教区報

教区報「あけぼの」 - メッセージの記事

「クリスマスは闇からの開放」2015年1月号

キリスト降誕

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される…ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」
降臨節第一主日イザヤ書2:1~5

 平和であった日常の生活が一変した2011年3月11日から3年と9ヶ月の時が流れ、今私たちは4度目のクリスマスを迎えます。笑顔を見せながらも悲しみとやり場のない怒りを抱えたままの生活が今も続いています。 一昨年のクリスマスイブが思い出されます。忘れることの出来ない礼拝でした。イブ礼拝の数日前、私たちの教会の婦人会長さんが突然神様の元に旅立たれました。姉妹は震災で全壊となった教会会館の再建を目指し日夜奔走され、全国募金で感謝の会館が完成した翌日のことでした。あまりの突然の訃報に信徒一同呆然として頭が真っ白になったことを思い出します。とてもクリスマスを祝う気持ちにはなれませんでした。 そんな思いの中でイブ礼拝が行なわれました。礼拝堂はさながらレクエムのようでした。いつになく礼拝堂は沢山の人、人でいっぱいでした。ろうそくの優しい光が礼拝堂を包み聖歌が流れました。その時でした、礼拝堂後方からいつもの透き通るような歌声が聞こえてきたのです。私を含めて何人かの信徒の方がその声に気づき思わず後ろを振り向きました。不思議な体験でした。

 

 クリスマスはとても不思議な出来事です。おとめマリヤから聖霊によってみ子イエスが誕生しました。それも遥か古より約束されていました。それは人々を解放するためでした。幼子イエスが人々を笑顔にし、解放していくのです。事実起きたことを信じるのが現実の世界とすれば、必ず起こると思うことでクリスマスの出来事のような確信が生まれてきます。パウロは「信仰とは望んでいることを確信し、見えない事実を確認すること」だと言っています。信じるに足る出来事が起こってその上に確信があるように思います。

 

 私は、光を求めているはずなのに、時々闇の中に居る方が居心地が良いことに気づくことがあります。人は本能的に闇が好きなのではないかと思ってしまいます。しかし今回の震災によって、私たちは深い闇の中に取り込まれました。クリスマスは再び私たちを光の中に呼び戻そうとしています。イブ礼拝で敢えてほのかなロウソクの光を演出します。不思議と心が和み落ち着きます。光は何を私に見せてくれたのか。ほのかに映し出された人の姿だけでなく、自分自身の心模様が映し出されたと感じました。しかしもう少し目をこらすと、傍に居る人の、光に照らされたその人の生き様が見えてくるような気もします。

 

 闇は決して解放には至らないことを、身をもって知らされたのも事実です。それは理解するより感じることでした。闇は谷底の洞穴かもしれません。一度入るとなかなか出にくいものです。主の山はこの世で一番高い山です。頂上からはこの世の全てを見渡すことがでます。光を浴びてもはや隠れることは出来ません。主は言います。「イスラエルよ、もう闇を出て光の中を歩もう」と…。

 

 

あけぼの 2015年1月号より
司祭 ピリポ 越山 健蔵

クリスマスメッセージ「感謝と賛美はわたしたちの務め」2014年1月号

1638378 雨つぶてが激しく窓を打ち叩き、風が傍らでウォーウォーと不気味な声で吠えたてる。途端に外の暗闇が突如、部屋に踏み込んできて何も見えなくなった。「停電だ」。とっさに「ローソク」をと思ったが、明るさに慣れていた眼は突然襲った暗い闇に即応できずオロオロするばかり。それでも手探りしながらサイドボードの燭台をゲットし、それを食卓の真ん中に取りあえず置く。ここでマッチの必要に気づく。「マッチ、マッチ、マッチはどこだ」と言いながら探していると、「マッチは返事しないのよ」と妻の声。それあらは黙々と探す。喫煙者のいない我が家ではマッチの存在感は薄い。引き出しを幾つか開けてようやくマッチに出会った。「マッチ見つけたよ」とまずは凱歌を挙げる。ローソクだけあってもマッチがなければ、ローソクはその役目を果たせない。これからはマッチは燭台の側に置くべきを悟る。「ローソクにはマッチ、コーヒーにはクリープ、ブレッド・アンドバター、ハム・アンド・エッグ、われ鍋にとじ蓋か」と、ひとり言する。

 

 さて、マッチを擦って希望の灯をともそうとするが、引き出しの奥に長いこと眠っていたマッチは湿っていてなかなか発火しない。それでも一本また一本と、今度こそはの期待と祈りを込めて辛抱強くマッチを擦り続ける。気がつけば「今さら何を言っているのさ」の演歌を口ずさんでいた。溜っていた自嘲と諦めのほとばしりだったのか。 マッチは発火しそうもない。

 

 はじめは必ず発火させてみせると強気だったが、そんな気も萎えてしまい、そろそろ電気がつく頃ではという気持ちが膨らんでくる。そんなときにマッチが発火。この時を待ち構えていたローソクにようやく火が灯った。部屋の中の形あるすべての物が不思議な影を作って浮かび、仄かに灯るローソクの火を、何か珍しいものででもあるかのように、じーっと見ているようだ。

 

 静かで平和な時が生まれている。妻が「クリスマスみたいね」と言った。そして誰からともなく「きよしこの夜、星はひかり」と歌いだしたら、ほんとにクリスマスを祝っているような気分になってきた。だが猛々しい風が夜の闇を切り裂いて我が物顔に走り回る。隙間風がローソクの灯を消そうと躍起になる。小さく灯る炎が小刻みに震えて消えそうになる。ああ、私の信仰の火もかくあったなと、来し方を回想する。

 

 そういえば「赤ちゃんが生まれました」との知らせを受けたその瞬間は、子の命を授かって親とされた瞬間でもあった。神がわたしたち夫婦に託された、この腕に抱かれている命は、わが命の限り守らねばならない命。伝わってくるこの新しい命の鼓動を感じていると、自分の中にもそれに呼応するかのように新たな力と希望が沸いてくる。 この世の救いのために人間のかたちをとってまでしてこの世に受肉されたイエスさまのこころこそが、私たちにとっての力であり希望の源。この恵みこそクリスマスの喜び。すべての人を照らすまことの光。このことを忘れまい。 今、自らの身を燃やして周りを明るく照らすローソクの火を目の前にしながら、わたしたちの救いのために地に来られた神さまの愛に応えるための私たちの努めは感謝と賛美。風雨は激しく夜の闇は深い。

 

しかし、明るいあしたは近い。

 

 

あけぼの 2014年1月号より
主教 ヨハネ 佐藤 忠男