教区報
教区報「あけぼの」 - メッセージの記事
クリスマスメッセージ「和解の王として来られたイエス・キリスト」2018年12月号
東北教区の皆様にご挨拶申し上げます。12月より、大韓聖公会テジョン教区から移籍し、日本聖公会東北教区司祭として働くことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
神に似せて造られたはずの人の姿が、美しくではなく、むしろだんだん醜くなっているようで胸が痛みます。誤った人間の姿が、あちこちに現れているように感じます。それにもかかわらず、愛である神様は、人間の姿で私たちのもとに来てくださいました。皆さんの上に豊かな恵みと、世には平和と愛が豊かにありますように願います。
神様の姿から遠くなってしまった私たちのために、神様はご自身で私たちのところに来られました。預言者アモスを通して義を、預言者ホセアを通して愛を示され、預言者エレミヤは涙を以て私たちが新たに生まれることを叫び続けたのです。洗礼者ヨハネは「悔い、改めよ。天の国は近づいた。」と叫びました。また、続けてこうも叫びました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マタイ3:1〜3)
人と人との間に、隣人と隣人との間に、国と国との間に、憎しみと紛争がいつもあります。その憎しみのあるところに、幼子イエス・キリストは来ました。憎しみがいっぱいあるところに愛が溢れるようにするために、メシアとして私たちのところに来られたのです。
人と人との間、隣人と隣人との間、国と国との間の対立と紛争は、まさに人の高慢さが生んだ競争心理からくるものです。しかし、平和の王、イエス・キリストが来られたので、いと高きところには栄光、地には平和が訪れました。正しいことにより過ちが、明るさより暗さが、真実より偽りが横行するこの世に、幼子イエス・キリストが光としていらっしゃいました。光は闇を追い出します。
幼子イエス・キリストは仕えられるためではなく仕えるために来られたので(マタイ20:28)、私たちも人から慰められ、理解され、愛されるより、他の人々を慰め、理解し、愛さなければなりません。イエス・キリストは、この貴重な教えを十字架の上で実現するためにいらっしゃいました。
和解の王として来られたイエス・キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言います。許しと和解は、キリスト教の最も大切な教訓です。神様は愛の神であり、同時に許しの神です。許さなければ許されません。他人を許して、それによって自分も許しを受けて、まさに私たちが飼い葉桶で生まれ変わることに、クリスマスの本当の意味があるのでしょう。許しと和解、そして愛の幼子イエス・キリストが東北教区共同体に言われます。「私が生まれた飼い葉桶で、東北教区共同体も生まれ変わるでしょう。」
仙台聖フランシス教会 牧師
司祭 ドミニコ 李 贊煕
あけぼの2023年3月号
巻頭言 東日本大震災メッセージ 「がれきを拾う」
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」
(ルカ16:10)
阪神淡路大震災から28年が経ち、まもなく東日本大震災からは7年、西日本豪雨からは5年がそれぞれ経過しようとしています。それ以外にも日本全国で規模や被害の大きさはそれぞれですが、自然災害が起きています。
私は阪神淡路大震災も東日本大震災も被災はおろか、ボランティアの経験もありませんでした。私のボランティアの初めては熊本地震の時でした。当時は熊本城が被害に遭ったことなどがよく報道されていましたが、主な被災地域は益城町という小さな集落でした。梅雨時期ということもあり、大雨の中、倒壊した自宅横に張ったテントの中で生活している人などにお声がけして手作りのおかずを持って訪問しました。晴れの日には肌を刺すような日差しの中、ブロック塀を撤去し、土のう袋に詰める作業や被災したお寺のがれきを運ぶ作業をさせていただきました。たった3週間の短い期間でのボランティアでしたが、教会の中だけでは出来ない学びの多い経験でした。
その2年後、山陽を中心とした西日本豪雨災害が発生し、私はボランティアセンターのスタッフに任命されました。社会福祉協議会の指示のもと、土砂のかき出しやがれきの撤去作業をさせていただきました。
ボランティアには色々な思いを持って皆さん来られます。熊本地震では、熊本城の修復に関われると意気込んで来られた方もよくおられました。西日本豪雨では、ニュースで連日報道されていた被害の大きな地域に行けると思って来られた方もおられました。社会福祉協議会を通さないで別の被災地域に行こうとされる方もおられました。被災地で自分の行なっているNPO法人の活動を宣伝する方もおられました。トラックや重機を借りて作業したいという方や、避難所に行って被災して困っている人と交流したいと言われる方もおられました。ボランティア精神にあふれた熱意ある善意は実に多種多様で、本当に色々な思いを抱えてボランティアに来られているんだなと感じました。
しかし、実際にボランティアに出来ることは限られています。土砂崩れが起きたばかりの危険な場所へは行けませんし、全壊しそうな建物には近づけません。道具も作業時間も限られ、細かく地道で疲弊する作業が連日続きます。什器や大きな道具を使った派手な作業は行政などから委託された業者の方がされます。避難所などへは医療従事者の方々が行かれます。私たちが出来ることは、お祈りとひたすら0がれきを拾う手作業などだけです。それに対して、不満を持つ方もやはりおられたことを記憶しています。
しかし、そのがれき一つを拾うことからボランティアは始まります。足元に落ちているがれきに目を向けられず、大きな目標や理想のボランティア像ばかりを目指しても、被災者の本当の気持ちには寄り添えないのです。
起こってほしくはないですが、おそらくいつか災害は起こるかと思います。その時に私がどのような立場にいるのかわかりません。しかし、目立たなくていい。大きなことができなくていい。静かな祈りと共に足元の小さながれきを拾うことを大切にできたらと思います。
八戸聖ルカ教会副牧師 司祭 テモテ 遠藤洋介
あけぼの1月号「2019年新年メッセージ」をアップしました。
あけぼの1月号、新年メッセージ「わたしにできることを献げます みんなで力を合わせて献げます」を主教室より内、主教メッセージに掲載いたしました。
下記リンクよりご覧ください。
あけぼの2023年4月号
巻頭言 イースターメッセージ 主の復活は全てを結び直す」
キリスト教における「復活」とは、もちろん主イエス・キリストの十字架の詩と葬り、そして復活と昇天によって完成された、人間の「罪の死」からの解放を指す言葉であり、私たちを罪から救い出し、永遠の命へと導いてくれる神様の恵みです。そしてそれは、女性たちが「恐れながらも大いに喜び~弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28:8)とあるように、人間を絶望から希望へと「復活」させてくださる恵みでもあります。
そんな大いなる恵みである主の復活ですが、すでに3年を過ぎた新型コロナウイルス感染症という未曾有の事態、あるいは1年前から起きているウクライナへのロシアによる軍事侵攻を目の当たりにして生きている私には、これらの恵みに加えて「全ての分断を結び直す」という復活の恵みも神様に与えられていると感じてならないのです。
世界は今現在様々な「分断」に溢れています。ウイルスは人々の顔に「マスク」という分断をもたらし、人の笑顔を見えにくくしてしまいました。またこの事態は、以前から進んでいた人々の「電脳空間」への依存を加速させ、本来人が直接出会うことで感じる温もりや喜怒哀楽といった人の心の間に「分断」を作り出し、心ない言葉の暴力を平気で世界に発信出来てしまう人間を増やしてしまいました。加えて1年前に始まってしまったウクライナ侵攻は文字通り世界を「分断」しました。
しかしこのような「分断」ばかりの世界にあっても、やはり希望は主イエス・キリストにこそあるとも感じられるのです。2023年の1月に久しぶりに開催できた「中高生プログラム」においては、教会に集い笑顔で未来を語り合う、子どもたちの姿を見ることが出来ました。またこの3年間、今まで通りとはいかない中でも、やはりイエス様を中心として集う日々の礼拝には信仰と祈りの輪が実現していましたし、そこにある「人と人」「人と神様」の繋がりは、確かなものとして存在していたからです。
これらのともすれば当たり前にも思えることが、今の世界で「復活」させなければならない「分断を超えて結び直すべきもの」であるのだと思います。そしてその中心にはイエス様がおられるのだと、私は確信しているのです。
そしてこの事実は私たちに、今のこのような世界にあっても、私たちは決して絶望することも、その必要も無いことを教えてくれます。何故ならこの未曾有の事態が広がる世界にあっても、主の復活の恵みは確かに働いているからです。確かに目に見える部分では、以前よりも後退してしまったと感じられる部分もあるかもしれません。しかし逆に言えば、私たちはイエス様が教えるように「最後まで耐え忍ぶ者」(マタイ24:13)として、今この時立ててもいるのだと思います。
だからこそ私たちはこの主の復活を祝うこの時に、ますます力づけられて、「今の世界に不必要な分断を無くして全てを結ぶ、神様の復活の奇跡が、確かに教会にある」ということを、少しずつでも広げていこうではありませんか。またこの4月には、新主教の按手・就任という、教区としてのまさに「新しい命」の歩みが始まろうとしているのですから。
福島聖ステパノ教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓
「恐れ戸惑いながら、思いを巡らせる〜東日本大震災から8周年の時に思うこと〜」あけぼの2019年3月号
恐れにとらわれ
さまよう闇路に
ひるまぬ心を
お与えください
いかなる時にも
あなたはともに
神よ力を
生きる力を
(日本聖公会聖歌集477番)
「想像力を失わないでください」と東日本大震災発生時に呼びかけられた加藤主教の言葉、そして「人が一人もいなくなってしまった街って想像出来ますか?」と大切な友人に尋ねられた時に何も応えられなかったことを、今思い出しています。
怖くて情けないぐらいに、私の中で東日本大震災が過去の出来事になってきてしまっています。「3.11」と記号化してしまっている自分がいます。
今年のお正月に家族で八戸から福島県いわき市に住む両親のもとへ車で帰省して常磐道を走って道路から見える景色を見たときに、行きは夜になってしまったので漆黒の闇の中を走りました。帰りは昼間でしたので景色が見え、その時に飛び込んできた情景が脳裏に焼き付いています。
また、両親の家で書棚にあった震災で家族を亡くした方の手記が何気なく目にとまりました。つい先日は八戸の図書館で『3.11を心に刻んで』(岩波書店編集部)という本が妙に気になって借りて読みました。
想像力を失っていた私に与えられた出来事は一体何だったのだろうかと思い巡らせています。
「大震災に思うこと」という原稿依頼を頂いた時に正直何を書けばいいのだろうかと迷いました。そんな時に与えられた聖書のみ言葉がありました。
今年の1月20日(顕現後第2主日)は、福音書でカナの婚礼の物語が読まれました。婚礼に招かれたイエス様が水を芳醇なぶどう酒に変えたという有名な奇跡物語です。この中でイエス様とマリアのこんな会話のやりとりがあります。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。(ヨハネ2:3〜5)
イエスの言葉は一見とても冷たく聞こえます。しかし、母マリアはイエス様が示されようとした「時」を待つのです。考えてみればマリアの生涯は天使ガブリエルから受胎告知を受けた時から「恐れ戸惑い」の歩みだったと思うのです。しかし、彼女はそれらの出来事すべて思い巡らせて心に留めて生きられました。
この世の時間軸では恐れ戸惑いの連続です。特に私が今思うのは想像力を失ってしまっている己の姿に恐れ戸惑っています。そんな私に主はみ言葉を通して、今再び震災が過去の出来事ではなく今も悲しみ、苦しみ、怒り、むなしさの中で今を生きている被災者の方々や被災地のことを思い巡らせる力を与えてくれました。神様が与えてくださる「時」の中に生きようとしたマリアのように生きるようにイエス様は私たちを招いてくださっていると思います。
八戸聖ルカ教会牧師 司祭 越山 哲也
あけぼの2023年6月号
巻頭言 新主教メッセージ 「ご挨拶」
4月22日、公会の主教に聖別されました大きな大きなお恵みを感謝し、神さまを賛美いたします。みなさまには、ご臨証ご加祷また沢山のお祝いを賜り有り難うございました。
主教按手式約1ヵ月前、北海道北斗市にある厳律シトー会・灯台の聖母トラピスト大修道院で、3日間リトリートの時を過ごし、その後も私は修道士たちの祈りに支えられて立っていられると、根拠もなしに信じています。按手式では、聖公会と他教派の全国の信徒、聖職のみなさんの祈りの力で、この私が保たれているのだと強く確信させられました。これまで、聖餐式の代祷で、首座主教さまや教区主教さまのお名前を読み上げて祈ってきたように、私の名前も同じように唱えていただきますよう切にお願い致します。
さて現在、私たち日本聖公会は重大な地点に立っています。それは、宣教に関わる、伝道教区制導入による教区再編という喫緊の対応を迫られているからです。今回、東北教区が主教選出に至ったのは大きな決断でした。数少ない教役者からの選出です。それ故、各人がその後の牧会で疲労して倒れないような工夫、いわゆるチームミニストリーの確立と、信徒の奉仕をプラスするトータルミニストリーの発展が鍵を握っています。
東日本宣教協働区である東京教区、北関東教区、北海道教区と東北教区の4教区の協働体制の、その前段階となる北海道と東北の2教区間における宣教協働を進めなければなりません。その足がかりとしてすでに、昨年の両教区の教区会で共通の議案「東北教区・北海道教区宣教協働タスクフォース設置の件」を議決して、本年3月から動き始めています。
本協働体の名称は「チーム北国」といいます。チーム北国の会合開催地は1ヵ月毎に札幌と仙台を行き来することにしています。お互いの本拠地に訪ね合うのは、お互いを知るのに適しているでしょう。
両教区が所有してきた信仰の財産、宝、例えば幼稚園や保育園の幼児教育、キリスト教保育を実践してきていること、一個一個の教会間の距離は遠くても信仰で固く結ばれていること、長い辛い厳しい冬をやり過ごし復活の新しいいのちを待つ辛抱強さ等々沢山あります。
加えて、2011年の東日本大震災後は、被災者支援に両教区は人材派遣交流をして協働した実績を共有しています。もちろん全教区協力が今日まで継続しています。被災者との「いっしょに歩こう!」はいつまでも続く教区の重要な宣教の一つです。
過疎化の著しい東北と北海道が、持続可能な教区と教会に変革していくというこれ以上ない困難ではあるけれども、非常に歴史的な使命を私たちは神さまから委託されているのです。私は現在65歳です。チーム北国では、宣教協働区の一つの形の出現を5年後に想定しています。神さまがしつらえたかのようで、私の定年退職の年になります。それまで「私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽い」との慰めの言葉に、私は全く頼って参ります。私たちは、北海道教区と東北教区の将来のため一致・協働し祈り続けて行ければ誠に幸せです。
主よ、どうか、我と日本聖公会が行く道を守り導き、主の僕として御心にかないますように アーメン
第9代東北教区主教 主教 フランシス 長谷川 清純
5月号巻頭言 イースター・メッセージ「ここにはおられない」
あけぼの2019年5月号の巻頭言はイースターメッセージです。
「主教室より」の主教メッセージに掲載いたしましたので、下記リンクよりご覧ください。
あけぼの2024年1月号
巻頭言 クリスマスメッセージ 「静寂の中に響く声」
決して専門家ではありませんが、先ずは俳句の句から。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句。ここで味わうべきは、「水の音」と表現されているものの、実は無音、静寂、沈黙と言っても過言ではありません。水の音によって響いた沈黙の世界の余韻、これがこの句の本来の味わいだと言われます。
あるいは、「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」に至っては、もっと鮮明に音の背後にある沈黙の世界を浮かび上がらせています。蝉の声は静けさどころではありません。しかし「静けさ」ではなく「閑けさ」と呼んで深閑と静まりかえる寺のその閑けさを、岩にしみ入る蝉の声から聴いた、というのがこの句のもつ趣なのでしょう。つまり、強音の背後に隠れた負の世界を感じる芭蕉の感性がそこにあると言えます。
こうした俳句の世界にも見られる「負」に対する感性が薄れてきて、結果、現代人が無音に弱くなってきた、現代は無音や沈黙の世界が失われつつある、そう評するあるオーディオ評論家のコメントに、だから大きく頷きました。同時に、そのような音に関する現状が、音の世界だけではなく、強音に引きずられて弱音を聞き取れないという「精神構造」をも生み出しているのかもしれない、そんなことも思わされます。声なき声を聞き取ることができない、強い主張をする人に押し切られてしまう会議などです。
さて、この「深い沈黙」「無音の静寂」の世界の大切さを心に留めながら、思い出したい場面、それが最初のクリスマスの夜です。私たちはこの場面を、クリスマス・クリブや聖画を通して、映像的には案外容易に思い巡らすことができるのかもしれません。しかし「劇/絵/画像」でなく、これを音の世界でイメージしてみるとどうでしょうか?
そこにはやはり、「深い沈黙」「無音の静寂」の世界があったのだと思うのです。馬小屋のみならず、クリスマスに纏わる様々なシーン、すなわち聖母マリアが天使からみ告げを受けたときも、羊飼いたちがみ告げを受けたときも、クリスマスに纏わる場面はどれも、深い静寂の世界があり、だからこそ天使の声が響いたのだと。詩編に「語ることもなく、言葉もなく その声は聞こえない。その声は全地に その言葉は世界の果てにまで及んだ」(詩編19:4-5)とある通りで、まさにそれが世界で最初のクリスマスだったと思うのです。星が昼間の明るさの中で見えないように、希望と言う名の光、あるいは音は、暗闇や静寂があってこそ心に響いてくるのだと。
クリスマス、私たちは目に見える明るさや心を躍らせる音にばかり心を奪われていないでしょうか。政治家は信用ならない、経済の先行きは不透明、戦争は起こる、私生活においても悩みや不安が残念ながらある…確かに今世界はそんな状態です。しかしこういうときこそ、実はキリストの光の眩しさが、静寂に染み通るキリストの声が、私たちの心に力をもって届くときでもあることを信じていたい、そう思います。
すると必ずや、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の声が聞こえてくるのだと思います。今年のクリスマス、その声をご一緒に聴くことができますようにと祈りつつ。
仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言
あけぼの2020年1月号
巻頭言 クリスマスメッセージ「インマヌエル」
クリスマスおめでとうございます。
偉大なお方の死後、そのお方の一生を振り返る時、その誕生も物語られるでしょう。ご復活されたお方の誕生は、さぞかし輝かしい瞬間として歴史に刻まれたでしょうか?マタイ伝とルカ伝の記録は、あまりにも普通と言えば普通、ごくありふれた庶民の場合と同じと言えば同じご様子でした。
しかしながら、その日常の中に神様の御業が現れてきます。その神の御業を御業として、きちっと受け止められるかどうかで、状況は180度違う方向、結果へと誘われていきます。エリザベトは敏感に感じ取り恵みを分かち合い、羊飼いたちは自分の目で確かめようと行動し、3人の博士たちは後々の事態を暗示する品々を献上し、マリアとヨセフはこの出来事を心深くに留め続けて、その後の人生を営んでいくことになりました。
「インマヌエル」これが御子の存在意義を表現する、伝統ある言葉です。その意味は「神は、我々とともにおられる」です。御子と神がごいっしょされておられるように、神は私たち人類とごいっしょしておられるのです。ここに、神の愛が現れました。
神は人類の罪を赦すために、神の独り子をこの世にお遣わしになられました。その独り子の名をイエスとされました。その時まで神を見た者は一人もいませんでした。神を知らない世界ではなくて、神を知る世界を到来させるために、御子を現されたのです。その御子を人類が目の当たりにして、神を信じる為です。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ伝14:6-7)
御子に神の愛が詰まってます。12弟子たちは傍近くでこの方を見、お話を聞き、語り合い、触れ合ったので、神の愛に出会ったのです。その弟子たちが後世に語り伝えた物語が、福音書に満載されているのです。ですから、私たちは聖書特に福音書を通して、御子イエスに出会うのです。出会いによって、神の愛に触れる訳です。また、私たちが経験する出来事の中でも神と出会っていきます。その出会いの中でやはり神の愛を感じ取っていくのです。
私たちは、それ故イエスの言動を注意深く、信仰深く読み取って、イエスのお心を探ります。イエスの人間理解、人としての生き方、考え方、神に対する信頼が分かりますと、それを私の生き方としたいと強く求めるようになります。そうして、イエスの思考が私の思考になり、イエスの生き方が私の生き方になり、イエスの行いが私の行いになりますようにと願うようになります。イエスの生き様を捉えて、そのまま私の生き様になるようにイエスに倣いたいと切に思うようになります。聖パウロが言うキリストをこの身に着たいのです。キリストという服を常時着用していたいのです。この服には「愛」「大事に」「大切に」というプリントが付いています。この服を着て互いに大事にし合えば平和を呼び寄せ、平和へと歩を進めていけます。
クリスマスのお恵みが皆様一同にありますように。
アーメン
司祭 フランシス 長谷川清純(仙台基督教会牧師)
あけぼの2024年2月号
巻頭言 新年メッセージ 「ガリラヤの地」
新年明けましておめでとうございます。先月号にクリスマスメッセージが載りましたから、一ヵ月遅れですが今号で新年の御挨拶を申し上げます。
しかしながら、元旦夕刻に能登半島地震が発生、2日夕方には羽田空港航空機衝突炎上事故が続き、心痛む、重たい気分の新年となりました。特に能登半島では強い余震が頻発し、日を追うごとに被害の大きさ、深刻さが報道されています。
それにしても、当初情報が少なく被害の実態や救援活動の状況が分かりませんでしたから、本当に心細くいたたまれない思いでした。情報が無いというのは人々を不安にさせます。
2011年の東日本大震災後被災者支援の先頭に立たれた加藤博道主教は、ある日のメッセージで私たちに「想像力」を要求しました。すなわち、被災地でない地域・遠くにいる人たちは普段どおり生活している訳だけれども、今、被災地にいる・避難所にいる人たちはとっても寒いだろう、腹を空かせているだろう、淋しいだろう、泣いているだろう、痛んでいるだろう、と想像してください、と私たちを諭しました。
被災された知らない人たちのことを思うのは難しいことです。しかし身近に関係する要因があれば、思うことが少し可能になります。あおの土地に行ったことがあるとか、そこはあんな風景だったとか、友人があそこにいるとかです。
震災後やや時間が経過して、一般人たちが全国から、海外から被災地に来られ、ボランティアをしました。その人たちは、自分の目で見、肌で感じ取ったので、想像しなくても被災された人たちに想いを寄せられました。その時から彼ら彼女らは、被災された方々の隣人になりました。
マーガレット・パワーズさんの「あしあとFoot prints」という詩で、「私の人生でいちばんつらく、悲しい時」砂の上に残されたあしあとが一つしかなかった、何故と問うと「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」と謳います。
人生苦難に喘いでいる最中に、イエス様がその人をおんぶしておられる、という最高に有難い真実が、殊更に大きなお恵みが、とてつもなく深い慈愛が告白されています。
2011年、私は震災後一カ月ほど現地を駆け巡って、ご復活の主イエスが言われた「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」、「恐れることはない。きょうだいたちにガリラヤへ行くように」とのお言葉を正に聞かせていただきました。
それ故、私たちと常にご一緒におられる主に、私たちが神から遣わされているここ東北というガリラヤでお目にかかれるというものです。私たちと共におられて、苦難の時に背負って歩いてくださり、歩んでくださる主を見つめましょう。今、私たち信仰者は、能登半島地震の被災地にいる皆さまや、ガザの人たちや世界中で被害を受けている人たちの状況・心境を想像してお祈りで繋がりましょう。想像力を持って粘り強く、辛抱強く祈り続けましょう。
教区主教 主教 フランシス 長谷川 清純
「クリスマスは闇からの開放」2015年1月号

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される…ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」
降臨節第一主日イザヤ書2:1~5
平和であった日常の生活が一変した2011年3月11日から3年と9ヶ月の時が流れ、今私たちは4度目のクリスマスを迎えます。笑顔を見せながらも悲しみとやり場のない怒りを抱えたままの生活が今も続いています。 一昨年のクリスマスイブが思い出されます。忘れることの出来ない礼拝でした。イブ礼拝の数日前、私たちの教会の婦人会長さんが突然神様の元に旅立たれました。姉妹は震災で全壊となった教会会館の再建を目指し日夜奔走され、全国募金で感謝の会館が完成した翌日のことでした。あまりの突然の訃報に信徒一同呆然として頭が真っ白になったことを思い出します。とてもクリスマスを祝う気持ちにはなれませんでした。 そんな思いの中でイブ礼拝が行なわれました。礼拝堂はさながらレクエムのようでした。いつになく礼拝堂は沢山の人、人でいっぱいでした。ろうそくの優しい光が礼拝堂を包み聖歌が流れました。その時でした、礼拝堂後方からいつもの透き通るような歌声が聞こえてきたのです。私を含めて何人かの信徒の方がその声に気づき思わず後ろを振り向きました。不思議な体験でした。
クリスマスはとても不思議な出来事です。おとめマリヤから聖霊によってみ子イエスが誕生しました。それも遥か古より約束されていました。それは人々を解放するためでした。幼子イエスが人々を笑顔にし、解放していくのです。事実起きたことを信じるのが現実の世界とすれば、必ず起こると思うことでクリスマスの出来事のような確信が生まれてきます。パウロは「信仰とは望んでいることを確信し、見えない事実を確認すること」だと言っています。信じるに足る出来事が起こってその上に確信があるように思います。
私は、光を求めているはずなのに、時々闇の中に居る方が居心地が良いことに気づくことがあります。人は本能的に闇が好きなのではないかと思ってしまいます。しかし今回の震災によって、私たちは深い闇の中に取り込まれました。クリスマスは再び私たちを光の中に呼び戻そうとしています。イブ礼拝で敢えてほのかなロウソクの光を演出します。不思議と心が和み落ち着きます。光は何を私に見せてくれたのか。ほのかに映し出された人の姿だけでなく、自分自身の心模様が映し出されたと感じました。しかしもう少し目をこらすと、傍に居る人の、光に照らされたその人の生き様が見えてくるような気もします。
闇は決して解放には至らないことを、身をもって知らされたのも事実です。それは理解するより感じることでした。闇は谷底の洞穴かもしれません。一度入るとなかなか出にくいものです。主の山はこの世で一番高い山です。頂上からはこの世の全てを見渡すことがでます。光を浴びてもはや隠れることは出来ません。主は言います。「イスラエルよ、もう闇を出て光の中を歩もう」と…。
あけぼの 2015年1月号より
司祭 ピリポ 越山 健蔵
あけぼの2020年2月号
新年メッセージ「教会を『開くこと』」
昨年の教区会で可決された『宣教方針(ミッション・ステートメント)』の「開くこと」の第1に「教会を地域社会に開きます」とありますが、どうすればよいのでしょうか。
どの教会にも礼拝案内やお知らせ等記した「案内版・看板」があります。またそこには、プロテスタント系の教会にはしばしば見られますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)」という、有名な聖句が掲げられているのをご覧になったことがあると思います。これは人生に疲れている私たちに呼びかけられた、イエス様の招きの言葉でありましょう。
しかしこの聖句は誤解を招きやすい言葉でもあります。と言いますのは、何かしらの重荷を負って歩む人生に疲れている私たちは、「休ませてあげよう」とか「安らぎを得られる」という言葉に、真っ先に目が行ってしまうからです。新約学者の速水敏彦司祭も「この言葉を、私は長い間、イエス様の膝枕で、いや、イエス様の懐の中でぐっすりと眠ることだと理解していました」と、ご著書の『新約聖書 私のアングル』の中で書いておられました。
しかし、イエス様の御言葉は「休ませてあげよう」で終わっているのではなく、次の言葉が続いています。「わたしの軛
を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
軛というのは、二頭の牛をつなぐために用いられた道具のことです。イエス様が生きておられたパレスチナでは、牛のサイズをよく計ってから、木で軛を作り、牛の首を痛めないように、丁寧に調整したと言われています。牛の人生がこの軛を負って労働することであるように、私たちもそれぞれ、その人なりの人生の重荷、軛を負って歩んでいます。時には自分の力では負い難い、捨て去ってしまいたいという誘惑に駆られることもあります。そのような時に、「休ませてあげよう」とか「安らぎを得られる」というのは、その軛を取り去られること、束縛や重荷からまったく自由になって、束縛や重荷から気ままに振舞えるようになるということではありません。そうではなく、軛を負いやすくなるということなのです。
先にも言いましたように、軛は二頭の牛をつなぐために用いる道具です。私たちの負う軛のもう一方には、イエス様が同じ軛を負ってくださるのです。二頭の牛がひとつの軛につながれて、共に重荷を負い合ったように、イエス様が共に、私たちの軛をも負ってくださるのです。
教会を地域社会に開く時、きっといろんな方が訪ねてこられると思いますし。その中にはきっと「教会に来て安らぎを得たい」と願っている方もおられると思います。その時、私たちの教会が単なる仲良しグループなのか、イエス様の教会なのかが試されるような気がします。
私たち一人ひとりが「自分自身の重荷」と共に「他者の重荷」の一部でも担おうとする時、必ずイエス様がその両方を負ってくださることを信じて、教会を「開いて」行きたいと思います。
教区主教 主教 ヨハネ 吉田 雅人