、これからも日々変わらず続けていくことを大事にしたいと思うのです。小さな奇跡、よみがえりの奇跡は、大へんな状況の中でこそ、ひっそりと、でも確実に起こっているのです。日々キリストの死に与り、キリストの復活を身に帯びて、私たちは歩みを共にしたいと思います。
主の御守りの中、豊かなお導きと祝福が皆様の上にありますように。
東北教区管理主教(北海道教区主教)
主教 ナタナエル 植松 誠
教区報「あけぼの」巻頭言9月号
あけぼの2019年8月号
巻頭言「ミッション 私たちの使命」
昨年11月に行われました東北教区教区会で「東北教区5年・10年展望会議」によって作成された「ミッションステートメント(宣教方針)」(案)が常置委員会から提示、報告されました。この宣教方針案について、私の遣わされている盛岡聖公会において、今年の大斎節に毎主日礼拝後、昨年の教区会に盛岡から参加した4名の方々が順番に説明して、教会の皆さんと分かち合い、毎年行っている「大斎節勉強会」として学びの一時を得ることができました。折しも盛岡聖公会では、牧師館改築・仁王幼稚園園舎改築という一大事業を控え(7月1日から工事は開始いたしました)、教会・幼稚園のミッションを見つめ直す大変良い機会となりました。
作家の五木寛之さんという方がいらっしゃいますが、誰もが知る日本を代表する作家のお一人で、私の出身地(福岡県香春町)を舞台にした小説『青春の門』でも有名です。また、人の生き方について、たいへん深い考察をされた本をたくさん出版しておられます。近年は、主に仏教の立場をベースにしながら語られ、また、日本の寺院を巡る旅などの番組もBSで放映されていますが、私たちにとって学ぶべきところが多いように思います。数年ほど前であったと思いますが、理容室の待ち時間に何気なく読んだ週刊誌に、この五木寛之さんが「サラリーマンよ。ミッションを持て」というような内容のことを書いておられたのを読みました。その記事では、「仏教でもキリスト教でもいいから、きちんとした宗教について学び、よく考えなさい」と勧め、「ミッション」すなわち何のために自分がこの世に生を受けたのか、何のために生き、何のためにこの仕事をしているのかについての使命感、世界観をしっかり持てと説いていました。そして、ミッションが明確になることにより人に命が吹き込まれ、生きる者となるというキリスト教の聖霊降臨の出来事と重なるようなことが語られていたことに興味を持ちました。
今、教会のミッションとは何か、また、教会の関連附属施設としてある幼稚園や学校のミッションとは何か、そして、私たち一人一人、さらに私たちの家庭のミッションとは何かということを見つめなおすことが求められています。それは、一人一人に信教の自由という権利が与えられている中で、単純にキリスト教を信じること人に求めるということではないと思います。さらに自分たちだけが唯一の真理を手に入れているといった思いから解放され、良し悪しは別として自分たちとは違う形と方法で真理に振れている多くの宗教・宗派があることも認めなくてはなりません。そして教会が教会の信仰に触れる人たちに、自分らしいミッションや自分の居場所を発見の手助けをするような、そういう場所であれたら良いなと思います。簡単に申し上げれば「生きていてよかった」という喜びを感じられるようにするのが教会なのではないだろうかと思うのです。今社会を見渡せば、貧困格差の問題、ジェンダー、LGBT、少子高齢化の課題や家にこもってしまった方々に対する課題、それらの問題が原因の一つといわれる親の子殺しや児童への無差別殺人など、多くの問題が渦巻いています。そのような社会の中にある教会の存在意義はより増していると宣教の前線にあって感じます。主の御導きを祈りつつ歩みたいと思います。
司祭 林 国秀(盛岡聖公会牧師)
あけぼの2021年6月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「夢を見るということ」
「牧師さんは神様を見たことがあるのですか?」先日教会を見学に来られた方に言われた言葉です。中々ストレートな質問で、どう答えたものかと考えていると、ふと幼い時の記憶が甦りました。しかもそれは、実際の体験ではなく、その当時に見た夢を思い出したのです。
その夢はとても不思議なもので、広い草原のようなところに自分が立っているのですが、突然目の前にとても巨大で光り輝く「何か」が現れる、ただそれだけの夢です。この「何か」が現れた後に、特に何かが起こるという訳でもなく私は目が覚めたのですが、幼い自分はその時に、自分は夢で「神様」を見たのだという不思議な確信を持って目が覚めていたことを思い出したのです。
そんな夢の話を見学に来られた方に馬鹿正直にお話ししたものですから、突然キョトンとされてしまい、少し気まずい空気になりました。しかし一方で私はその夢を思い出したことで、自分の信仰というものを形作るものの一つとして、確かにあの夢があったのだということを思い起こすことが出来たのです。
私は生まれたときから教会というものが傍らにある環境でしたので、洗礼・堅信も周りの大人が進める通りにしましたし、礼拝にも出ていました。しかしそこに神様という存在への確信があったかというと、かなり怪しいままに過ごしていたように思います。そんな信仰生活の中にあって、神様という存在に対する疑いを持たなくなったのは、あの夢を見た頃からだったと、今になって確信できたのです。(教会生活への反発などはこの後も続いていく訳ですが)
たかが夢で大げさなと思われるかもしれません。確かにこれは、はたから見れば単なる子どもの時の夢でしょうし、私の話を合理的に裏付ける何かがあるわけでもありません。しかしながら、私たちが信じる聖書の中にあって、ヨセフが夢で啓示を受けるように(マタイ福音書1章20節)、旧約の預言者達が夢幻の中で神様の言葉を預かるように、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2章17節)と記されているように、このような「不思議」の中に神様は働かれ、私たちに力と導きを与えてくれるのだと思います。
そしてその「夢」は私が見たような分かりやすいものだけではないのでしょう。それは時に礼拝の中に現れるかもしれません。あるいは友との語らいの中、大切な人との日常の中、楽しい時、苦しい時、私たちに現れるものかもしれません。しかしそれらの「夢」あるいは「幻」は、その人の信仰の力と礎になるものでありましょう。
今のこの世界は、様々な目に見えるもの、見えないものからくる困難に溢れかえり、人々は即効性のある「物」や「成果」を求めています。それらももちろん必要であることは確かでありますが、しかし私たち信仰者はそこで一歩立ち止まり、自分たちに希望と力を与えてくださる方の「不思議な夢、幻」に目を向けて見ることが大切だと思います。
自分たちの信仰の原点や転換点には、必ず神様からの「不思議な夢」があり、それが私たちの推進力になっているはずなのです。それをこのような時だからこそ、思い起こしてみてはいかがでしょうか?それに神様は、そのように日々歩む私たちに、新しい「夢」をも与えくださることでしょう
福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓